風野妖一郎さん のコメント
このコメントは以下の記事についています
ども。きょうもきょうとて退屈な日々を送る海燕です。
ついさっき、ひさしぶりにちょいと面白い記事でも書いてやるかとキーボードに向かってキーを叩き始めたのですが、いやー、終わらない、終わらない。
まじめに書いているといったい何万文字の記事になるのかわからないので、まず、全体のプロローグとして最近つらつら考えていることを書いておきます。
まあ、最近というか、ここ20年くらいずっと考えてきたことがようやくいくらかまとまってきたということなんですけれど。
どういう意味かというと、つまり、ぼくがいろいろと興味を持って考えてきた無数の問題はすべて、たったひとつ、「たましいの問題」に収斂するということです。この「たましい」という言葉には「スピリチュアリティ」とるびが振ってあると思ってください。
「スピリチュアル」という言葉は、かつて「スピリチュアル・カウンセラー」を名乗っていた(いまはただ「スピリチュアリスト」になったらしい)江原啓之さんが中心となったいわゆる「スピリチュアル・ブーム」以来、随分と胡散くさいイメージが付いてしまいましたが、べつに波動だとか霊能力だとか、大天使ミカエルだとか第六次元のシリウス星人だとかについて語りたいわけではないのでご安心ください。
いや、正確にはそういう領域も含んだ話なのだけれど、べつだん、ぼくは突然、「宇宙の真理」とかに目覚めたわけではありません。
そうではなく、「たましい(スピリチュアリティ)」という言葉を使うことによって、サブカルチャーから非モテ、アダルトビデオから恋愛工学に至るまで、自分がこれまでなぜともなくふらふら惹きつけられて考えてきた諸々のことをうまく結び合わせることができるかもしれないな、と思ったのです。
それでは、「たましい」とは何なのか? それは、人の精神の奥底にある最も深淵な領域、実存主義哲学でいう実存の根底にあるもののことです。霊魂という意味ではありませんし、無意識というのとも違います。
すべて人は、「こころ」の奥に「たましい」としかいいようがない深い領域を抱えていて、時にそれによって動かされている、そう考えるわけです。
磯村健太郎『〈スピリチュアル〉はなぜ流行るのか』に出てきた表現を借りるなら、「こころのいちばん深いところ」といっても良いでしょう。
現代は、多くの人がこの「たましい」のレベルでの問題を抱えて生きている時代です。いま、社会問題として取り上げられているさまざまな問題の多くは、せんじ詰めればつまりは「たましいの問題」といえるでしょう。
ほんとうにそうか?と思われるかもしれません。そんなオカルトじみたこと信じられない、と。しかし、それなら、近代科学思想が行きわたった現代でなお、それこそ「スピリチュアル」的な文化が流行しつづけているのはなぜでしょうか。
人々は「占い・おまじない」や「引き寄せの法則」や「新新宗教」に何を求めているのでしょうか?
くり返しますが、ぼくはべつに、「神はいる!」とか「人は死後も生きつづける」みたいなことをいいたいわけではありません。
しかし、ともかくもどのように揶揄されても非科学的なことを信じる人が大勢いることは事実であり、その裏には「なぜ、そのようなことを信じるのか」という理由があるはずだといいたいのです。
その答えをひとことでいい切ることはむずかしいですが、おそらく多くの人は「人生のむなしさ」や「止めようがない哀しみ」などといったネガティヴな感情から解放されようとして「いわゆるスピリチュアル」にハマるのでしょう。
それは、かつての社会では宗教が果たしていた役割でした。社会学者のピーター・L・バーガーは、前近代社会において宗教が果たしていた役割を「聖なる天蓋」と呼んでいます。
近代に至るまで、西洋社会はこの「天蓋」にすっぽりと覆われていた。そして、その「天蓋」によってそれぞれの「人生の意味」を与えられていたわけです。
しかし、近代においては社会のなかで宗教が果たす役割が小さくなり、社会全体が「世俗化」しました。そして、すべての人はニーチェの超人よろしく、個人主義と科学合理精神を友に生きられるようになった――なら良いのですが、もちろん現実にはそうなってはいません。
人は宗教がなくなって「聖なる天蓋」による「聖なるものへのアクセス」を断たれてもなお、何らかの「人生の意味」を求めてしまうものです。つまり、この世界に神がいることを信じられないとしても、自分の人生がまったくの無意味だとは思いたくない。それが人間。
