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フィービーさん のコメント

 久しぶりの記事、面白かったです(^^)
 もっとたびたび、記事を書いていただけると、嬉しいです。
No.1
60ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 うひー。疲れたー。もう書けねー。でも、書く! 2019年のまとめのはずが、ここまで『天気の子』の話題だけで終わっちゃっているものね。  さて、整理しましょう。まず、「セカイ系」とは何でしょうか? それは一般にこう定義されます。「ミクロな個人(きみとぼく)」のラブストーリーと、「マクロな世界」の危機をその中間点である「社会」を省いて描いた物語である、と。  杉田氏はこの「社会」をオミットして「セカイ(人間の手で変更不可能な状況)」を代入した(ように見える)ところを批判して、「シャカイ系」の物語をこそ描くべきだ、といったわけです。  しかし、ぼくにいわせればその種の「シャカイ系」の物語(リベラルな社会改革の物語)は、現代の視聴者層に響かない可能性が高い。  なぜなら、現実がきわめてきびしく、社会改革が容易ではないことが広く認知されているから。また、リベラルな社会改革の理想が一面で独善でしかありえないこともまた知られているから。  それでは、いまの若者にひびく物語とは何なのか? それが「人間の望みがまったく通用しないわけではないが、一方でかぎりなくきびしく、容易には変えられない現実の世界(=「新世界」)」を象徴的に描く「新世界系」です。  ぼくは『天気の子』もまた、そのような「世界」としての気候の問題を描出することで「新世界系」に足を踏み入れていると主張したわけですが、テン年代のより象徴的な新世界系作品は、何といっても『進撃の巨人』でしょう。  この作品で描かれる「人の数倍から数十倍もの背丈をもつ人食いの巨人がうろつく世界」は、まさに、あまりにもきびしい現実を象徴する「新世界」そのものです。  そこでは、初めに最弱の敵があらわれ、次に少しつよい敵があらわれ、そして最後に最強の敵があらわれる、といった『ドラクエ』的な「セカイの法則」は通用せず、「最強の敵がいちばん最初にあらわれることもありえる」という「世界の法則(グランドルール)」がむき出しになっています。  換言するなら、それは「物語」ではない「現実」を描いているのだ、ということもできるでしょう。したがって、そこでは「物語」的な面白さが成立しない。これは「新世界系」の致命的な問題点です。  それを、『進撃の巨人』はそれなりに安全で合理的な「社会(それはつまり、人間の内なる望みそのものである「セカイ」が外部化したものだともいえるでしょう)」と「新世界」を隔てる「壁」を設けることで解決しました。  単純にいうなら、「壁」の内側ではいくぶん「セカイ系」的な、あるいは「シャカイ系」的な物語が展開され、「壁」の外側ではまさに「新世界系」が繰りひろげられる、ということになります。  そういう意味では、『進撃の巨人』もまた「完全な新世界系」ではないのですね。「完全な新世界系」は、物語が始まったと思ったら主人公が突然死する、といった展開になってしまうでしょうから、エンターテインメントとして成立しないといえるかもしれません。  ようするに、あまりにもきびしすぎて面白くない。そういう意味では、「新世界系」とは原酒ではきつすぎて飲めない酒のようなものであり、どの程度薄めるか、という判断が必要になるように思えます。  そういうふうに考えていくと、今年ブレイクした『鬼滅の刃』などは、多少薄められてはいるにしろ、やはり新世界系に入るのかもしれませんね。というか、「新世界系」とは「ジャンル」ではなく「濃度」と考えるべきものなのかも。「新世界度数70パー」とか。  この「薄められた新世界系」の流れは2020年代にも続いていくものと思われます。LDさんが「新世界系はボリュームの問題だ」というのは、つまりそういうことなのでしょうね。ようやくわかった。  