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フィービーさん のコメント

 激しく同意します。
 「何らかの思想を第一とし、その思想に沿っているかどうかで、娯楽作品を評価する」という視点や態度には、私も、辟易しています。極端に思想的に偏っている場合は別として、娯楽作品の評価に、そういう視点を持ち込むのは、邪道だと思います。
No.1
59ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 前回の記事を書いてから、「批評の堕落」について考えている。前回、引用した記事のなかで杉田氏は、『天気の子』を「ネオリベラル的」であるとして批判しているのだが、ぼくはこの手の「批評」に対してどうもうんざりしているのではないか、と思う。  つまり、それはある「自分が正しいと考える思想」を基準として、作品を「あり」なのか「なし」なのかと判定するやり口だ。この場合、「ネオリベラリズムは悪である」という基準をもとに、『天気の子』は「なし」である、とジャッジを下しているわけだ。  しかし、これはあるイデオロギーの最も陳腐な形での表出に過ぎないのではないか。  そもそも批評の意義とはどこにあるのか? 何らかの既存の表現に対し、これは「社会的/倫理的/政治的」に「正しい」。ゆえに「良い表現」である、あるいは「正しくない」、ゆえに「悪い表現」である、とお墨付きを与えること、それが批評なのか。  まさかそうではないだろう。そもそもそのような思想的な判定で作品のよしあしを決めてしまえるのなら、いちいちクリエイターが苦労して作品を作る意味は何なのか。  そのような見方は、本来、アートであるはずのものを「何らかの偉い思想」の伝達手段におとしめるものに過ぎないのではないか。それこそ、「この映画は共産主義精神を代表しているから傑作だ」というのと変わらないように思うのである。  しかし、このようなイデオロギーにもとづく批評はある種の人たちにとっては非常に大切なものであるらしい。作品の価値を何らかの思想に沿っているかどうかで決めるのは、そのような人たちにとっては自然で当然なのである。  かれらから見ると、「思想的に間違った」作品を礼賛するような人は、知的に怠惰であり、つまりは何もわかってはいないのだ、ということになる。  たとえば戦争を賛美しているとか、女性を差別しているとか、そういう「正しくない」作品はすべて最低なのであって、そういうものを読み、あまつさえ称賛したりする連中は唾棄すべき存在であるということになる。  で、そういう意見を見ていると、ぼくはつくづく思う。この人たちは、結局、表現なんてたいして好きじゃないんだな、と。  その人にとってほんとうに大切なのは、たとえば「ネオリベラリズムは是か非か」というような社会思想の問題であって、作品はそれを表現するための手段であるに過ぎないのだろう。  ぼくはそういう人たちを見ていると、非常に強烈な違和感、あるいは疎外感を覚える。それはひとことでいってしまえば、「ぼくはこの人たちとは違う」という感覚である。  ぼくにとって、表現そのものこそが至上の価値を持つのであって、それが社会の何を反映していて、どのような思想にもとづいているのか、そんなことはいかにも二の次に過ぎない。  たしかにまあ、極度の偏見に満ちていたり、古くさい意識から抜け出せていない作品には問題を感じることがある。しかし、ぼくにとって、その判断基準はやはり二次的なものである。  その作品が「美しいか、どうか」とか「面白いか、どうか」といった、いわば審美的な基準こそが最も大切なのだ。それが十分に美しいのなら、多少の偏見も逸脱も大目に見てしまうだろう。  だが、このようなことをいうと、思想的なよしあしを最大の、あるいは唯一の価値とみなす人々からは軽蔑されることになる。かれらからしてみれば、「作品が面白いか、どうか」などという基準はいかにも幼稚なものなのである。  かれらはいうだろう。「このようなネオリベラリズムの作品を面白いからといって楽しむなんて、なんて愚かな!」と。だが、ぼくにいわせれば、どのような思想にもとづいているにせよ、面白いものは面白いのだ。  アートとは、エンターテインメントとは、本質的にそのようなものなのではないだろうか。ぼくはべつだん、社会思想の問題を軽微なものだとは思わない。それはそれで大切なことではあるだろう。  だが、ぼくはしょせんは酔生夢死、ゆめの世界に生きている人間なので、「社会」の問題を第一義に持ってくることはできないのである。それは、何よりもまず「社会」を生きている人々からしてみれば、許すべからざる腐敗と思えるだろう。  だから、かれらは批判し、あるいは攻撃する。それどころか上から目線で説教さえしてくる。でも、そういうの、ほんとうに心の底からうんざりなんですよね。  もちろん、ぼくも現実には社会を生きている以上、許容できない表現は存在する。たとえばナチスを礼賛するような作品には、ぼくも嫌悪を覚えるかもしれない。しかし、それでもなお、ぼくは「美」や「面白さ」を崇めることをやめるつもりはない。  そして、それらを無視して、何らかの「思想」を押しつけてくる「批評」には、違和を表明しつづけるだろう。表現は、作品は、思想の宣伝媒体ではない。それは、ゆめの器なのである。ぼくはそう思い、そう信じるものである。
弱いなら弱いままで。
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