ですが、われわれの近代資本主義社会は生活の利便性をはてしなく向上させていく一方で、「生きる意味」とか「絶対の真理」だけは与えてはくれません。
このようにして現代人は生きていても何の意味もない、自分の存在には何の根拠もないという「実存的虚無感」に直面することになってしまったのです。
このようなどうしようもなく深い「虚無」と直面することによって生じる苦痛を、医療用語では「スピリチュアルペイン」と呼びます。
この論文( https://www.jstage.jst.go.jp/article/jans/37/0/37_37456/_html/-char/en )ではスピリチュアルペインは「終末期がん患者が,生命の危機の恐怖や病気の進行による身体機能の衰えに伴い無力感を抱くことによって,生きること・存在すること・苦悩することの意味,死への不安,尊厳の喪失,罪責意識,現実の自己への悲嘆,関係性の喪失,超越的存在への希求等について問い続けざるを得ない苦痛」と定義されていますが、広い意味でのスピリチュアルペインを抱えるのはべつだん、がん患者だけではありません。
「生きていても無意味だ」とか「何もかもむなしい」といった悩み、苦しみは多くの現代人に共通するものでしょう。スピリチュアルペインとは、「聖なる天蓋」の失われた社会において生きる意味をも見失ってしまった人々が抱える「たましいの悲鳴」なのです。
そして、このような「たましい」の次元での悩みを抱えているのは、現代では決して一部の特別な人たちだけではありません。むしろ、そのような「むなしさ」や「苦しさ」とまったく無縁である人のほうが少ないでしょう。
心理学者のアーノルド・ミンデルはこう書いています。
「おそらく、あなたが世界のどこに住んでいようと、周囲の人びとの多くは自分の人生には何かが欠けていると感じているだろうし、それどころか人生とは本来特別な何かが欠けているものだと思い込んでいる人さえいるだろう。休みの日が来ると、私たちはこのかすかな抑うつを最も一般的な形で感じることになる。人生など特別なものではなく、終わりまでひたすら生きるだけのものだ、と感じてしまうのである。」
その通りだと思います。ニーチェがいったように「神が死んだ」ために、いままで覆い隠されることも多かったであろう「たましいの問題」があらわに表面化した時代――ひとまずは現代をそう捉えることにしましょう。
もちろん、日本における事情はキリスト教社会の欧米とは異なっていますが、「何のために生きるのか」という「意味」が見失われた社会構造であるということは先進国共通の問題であると考えます。
このような社会において、ぼくたちの多くは「どうしようもない孤独感」や「理由のないむなしさ」を感じて、悩んでいる。
もちろん、「人生の意味」などなくても平気で生きていける人もいます。宮台真司は、かつて、世界は本質的に無意味であることを前提として、「意味」より「強度」のほうが大切なのだといっていました。
それはおそらく正しいでしょう。十分に「強度」のある人生においては、べつだん、「意味」などなくても楽しく生きていくことができる。しょせん「むなしさ」とは、「強度」が欠けているからこそ起こる感情に過ぎないのです。
また、いまのこの社会には麻薬のように刺激的な娯楽が山のようにあふれていて、それらを楽しめば「むなしさ」など感じている暇などないともいえるかもしれません。あるいは、高い「人生の目標」を持ってそれをめざす生き方も良いでしょう。
そういう、何かしらの「強度」のある人生を送っている人たちにとって、「意味」などまったく必要がないものなのかもしれません。
しかし、この社会はやはりそういう人たちばかりではありません。生命学者の森岡正博が『宗教なき時代を生きる』で書いているように、どうしようもなく「意味」や「真理」を求めてやまない人たちだっているわけです。
そういう人たちにとって、この社会に満ちた「快楽」や「刺激」はいかにも欺瞞的なものに思えるでしょう。たしかに快適な社会ではある。しかし、どこにも「真実」がない。そのように考える人は必ずしも少なくないものと思われます。
かつては「聖なる天蓋」によって隠されていたそのような「生きることの本質的なむなしさ」は、現代では本質的問題です。おそらく、オウム真理教に入信した人たちも、そこに何らかの「真実」があると考えていたのでしょう。
その気持ちはわかる気がします。たしかにありとあらゆる「快楽」と「刺激」に満ちた現代日本ですが、そのようなものすべてをむなしいと感じる人を教え導いてくれるのは麻原のような「あやしげな教祖」くらいのものであることも事実なのです。