ただ、『進撃の巨人』そのものはおそらく2020年中に完結するものと思われます。あるいは、2020年は『進撃の巨人』完結の年、そして『エヴァンゲリオン新劇場版』公開の年として記憶されるかもしれませんね。楽しみ、楽しみ。  で、「純新世界系」は論理的にほとんどありえず、「新世界系」は「新世界濃度(新世界のボリューム)」で測るしかないとするなら、「新世界系」の定義をいままで考えていたよりいくらか広く取っても良いような気がします。  「新世界系」の特徴とは、「突然死」に象徴される「世界の残酷さ、理不尽さ」が唐突にインサートされることでした。  ようするに、「主人公の突然死」があっさりと描かれる作品が「純新世界系」といえるかと思うのですが、先ほども書いたようにそれはドラマツルギーが成り立たない。  なので、『進撃の巨人』のように、主人公が突然死した!と思ったらどうにか生き返るという、多少「薄められた」形が最もピュアに近い新世界系だといえると思います。  それよりもうちょっと「薄い」のが、主人公が不具になったらもう回復しないとか、わき役のキャラクターたちが次々と死んでいくといった形での描写になるでしょう。つまりは、「ポイント・オブ・ノーリターン」としての「不可逆的な展開」を描く作品は一定の「新世界濃度」がある。  べつのいい方をするなら、「新世界系」の特徴は「登場人物の永久的な死や身体欠損」に象徴されるような「不可逆的な展開」を避けないことである、といってもいい。逆にいえば、それを回避するたぐいの作品は、どこかしら「セカイ系」的であるということになる。  今年の映画で、ある意味では『天気の子』以上に印象に残った作品に、山崎貴監督の『アルキメデスの大戦』があります。この作品についてはさすがにあまりネタバレする気にはなれませんが、これも『天気の子』と同じく「残酷かつ不透明な世界で、おのれの信じることに殉じる姿」を描いた映画だと考えています。  ここには、「新世界系」の一種の「答え」がある。先ほどから繰り返し述べているように、ぼくたちが生きている現実世界で「正義」、つまり「社会改良」を実現しようとするとき、ふたつの問題点が立ちふさがります。  ひとつは、単純にそれが容易ではないということ。そして、もうひとつは、仮に改革を実現できたとしてもその結果、ほんとうに状況が改善するとは限らないということ。ぼくは前者を「社会の理不尽さ」、後者を「社会の不透明さ」と呼んでいるわけです。  この場合、重要なのは「不透明さ」のほうです。「何が正しいとなのか、まったくわからない」という「複雑で不透明な社会」においては、「素朴で単純な正義」は無益であるばかりか、有害ですらありえます。  だから、その「正義実現の困難」をまえにして「きみとぼくのセカイ」にひきこもったのが、『新世紀エヴァンゲリオン』を嚆矢とする「セカイ系」だといういい方もできるかもしれませんね。  で、セカイ系から「脱出」していく物語のなかで、「たとえ正義を実現できなくても、悪の行為を犯すとしても、行動する」という道を選んだ作品を、ぼくたちは「悪を為す系」と呼んでいます。『コードギアス』がその典型です。  そして、『アルキメデスの大戦』はこの「悪を為す系」の路線のその先にある作品だといっていいかと思います。  ただし、『コードギアス』のような過去の「悪を為す系」の作品においては、「世界を変える」という大義がその理由として必要だったのに対し、『アルキメデスの大戦』において「悪を為す」トリガーとなるのは、ある種の「美意識」です。  この場合、戦艦大和の造形的な、数学的な「美」こそが重要なのです。これは飛行機、そして戦闘機の美しさを追求した宮崎駿の『風立ちぬ』にきわめて近い印象を受けるテーマです。そしてまた、『天気の子』とも通底している。  系統としては「悪を為す系」なのだけれど、ここにおいてはもはや「世界を変えるためにどうしても悪を為さなくてはならないのだ」というマクロなエクスキューズが必要とされていません。  「愛」のため、「美」のため、というミクロな動機で「悪を為し」、そして「世界を滅ぼす」ことが肯定されている。  