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TTTさん のコメント

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TTT
別に外部からの批評を受け付けていないわけではないでしょ?現にこうして書かれている。書くなという圧力を受けたんですか?まあ取材を受けてくれるか、書いたものを誰が見るのかという問題はありますが。
来るべくして来た人以外来ないで欲しいって空間に来て「君たちなんでこんなこと話してるの?」と珍獣のように見られてもそりゃいい気はしませんよ。
で、カップリング以外のことを語るなら腐女子として語るのは不適切なのでは?twitterなどでも腐アカウントを分けてる人はいます。極端なことを言えばエロ同人のことを話してる人に「もっとストーリーを見ろよ!」と言っても「見てるけどここで話すことじゃない」で終わると思います。
No.1
137ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 某年某月某日。あいも変わらずだらだらと布団に寝そべり漫画を読み耽るぼくのもとに(まさにニート!)、一通のメールがとどいた。  起きるのがめんどくさいのでそのままiPhoneで読む(まさにひきこもり!)。  そのメールに記されていたもの、それはなんと「腐女子について語ってみ」という極秘指令であった! ムチャぶりやなー。しかし、細々とブロマガを続けて生計を立てている身としては指令には逆らえない。ミッションは絶対なのだ……。  まあそういうわけで何か書こうと思うのですが、それにしても、うーん、腐女子。腐女子ですか。それはまたなかなかむずかしいネタを持ってきたなあ。  指令には「べつにDisってもいいよ」みたいなことが書かれていたけれど、炎上するのはぼくですからね。ただでさえ少ない女性読者がさらに減るのはイヤです。  いやまあ、批判すべきところがあるならそうしてもいいんだけれど、腐女子全体を糾弾するということは、男性オタクを十把一絡げにして論難するよりもっとむずかしそうなわけで、ちょっとそんな真似はできない。  その上、ぼくは特別に腐女子にくわしいわけでもないわけで、語るにしても「偏見」しか述べることができそうにないんですよね。  しかし、ぼくは指令に逆らえないペーペーの身。そこで、今回は「こうだ」というわけではなく、「ぼくの目からはこうみえる」という話をしたいと思います。偏見は承知の上なので、怒らないでね。  さて、ぼくにとって「いわゆる腐女子」のひとたちは「同じものを見て、違う言葉で語るひとたち」です。  そもそも腐女子といういい方も問題含みだと思うのですが(わたしは腐ってなんかいない、と思うひとも多かろう)、ほかに適当な用語もないからこの語を使います。  で、そういう「同じ土地に住むちがう言語の人々」である腐女たちをみていると、ぼくは時々、「バリアー」を感じることがあります。「ノリ・メ・タンゲレ(わたしにふれるな)」というバリアー。外部から語られることを拒絶するATフィールド。  もちろん、すべての腐女子がそうやって自分を鎧っているとはいいませんが、一部にはそういうひとがいると思うのです(男性オタクもそうかもしれないけれど)。  つまりは、「どうせお前たちらには理解できないのだから、わたしたちにふれるな。わたしたちを語るな。わたしたちは理解されたいとも思っていない。あっちへ行け」という態度なのではないかとぼくは解釈しています。  で、そういうバリアーを前にすると、ぼくは立ちすくむよりないわけですが、同時にやはり少し寂しくなります。  何といっても同じ作品を見ているのだから、可能なら仲良くやりたいな、という気もちはあるわけです。そこを「どうせお前たちには何もわからない」と拒絶されると、ちょっと辛い。  当然、コミュニケーションを希望しないことは本人の自由ではあります。べつにお前なんかと話したくもない、という態度はあたりまえに許される。ただ、ちょっと寂しいだけ。  しかし、一方ではそのようにしてバリアーで自分を守ろうとする意図もわかると思うのです。まず「腐女子文化」が絶対的に理解されづらい、誤解されやすい文化であること。  そしてじっさいに誤解と迫害が連綿と続いていること。そもそも「他者からの理解」などがなくても、腐女子は腐女子サークルのなかで幸福に暮らしていけること。  おそらく平均的にみて男性よりも「視線の暴力」に敏感であろう女性たち特有の文化であることを考えれば、腐女子文化がそういう特性を持ったとしてもふしぎではないでしょう。バリアーを張るタイプの腐女子は、腐女子文化の自己完結を希望しているのだと思います。  くり返しますが、これは「ぼくからはそういうふうにみえる」という話ですし、そんなバリアーなどまったく張っていないひともたくさんいることも知っています。ただ、こういうひともいるんじゃないか。  ただね、はっきりいってしまうなら、ぼくはこの態度は無理だと思っています。だって、腐女子たちたち自身は少年漫画や推理小説など「外の文化」を語っているのだから、外の人間に対して「自分たちの文化を語るな」とはいえないはず。  