作家の故・中島らもは書いています。
みんなこの世界を前にして途方に暮れている。誰にどう話せば良いのか、彼等はその文法を知らない。唯一よく理解でき、信ずるに足りるものが「自殺マニュアル」だったり、ピストルだったりする。これを現代に特有の「社会問題」だと取れる人は幸せな人だ。そうではない。これは古代から連綿と続いてきた、生の根源の問題なのだ。子どもたちはいつでも迷い子だ。それに対して、「大人」が手をさしのべる? ちょっと待ってくれ、大人とは誰だ。(山岸涼子『天人唐草』解説)
この世界においてはだれもが「迷い子」です。かつては、その「迷い子」、先に名前を挙げたバーガーの言葉を使うなら「故郷喪失者」たちに「人生の意味」や「進むべき道」を教えていたのが宗教だった。
しかし、世界的に多くの宗教が「世俗化」したいま、ぼくたちは個人で「虚無」と対峙しなければならない。これはしんどいです。
これは生活の質(クオリティ・オブ・ライフ)の向上によって解決する問題ではない。生活の水準においては十分に恵まれていながら、「自分はだれにも必要とされていない」とか「自分の人生には何の価値もない」と感じている人は少なくないはずですから。
WHO(世界保健機構)も「健康」を定義するとき、その要素のひとつとして「精神」、「肉体」、「社会性」などと並べて「スピリチュアル」を挙げています。
肉体や精神がどんなに健康でも、「たましいの健やかさ」を欠いていては十全に健康とはいえないわけです。もっとも、正確には、この定義は提案されただけで、採択はされていませんが。
くわしくはWHOのサイト( https://www.japan-who.or.jp/commodity/kenko.html )をお読みください。
さて、そのように「実存的虚無」がもたらす「広い意味でのスピリチュアルペイン」を慢性的に抱えることになった現代人は、「迷い子」として彷徨を続けることになります。
特にさまざまな「快楽」や「刺激」にむなしさを感じ、「生きる意味」を求めるタイプの人はしばしば苦悩の末、自殺を選ぶことすらあります。日本の自殺者数の高止まりはそこにひとつの理由があるといって良いでしょう。
しかし、そうかといって、もちろんいまさら「聖なる天蓋」を復活させることはむずかしい。
たしかに、個別に見ればいまだに宗教的活動は行われてはいます。日本ではじっさいに「新新宗教」と呼ばれるような宗教団体が活動していることは事実ですし、そういったものに入信して心の安定を得ている人もいます。
とはいえ、1995年、オウム真理教が起こした地下鉄サリン事件以来、世間が新興宗教を見る目は冷たい。また、宗教団体の求めるきびしい戒律や極端な儀式になじめないものを感じる人も少なくないはずです。
そこでウケたのが、江原啓之が提唱した「スピリチュアリズム」に始まる「スピリチュアル・ブーム」だったといって良いでしょう。
「いわゆるスピリチュアル」について、ぼくは必ずしもくわしくありませんが、「天使」とか「魔女」とか「レイキ」とか、あまりにも胡散臭いキーワードが並ぶ世界であることは知っています。天使っていわれてもね。
一応、近代的合理性をインストールされた現代人であるぼくは、こういう世界に対してある種の嫌悪感を覚えすらします。それらはようするに「トンデモ」であり、科学を理解できない人間だけがハマる文化だという想いを払拭することはできない。
しかし、奇妙なことに、その一方で、そういった「天使」やら「魔術」やらを「フィクション」として楽しんでいる自分がいることもほんとうなのです。
『女神転生』だの『とある魔術の禁書目録』だの、オカルト(隠秘学)や「いわゆるスピリチュアル」的なものを題材にした作品は現代のサブカルチャーには少なくないですよね。
ぼくはそういったものを楽しみながら、「いわゆるスピリチュアル」そのものは避けている。どういうことなのか?
いや、何らおかしなことではないといわれるかもしれません。「虚構を現実として信じること」と「あくまで虚構として楽しむこと」はまったく異なることであって、それらを同一視することこそ問題なのだ、という答えがあります。
それはたしかにそうです。『女神転生』をフィクションとして楽しんでいるからといって、神や悪魔の実在を信じているわけではない、とはひとまずいえる。しかし――ほんとうにそれだけでしょうか?
あまりにも退屈な「合理的現実」に対し、一定の刺激に充ちているように思える「魔術的現実」をまえに、「そうであってほしい」と願う心がないといえるのか?