『風立ちぬ』で最後にたどり着いたところが「がれきの王国」であったように、『天気の子』で東京が水没しかけてしまったように、『アルキメデスの大戦』においては戦艦大和は沈没し、日本は敗戦します。  杉田氏は『宮崎駿論』のなかで、『風立ちぬ』を「宮崎駿の自己嫌悪の表れ」と見て、そこに絶望を見て取っているのですが、ぼくはそのようには考えません。  たしかに「悪を為し」た結果、たどり着いたところは「がれきの王国」でしかなかったかもしれません。しかし、だからといって飛行機を作ることは無意味ではない。それは、ナウシカが「墓所」を焼き払ったあと、訪れたものが人類の滅亡であったかもしれないにしても、すべてが無意味でないのと同じです。  ここにあるものは生きるのも死ぬもどうでもいいというニヒリズムではありません。その反対です。生きることの意味は「結果」によって判定されてはならないのです。  たとえ行きつくところが死であるとしても、破滅であるとしても、まずは「いま」を生きる。それが生きるというなのだ、そういう「生」の積極的な肯定がここにはあります。  この一連の作品群は実質的に「悪を為す系」を超えているでしょう。何と呼べばいいのかな、「いまを生きる系」? ダサいな。まあとにかく、この路線もまた、2020年代には主流になっていくように思えます。そのとき、『風立ちぬ』は先駆的な傑作として記憶されることになるでしょう。  この、「愛」や「美」、つまり「自分自身の内発的な動機」に殉じて「たとえ世界を滅ぼすとしてもそれを貫く」という路線は、いまのところ、エンターテインメントシーンの最先端にあるテーマだと思います。  2020年以降、このテーマがどれだけ出てくるかはわかりません。ただ、おそらく時代はこの方向性で進んでいくのではないでしょうか。これは「理由もなく突然に死ぬかもしれない」という「新世界系」の風景を突破していくためのほとんど唯一のルートであるように思えます。  そのようなあまりにも過酷な現実を正確に認識し、直視したうえで、それでも生きる動機を失わないためにはどうすればいいのか? それは「自分の内発的な想いに従うこと」でしかありえないのです。  純然たる内発性は何しろ「内」発性ですから、社会や倫理といった外部的な環境条件に左右されません。たとえそれが赦されない悪であるとしても、世界を滅ぼしてしまうとしても、自分の内から湧き出る想いは止められないのだという、純然たる意志。  これは、倫理的には「ただの悪党の話じゃないか」という批判を受けることは免れないでしょう。「世界を滅ぼしちゃダメだろ」という素朴な、しかしある意味ではこのうえなく当然な意見は避けられないわけです。  しかし、ぼくが見るところ、『風立ちぬ』と『天気の子』には決定的な差があるようにも思えます。それは、後者においては、「世界が滅びていない」というところです。いや、たしかに『天気の子』においても世界は決定的に「壊れ」ました。  東京は水没しかけていて、おそらく、世界的にも異常気象が続いてるかもしれません。しかし、水没しかけているとしても、水没し切ってはいないのです。そこではたくさんの人々がいままでどおりに暮らしてさえいる。  おそらくその水害で何万人という人々が死亡したり、住むところを失ったりしたかもしれませんが、滅び切ってはいない。これはきわめて美しいとともに、斬新なヴィジョンだったと思います。  LDさんが仰る通り、本来、「女の子か、世界か」という二者択一は成立しません。「世界」を放棄してしまえば、その世界に棲む女の子も助かりはしないのですから。  それでも『天気の子』において「女の子」を選ぶ選択肢が成立しているのは、世界が滅びてはいないからです。なぜ「女の子」を選び、世界を見捨てたにもかかわらず、世界は滅びないのか? ここにも時代精神が反映されていると見るべきでしょう。  ぼくには『天気の子』のラストシーンには、「それでも世界は滅びたりしない」という、ある種の楽天的な感覚があるように思えます。  これは、いままで長々と『天気の子』がいかにきびしく世界を認識しているのかを書いて来たことを考えると、矛盾しているように思われるかもしれません。しかし、そうではありません。  