Alfred-Laimyさん のコメント
このコメントは以下の記事についています
さて、そういうわけで、きのうの記事の続きです。「家族2.0」の話。
いやまあ、それほど大げさなアイディアではないのですが、ようするにこれからの「家族」は「血縁」に限られないはずだということです。
「小説家になろう」などを見ていてもわかるのですが、ひとが幸せになるための条件をゼロベースで考えていくと、どこかで「家族」という概念が出てきます。
これは現代の心理学の知見にも合致したもので、やっぱり人間にとって家族の存在は大きいわけです。
そう、むろんひとり孤高を保つ人はいるにせよ、人が孤独から逃れ豊かな人生を生きるためにはどうしたって「家族」が必要な側面がある。
でも、いまの時代、その「家族」とはいわゆる「近代的家族」に捉われる必要はないということです。自分で好きな人と好きなようにファミリーを築いていけばいい。「血縁」、あるいは「恋愛感情」は必ずしもそこで必須だとは思いません。
ぼ
ご無沙汰です、その節はありがとうございました。
今回もご意見ありがとうございます。可能な限りお答えしたいと思います。
まず大きな認識の齟齬があると思われるので、その確認からさせてください。
「家族」が共有するものは「重荷」だけではなく、歓びも悲しみも含めた様々な体験や感情、そして大切だと思うものです。その共有は自ら進んで受け持つべきものなのです。時には嫌々ながらにもなるでしょうが、それでも“嫌々ながら自発的に”受け持つのです(例に挙げた京介のギャルゲ配達がコレです)。この“自発的”というのが家族にとって大きなポイントで、それが家族の信頼関係だと僕は考えます。決して相手に要求するものでも、ましてや押し付けるものでもないのです。
「一人で他者の人生を背負うことは無理」という意見には大いに賛成です。それはもはや自分の人生ではなく、他者の人生を生きる事ですから。あるいは「それこそ私の生きがいだ」という人が居るかもしれませんが、そんな人は他者の人生を歩み終えたあとに、例外なく大きな喪失感に直面するでしょう。
大切なのは「あらゆるものを共有する」ことであって、「全てを共有し、肩代わりする」ことでは決して無いということです。当然共有しきれないものだってありますが、それで良いんです。全ての肩代わりなど、人間ではなく神の所業。そこを間違えると破滅しかありません。
「重み(覚悟)を有している」、それも自発的に有するからこその「家族」であり、だからこそ特別な関係なのだと僕は考えるのです。強制されたらその時点で「家族」は崩壊し、ただの家族になり果てます(これがダークサイドの入り口ですね)。なので疑問点にお答えすると、「誰が」はこの自発性を有し、大切なものを共有する者です。「何人で」に決まった数字はありません。たったふたりでも何十人もの大所帯でも、その価値は変わりません。
ご覧の通り、恐ろしく重大なものをとんでもなく希薄な力でつなぎとめていますね。それが家族なんです。僕はこのとんでもなく希薄な力のことを「信頼」あるいは「家族愛」と呼びます。人間が持つ幻のように朧気な、それでいて鋼よりも固い最強の力のひとつです。
「家族2.0」に救われる人は間違いなく存在します。ですが、この希薄で強固な「家族愛」という観点が決定的に欠けていると僕は考えます。そしてその差は、人生の決定的な分岐点に立った時に、鮮明に表れてくるのではないかと思うわけです。その差が僕が言う「孤独」です。
如何でしょうか、疑問にお答えできていれば嬉しいのですが。
ここで答えた内容は、全て「家族」の“表面”の話です。別記事で海燕さんが指摘されている“裏面”のお話は、そちらのコメントを参照頂ければと思います(最も、あちらは少々論が拙いです)。
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