もちろん、「そうであってほしい」と願うことと「そうである」と信じることの間には久遠の距離があるにせよ、「魔術的現実」に惹きつけられる心理があることは事実だと思うのです。
堀江宗正は『ポップ・スピリチュアリティ』において、このようなサブカルチャーの領域で魔術的な物語を生産し消費するアマチュアも含めた作家たちを「サブカルチャーの魔術師」と呼び、そこにスピリチュアル文化の一端を見ています。
また、今井信治が『オタク文化と宗教の臨界』において、オタク文化に「宗教的なるもの」を見いだしたことも、このような事情と無関係ではないでしょう。
オタク文化はあまりにも宗教的なものとなじみやすい。しかし、それでいて、あくまでも宗教的なものとは一線を引き、「虚構」と「現実」を分けることを前提としている。
そして、その線引きを乗り越えてしまったものは「中二病」と呼ばれ、あざ笑われることとなる。とりあえずはそのような事情があります。
サブカルチャーと「いわゆるスピリチュアル」は似て非なる世界である、ということにまずはしておきましょう。
さて、「いわゆるスピリチュアル」は胡散くさく怪しい世界です。それはかつてブームになった「いわゆるオカルト」に近いようにも見えますが、それでいて異質なものでもあります。
宇宙人だの地底人だのムー大陸だのを題材とする「いわゆるオカルト」がどこかほの暗い「世界の隠された秘密」を扱っているのに対し、「いわゆるスピリチュアル」は何かあかるくてふわふわしている。
そして、「実存的虚無感」、あるいは「生の不全感」にもとづく「スピリチュアルペイン」から「たましい(スピリチュアリティ)」を守る「鎧」の役割を果たす方法論がそこにあるように思います。
とはいえ、まあ、見方を変えれば「トンデモ」には違いないでしょう。ですが、「いわゆるスピリチュアル」を求める人たちはブームが一段落したいまも絶えることはありません。
「聖なる天蓋」がない時代、「はだかの自己」を守るためにたくさんの人がこのような「鎧」を必要としているのでしょうか?
「いわゆるスピリチュアル」と既存宗教の違いは、既存宗教がさまざまな戒律や儀式といったものを通して集団的に「聖なるもの」と触れ合おうとするのに対し、「いわゆるスピリチュアル」は遥かにお手軽かつ個人的に「聖なるもの」にアクセスしてしまうところにあります。
欧米にはSpiritual, but not religious(スピリチュアルではあるが、宗教ではない)という言葉があるそうで、「いわゆるスピリチュアル」にハマっている人たちが必ずしも既存宗教に入信するわけではないのです。
長くなったのでここでいったん切りますが、ぼくが何をいいたいかというと、この種の「いわゆるスピリチュアル」に耽溺し切るのではなく、それを相対化しながら、「科学的自明さ」をも相対化し、「科学的合理性」の次元と「魔術的神秘性」の次元を並行して生きることはできないだろうか?ということです。
それをうまくまとめられれば「たましいの問題」、あるいは実存的虚無感の問題に対するぼくのひとつのアンサーとなりえるのではないか、と思うのですが――怪しいですかね。
でも、ぼくはべつだん、何かの霊力がこもったパワーストーンを持ち歩くといったことが悪いとは思わない。
ぼくが思うのは、それを「ただのつまらない石ころ」であるのと同時に、「不思議で神秘的な魔力を秘めた月の石」として認識する、つまり「科学と魔術、ふたつの世界観」を同時に生きることはできないものなのだろうか?ということです。
かつてチェスタトンが批判したように、「堕落した科学」は何もかもあたりまえという「自明さ」の感覚をもたらし、「不思議」や「神秘」を殺していく。「不思議」を愛するぼくとしては、ぼくはそこから何とか飛び出したいのですね。
ほかに宮台真司の『サイファ覚醒せよ!』だとか見田宗介の『気流の鳴る音』の話などもしたいのですが、うーん、全然まとまらないなあ。ここに行くまでにいろいろなロジックの積み重ねがあるのですけれどね。
ぐぬぬ。アダルトビデオ監督の代々木忠さんが提唱する「水素論」だとか、リチャード・ドーキンスの『神は妄想である』だとか、ハードSFだとかみずがめ座の時代(アクエリアンエイジ)だとか、ぼくのなかではひとつにつながっているのだけれど、扱う領域が広すぎてうまく説明できない。
つまり、すべては生きる意味が失われた時代における「実存的虚無感」とそれがもたらす「広い意味でのスピリチュアルペイン」をどう解決するか?という問題軸で、それをぼくは「たましいの問題」と呼んでいるということなんですけれどね。『攻殻機動隊』ふうにいうならゴーストの問題。
とりあえず、ここでやめておきますが、近いうちにもう一度、仕切り直して語ろうと思います。
いや、ほんと、共同体道徳と高次の倫理とか、エロス原理とニルヴァーナ原理とか、垂直次元上昇とか、『ナルニア国ものがたり』とか『幼年期の終り』とか、色々と語りたいことはあるんですよ!
でも、まとまらないのでとりあえずは失礼します。でわ。
おおむね「ニューエイジ(水瓶座の時代)」運動と同じ流れですね。
さて、同じ物体・現象に対する「神秘」「不思議」は文化圏によって全然違います。一方科学は概ねどの文化圏でも同じです。同じである現象だけが対象だから当然ですね。よって「「科学と魔術、ふたつの世界観」を同時に生きる」ためにはまず「どれかの魔術」を選ぶ必要があります。お勧めはやはり科学系スピリチュアルです。科学と相性がいいですから。特に数学系は永遠不滅なのでおススメ。四元数教などはどうでしょうか?もう絶滅していますが復活させてみてはいかが?
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