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Alfred-Laimyさん のコメント

そういや海燕さんって、プリリズは1期の「オーロラドリーム」しか観てないんですよね?
3期の「レインボーライブ」や続編の「プリパラ」を観るとどんな感想を抱くのか、気になります。

後ろ向きな気持ち なんて邪魔だった
でも君は それも私のカケラ だと受け入れた

プリパラ楽曲の一節です。
自分はこの数年で何度も何度もプリパラに心を救われました。
No.1
53ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 Kindleで『アダルトチルドレンから自由へ』という本を読みました。これがなかなか素晴らしい。タイトルの通り、「アダルトチルドレン」と「自由」について語っているんだけれど、そのなかで人の心の成熟度を示すレベルが書かれている。  それが、 レベル① 劣等感を許していない人 レベル➁ 劣等感を許している人 レベル③ 劣等感を魅力にしている人 レベル④ 人の劣等感を傷つけない人 レベル⑤ 人に自尊心を与える人(いつも笑顔、ぽかぽかハート)  というもの。  あるいは、これだけだとわかりづらいかもしれませんね。つまり、ここでいう「アダルトチルドレン」とは、多くは幼年期の経験によって、自分の劣等感、一流大学に入れなかったとか、顔にあざがあるとか、太り過ぎだとか、親から愛されなかったとか、そういう点を「許し」、「認め」、その劣等感と「和解」することができていない人のことをいうのです。  そういう人は歳を取りはしても内面は「子供のまま」なのですね。ぼくは最近ようやくレベル①から➁になったところかなあ、と思っています。次は③を目指したいところ。  で、『けものフレンズ』のサーバルちゃんとか『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』のカタリナ・クラエスはレベル⑤だよなーと考えます。  サーバルちゃんやカタリナさんは「人が自分では欠点だと思っているところを認めて言葉にすることができる人」なんですよね。  たとえば、カバンちゃんは何ひとつ野生の世界で役に立つ才能や資質を持っていない「人間のフレンズ」なんだけれど、サーバルちゃんは彼女に向かって「へーきへーき! フレンズによって得意なこと違うから!」といい、彼女の唯一の長所である秀でた頭脳を認めます。  そして、「カバンちゃんはすごいんだよ!」とはっきり言葉にして伝える。これがまさに「人に自尊心を与える」ということですね。  また、カタリナも相手が自分では欠点だと思っているところを認めて褒める。「あなたは緑の指を持っているのね」とか「あなたのその白い髪と紅い目、とっても綺麗」とかね。彼女はそういうことがナチュラルにできるわけです。  これはアダルトチルドレンに限ったことではないけれど、人は往々にして自分のほんとうの魅力をわかっていなかったりするものなんですよね。  たとえば東大を出たことが自慢の人は「おれは東大を出たからまわりに好かれているだろう」とか思ったりするんだけれど、人は学歴によって愛されたりはしない。そういう「わかりやすい長所」は決して「愛されポイント」にはならないのです。  もしその人がまわりから愛されているとしたら、じつは東大を出たわりに世間知らずで初心なところが可愛かったりするのかもしれない。人間のほんとうの「愛されポイント」とは、世間や本人には「欠点」として認識されるところだったりするんですよ。  たとえば『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリーがまわりの人から愛されるのはかれが戦争の天才だからじゃないですよね。むしろ仕事嫌いの怠け者だったり、生活能力が欠如していたり、まるで軍人らしくなかったりするあたりがかれの魅力だと思います。  つまり、「欠点こそじつは魅力」ということ。それが世にも意外な「愛の法則」で、そのことをきちんとわかっている人は成熟度レベル③以上に達することができる。そういう人こそ、正しい意味で「大人」と呼ばれるにふさわしいでしょう。  ところが、先述したように、機能不全家庭で育って親から十分な愛情を受けられなかったりすると、歳を取ってもほんとうの意味での「大人」になれず、レベル①のままでストップしていたりする。それが「アダルトチルドレン」。  重要なのは、親から愛されなかったことそのものがほんとうの問題なのではないということです。真の難題は、そのことをキッカケにして、「自分は「いい子」でいないとだれからも愛されない」とか、「人に好かれるためには何か大きな欠点を持っていてはいけない」とカンチガイしてしまうことなのです。  