『天気の子』はたしかに、世界のきびしさ、残酷さ、理不尽さを直視している。その意味で『天気の子』は「新世界系」だといえるし、少なくとも一定の「新世界濃度」はある。  しかし、『天気の子』はすでに「新世界系」的な絶望感をも突き抜けている、ということ。これを、現代においては「滅びかけた世界でいつ死ぬかわからないこと」という「新世界系」の前提はもはや絶望の条件にはならないと見ることは間違えているでしょうか。  『風立ちぬ』や『進撃の巨人』の段階では、主人公は「世界を滅ぼしてしまう存在」だったし、その「絶対的な加害者性」を正面から描写することには強烈なインパクトがあった。  しかし、『天気の子』では、もはや穂高は自身の「加害者性」を過剰に深刻に受け止めてはいないように見える。もし、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の碇シンジのように、ほんとうにすべて自分のせいだと思い込んだならそれこそ絶望して立ち上がることはできないでしょう。  しかし、ある意味で「脱英雄」して「世界を救うヒーロー」であることを放り投げた彼は、世界が滅びかけていることに対して、発狂したり絶望したりするほどの責任を感じているようには見えない。  そこには、すべてが自分の責任ではないという認識とともに、「それでも世界は滅びない」、「自分は世界を滅ぼすことはできない」という感覚があるように思うのです。  だからこそ、彼は世界を滅ぼしかけても絶望しないし、その滅びかけた世界でそれでも生きていこうとすることができる。「世界が滅びてしまうかもしれない」、あるいは「世界を滅ぼしてしまうかもしれない」という不安感は、もはや過去のものなのですね。  現代においてより切実な感覚は「世界は衰えていくだろう」ということであり、また、「たとえそう望んだとしても世界を滅ぼすことはできない」ということでもあるわけです。  世界は少しずつ形を変えながら続いていく。それは簡単に滅亡したりしない、終末は来ない、そのなかで「ぼくたち」はとくべつ絶望することもなく、だらだらと生きていく。それが2019年現在の「リアル」。  2020年には『日本沈没』が湯浅監督の手でアニメ化されるということですが、どのような内容になるか興味深いところです。現代においては「日本地没」というような形での「世界の終わり」にはテーマ的な新鮮さがないのではないか?という気もするんですよね。  世界は「滅ぶ」のではなく、取り返しのつかない形で「壊れる」。あるいは「壊れつづける」。それが2020年代のリアリティになるのではないか、と。  そして、もちろん、それでは、そのような「壊れた世界」でどのようにすれば生きていくことができるかという問題も描かれるでしょう。これについては、『けものフレンズ』がひとつの答えを出している、というのが〈アズキアライアカデミア〉界隈での現時点での結論です。  カバンちゃんに対してサーバルちゃんが示しつづけた「絶対的な愛」。それさえあれば「壊れた世界」でもなお生きていくことができるだろう、と。これは性的、恋愛的な意味での愛にかぎりません。むしろ、広く「友愛」と捉えるべきでしょう。  「内発的な動機」と、「絶対的な友愛」があるなら、「新世界濃度」が高い過酷な「壊れた世界」でも生きていくことができるということです。  しかし、ぼくが見るところ、ここでもひとつの問題が発生することになります。それは、そのような「絶対的な愛」に出逢えなかった人はどうすればいいのか、ということです。つまり、一種の非モテ問題ですね。  今年、これを端的に描いた秀逸な作品が『ジョーカー』です。そこには、「自分は当然与えられていてしかるべきものを与えられていない」という不遇感があるように思える。  絶望的に苦しい環境でも、「絶対的な友愛」さえあれば生きていける。しかし、それは逆にいえば、そのような愛に恵まれない身は絶望するしかないということでもある。そのことが『ジョーカー』では非常に精緻に描かれていたと思います。  『ジョーカー』という映画をどう解釈するかということはかなりむずかしい問題だと思うのですが、ひとついえることは、この作品はかなりミステリアスな構造になっているということです。  『ジョーカー』の主人公であるアーサーという男性はコメディアンを目指しています。しかし、なぜ彼がコメディアンにこだわるのかはよくわからない。  彼は「突然笑いだしてしまう」という疾患を抱えてもいるし、どう見てもコメディアンの才能を有しているようには見えない。彼はむしろ、コメディアンを目指しつづけるために他者から侮辱され、心傷つき、そのために殺人すら犯します。  冷静に考えてみれば、「そもそもコメディアンを目指すことが間違いなのでわ?」としか思えません。いったいなぜ彼はそこまでコメディアンとしての成功にこだわるのでしょうか。  作中、彼はたしかに不遇な環境に置かれていますが、コメディアンとしての成功をあきらめてしまえば状況の改善は可能なようにも思えます。少なくとも経済的な苦境はマシになることでしょう。それでも、アーサーはコメディアンを目指す。なぜ?  ひとつ思い浮かぶのは、それが彼にとっての「内発的な動機」なのだ、ということです。アーサーはとにかく人を笑わせることが好きなのかもしれない、と。  ですが、この発想はどうも説得力を欠いています。アーサーはあくまでも「他者からの称賛」を夢見、それが叶わず、笑いものにされるとあっさり相手を殺してしまうからです。  ほんとうに内発的な動機があるのなら、他者から承認されようと、否定されようと「好きなこと」をやめたりしないはず。アーサーを見ていると、結局、彼はそれほど「コメディ」が好きではないように見えてしまいます。  それなら、なぜ? 結論として考えられるのは、アーサーは結局、「承認」が欲しかっただけなのだ、ということです。べつだん、コメディアンでなくても良かった。彼が欲していたのは、「他人から認めてもらうこと」だったのだ、と。  しかし、それではダメなのですね。このきびしい世界を生き抜いていくためには、「内発的な動機」と「絶対的な友愛」がキーである、ということは書きました。後者は一見、「他者からの承認」といい換えても良いようにも思えます。  しかし、両者は質的に違う。「他者からの承認」を求める心とは、いわばその「他者」を世界の中心に置く考え方です。人から褒めてもらいたい、認めてもらいたいという想いは、「内発的な動機」とは正反対のものだといっても良いでしょう。  だれに褒められなくても、認められなくてもやる、やりたいというのが「内発的」ということの意味なのですから。それと『けものフレンズ』で、あるいは『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』で描かれた「絶対的な友愛」とは何が違うのか?  それは後者が「双方向的」なものだということです。カバンちゃんはただ一方的に「愛される」ことを求めただけではなかった。サーバルちゃんに同等の「友愛」を返した。この「愛される」のではなく「愛する」という内発的がアーサーには決定的に欠けている。  彼はだれも自分以上に愛していないように見える。すべての関心が自分自身へ向かっていて、だからこそ、彼のギャグは致命的につまらない。そして、そのつまらなさを笑われるとその相手を殺害する。  彼の抱える非モテ的な不遇感は「内発性のなさ」と表裏一体なのです。  ぼくは『けものフレンズ』のカバンちゃんの描写において、決定的に重要なのは「サーバルちゃんに愛されたこと」ではなく、「サーバルちゃんを愛することができたこと」なのだと思う。  まさにそうだからこそ、カバンちゃんがサーバルちゃんを救うため、命をもかけるクライマックスがきわめて感動的なのではないでしょうか?  つまりは、この「新世界」的にきびしい現実を生き抜いていくためには「外部的な倫理や環境を超えて内発的に何かを愛すること」が重要だという結論になりますね。穂高が陽菜を、この世界そのものよりもなお深く愛したように。  「非モテの苦しみ」とは、つまり内発的にだれかを、何かを愛することはできないので、「外部の他者からの承認」を求めるのに、それが得られない、という苦悩のことです。