そういう人は往々にして何とか自分の「短所」を隠し、「長所」だけを見せることによって人から愛されようとします。『グイン・サーガ』のアルド・ナリスとか、まさにそれなんですけれど。  でもね、それってまさにカンチガイなんですよ。いくら「長所」が秀でていても、それだけでは人間は愛されないからです。たとえばテストで毎回100点を取れるから愛されるということはない。  それなのにナリスは「完璧な人間」を演じ、まわりに利益をまわすことで愛されることができる、自分のほんとうの貌を晒せば嫌われると思っている。いうなれば「自分は毎回100点を取ってまわりのためになることをしているから必要とされているんだ」と考えているんだけれど、いや、まさにどうしようもないカンチガイ野郎です。アホですね、アホ。  それでは、アルド・ナリスのほんとうの魅力はどこにあるのか? それは、じつは陰険で、ハラグロで、いい歳してマザコンのロリコンで、母親に愛されなかったとかいってうじうじしている、そういうところだったりするわけです。  本人は「そんな「欠点」をあらわにしたらまわりの人間はみんな逃げていくに違いない」とかカンチガイしているんだけれど、でも、その「欠点」は、じつは「見る人が見ればとっくにバレバレ」だったりするんですね。  そして、そういう人たちは「あなたの陰険なところが好きですよ。ハラグロでロリコンでマザコンで、愛情不足のせいでいつもうじうじしている、そして自分ではそれをバレていないつもりでいる、でもいままで必死に頑張って生き抜いて来た努力家で勉強家のそんなあなたを愛していますよ」といってくれたりするのです。ヴァレリウスとかね。リギアとか。  ナリスは全身の自由を失い障害者になって「役立たず」になることで初めて、「じつはほんとうは自分は愛されていたこと」に気付きます。そして、「人に迷惑をかけなければ生きていけないこと」の意味を知り、「人に何かをしてもらうこと」が愛の贈り物になることもあるのだと悟るのです。  かれはその贈り物を「信頼」と呼ぶのですが、まさにこの「信頼」こそ、レベル①を抜け出して大人になるためにどうしても必要なものでしょう。  一方で『グイン・サーガ』にはイシュトヴァーンという男もいて、かれは「王になる」という夢を叶えることによって、貧しい孤児だった自分の欠落を埋めようとする。その結果、一国の帝王になりはするのだけれど、どんどん不幸になっていってしまう。  これも良くあるパターンです。かれの場合は「自分の不足している部分」を「地位や権力」で埋めれば幸せになれるというカンチガイをしているのですね。  でも、読者から見れば、じつは「何もかも足りない」と思って、いつか王になるという夢を見ていた頃のイシュトヴァーンがいちばん魅力的だったりすることは歴然としているんですよ。  ぼくはもしかれに逢うことがあったら言ってやりたい。「おまえは身勝手で法螺吹きでわがままで夢ばかり大きくてどうしようもない奴だけれど、おまえのそんなところが大好きだよ。おまえはたしかに王さまになれるくらいの器量があるだろう。でも、べつにそうならなくてもいいじゃないか。いまの何も持っていないおまえが、そのままで充分に魅力的だよ」と。  ナリスもイシュトも成熟度がレベル①から抜け出せていないんです。だからいつまでも「不幸な子供」なんですね。で、「欠点のある自分には価値がない」という劣等感に震えている。  でも、ほんとうはそんな欠点だらけのかれらこそが魅力的で愛されているのです。たしかに、無関係の人間はかれらの容姿や才能や財産や地位だけを誉めそやすし、それこそがかれらの美点だというでしょう。  でも、そんな連中はほんとうに大切にするべき相手ではない。ほんとうに大切な人は、身近にいて、かれらの欠点も弱点も知り尽くし、なおかつその点を愛してくれている、そんな人たちです。  たとえばヤン・ウェンリーは「無敗の魔術師」であることによって民衆から崇拝されたけれど、ヤンにとってほんとうに大切な存在はかれの死後、「連戦連敗でもいい。生きていてほしかった」と考えるユリアンやフレデリカであったはずです。  ヤンの場合は十分に「大人」だったからそのことがわかっていたけれど、もしかれがあくまで「自分は連戦連勝だから価値がある人間なんだ」などと思い込んでいたら不幸だったことでしょう。  人は「自分は欠点だらけだが、まさにそうだからこそ愛される価値がある」と考えるべきなのだし、また、そのようにしてまわりの欠点だらけの人間に愛情を注いでいけばいい。それがレベル⑤の人間、サーバルちゃんとかカタリナの領域。  それが「ほんとうの大人」だよなーと思いますね。そういうふうになりたいものです。 
弱いなら弱いままで。
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