内発的に何か、あるいはだれかを愛することができる人には共感できないことでしょう。  『ジョーカー』という映画は、「主人公に共感できるかどうか」で、一種の踏み絵が行われた印象がある作品ですが、作中のアーサーに共感できない人がみな、何らかの「生きづらさ」と無縁の恵まれた人たちである、ということにはならないでしょう。  そうではなく、一定の「内発性」を持っているために強烈な恨みつらみや不遇感(つまりはルサンチマン)を抱くことがなく、だからある程度過酷な環境にあってもアーサーに共感しないという人たちがいるはずなのです。  というか、ぼく自身はそれだと思う。個人的にはアーサーにも、一般的な「非モテ」言説にもまるで共感がない。ぼくは「物語が好きでならない」という強烈な内発性を持っているので、まあ、その意味では「恵まれた人」なんだろうな……。  この「内発性がない人はどうすればいいのか?」という問題は、〈アズキアライアカデミア〉内で延々と議論されつづけている問題なのですが、どうも結論は「どうしようもない」になりそうです。  ひとつにはぼくもペトロニウスさんもLDさんも、一定の内発的な趣味を持っている人(つまり「オタク」)だから、『ジョーカー』的、非モテ的な「内発性の欠落」という問題に共感がないし、アンサーを見いだすことができそうにないんですよね。いや、困ったものだ。  そういうわけで、『ジョーカー』は「新世界系」の暗黒面を象徴するような作品といえるかと思うのですが、内発的な「人を愛すること」によって「女の子か、世界か」という問題を飛び越えた『天気の子』はそれとは対照的な作品ということができるかもしれません。  だから、『天気の子』には、ある突き抜けた楽天性がある。その絶望を突き抜けた楽天性、ポジティヴな感覚はこれからの「内発系に殉じる系(?)」の特徴になってくのではないか、という気がします。  その一方で『ジョーカー』のような「自分のなかに内発性を見いだせないために外部に対して攻撃的になる」物語も作られていくでしょう。前者が「新世界」の残酷さと美しさをそのままに感受して、あかるい性格を持っているのに対し、後者はひたすらにいらだちつづける。  内発性がないこと、だれかを、何かを、世界を愛せないことはその人の罪ではありませんから、単純にそれが「悪」だとはいえませんが、それにしても、その落差にめまいがしそうです。  両者とも残酷で美しい世界、つまり「新世界」に生きていることは変わらないのです。べつだん、前者のほうは恵まれていて、後者は不遇だということでもない。  違いがあるのは、やはり「内発的な動機があるかどうか」、あえてパラフレーズするなら「そこに愛があるかどうか」ということでしかない。やっぱりキーは「愛」なんだなあ、困ったことに。  ただし、ここでいう「愛」は「受動的に愛されること」ではなく「能動的に愛すること」なのですが。  そう、「愛にできることはまだある」。むしろ、愛にしかできないことがある。しかし、その「愛」が心のなかに欠けた人は救われない。その明暗が、格差が、2020年代においては決定的にあきらかとなっていくだろう、という「予言」を置いて、この記事を終えたいと思います。  いやまあ、『十二国記』の最新刊の話とか、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の話とかもしたいのは山々なのですが、すでに心が折れました(笑)。  たぶん、この記事、全部合わせると30000文字以上あるはず。一気に書いているので、すでに書きはじめてから8時間以上経っていると思います。疲れた……。ほんとに疲れた……。30000文字を一気に書いたことはさすがに人生初めてかも。  いくらかでも楽しんでいただけましたでしょうか。ぼくは寝ます。ここで書いたことの補助線をお求めの方は同人誌をよろしくお願いしますねー。「新世界系」や、今回は触れなかった「脱英雄譚」についてくわしく記されています。でわでわー。おやすみなさい。
弱いなら弱いままで。
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