やおい同人誌だってある種の「批評」ですよね。「自分はひとの文化を批評するけれど、ひとには自分の文化を批評されたくない」という態度は、端的にいって矛盾していますし、アンフェアに思えます。  まず自分たちが外部の文化について語ることを一切やめ、腐女子文化圏にひきこもるならともかく、そうでないなら外部が腐女子文化を語ることもまた許容しなければならないでしょう。  もしその「語り」が誤解と間違いだらけで許容しがたいというのなら、内部の人間が自分たちの文化と現状について語るよりないのではないでしょうか。  もちろん、それは簡単なことではないでしょう。しかし、ボーイズラブ小説や漫画が一大ジャンルとして繚乱と花ひらいたいま、「外部に語る言葉」を用意しないことはいかにも無防備です。  ボーイズラブを「見えないジャンル」のように語られると、遥かに小さい市場規模しか持たないだろうSF小説などはどうなってしまうのだろうかと思います。  ひたすらバリアーを張ってそのなかに立てこもるという戦略は、いまの時代、もう成り立たないのではないでしょうか? 腐女子文化はもういかなる意味でも隠れてなどいないと、ぼくは考えます。  だから、まあ、あまりバリアーを張らないでくれるとありがたいかな、という思いはある。べつだん、どんな態度を取ろうとそのひとのかってではありますが……。  もうひとつ、これはバリアーとは違いますが、Twitterなどであまりにもホモネタしか呟かないひとをみていると、「それしか興味がないのかな……」と思えてくることはあります。  もっと演出とか、構成とか、心理とか、主題とか、そういうものに関心を持とうよ!と思ったりするわけです。ここらへんはいかにも謬見で、じっさいには一本の作品をみてそこにしか興味がない人間がいるわけはないということはわかりきっているんですけれど(たぶん)。  これについては伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』の記述が参考になります。伊藤は「俺はストーリーに感動しているのに、あいつらはキャラしか見てない!」と怒る男性と腐女子の「衝突」を想定し、こう語っています。  彼のいらだちのうちでは、「ストーリー」という単位と「キャラクター」という単位が分離されている。そして「ストーリー」が語られる際、多くの場合「ストーリー」ないしは「物語」は「キャラクター」よりも評価基準として上に置かれる。「ストーリー」に対する評価が、そのまま作品の評価に直結するという考え方である。一方、キャラクターによってもたらされる快楽は、よくないものとして退けられる場合がある。そのようなヒエラルキーが存在している。  (中略)  実際のところ、マンガを「読む」際、完全にキャラクターだけを見つめる「読み」があるとは考えにくく、逆にキャラクターの魅力をまったく無視したストーリーテリングもまた非現実的であろう。だからそうではなく、同じ読者の一回の「読み」の内部においても、複数のレヴェルの快楽が同時に駆動していると考えたほうが合理的だ。  いささか難解ないいまわしですが、ようするに「キャラクターしかみていない」ようにみえるひとにしても、じっさいには「ストーリー」や「テーマ」を並行して楽しんでいるはずだよ、ということでしょう。  いうまでもなくすべては程度問題で、より「ストーリー」を重視するひともいれば、「キャラクター」こそが何より大切なのだと考えるひともいるでしょう。まさにひとそれぞれ。それは腐女子であろうがあるまいが同じことです。  しかし、こうとわかっていてもなお、ぼくが「カップリングにしか興味ないのかな……」と思ってしまうのは、やはりそのカップリングという「読みの作法」が特異で、ほんとうの意味ではぼくには理解しがたいものだからです。  つまりは、腐女子たちは、同じ作品をみているにもかかわらず、ぼくには理解できないことばかり話しているわけです。これは、やっぱり気になります。気にするなといわれても気になる。  彼女たちは、同じ作品をみても、ぼくにとって意味が通じる感想を一切語らない(ことがある)わけですから、非常に異質なひとたちで、異質な見方をしているという印象は否めません。  もしかしたら、よく話を聞いてみたら共通する感想もあるのかもしれませんが、なかなかそういう機会はもてない。  そこで、ぼくは「ああ、カップリングにしか関心がないのか。ぼくが興味を持っていることがらは興味の対象外なのか。まあ、それの何が悪いわけでもないけれど……」と、何だかがっくりするのです。  くり返しますが、これは間違えた見方です。じっさいにはどんなディープな腐女子であれ、それなりには「物語」を楽しんでいるのだと思う。  むしろ「物語」の大きな魅力があって初めて「キャラ萌え」の欲望が喚起されるということもあるでしょう。それはわかっています。しかし、それでもなお、「そういうふうにみえる」ことも、また事実ではあるわけです。  じっさいのところ、腐女子のひとたちがどこまでぼくの関心領域に近いところで作品を享受し消費しているのかは、わかりません。ひょっとしたらかなり近いのかもしれないし、すごく遠いということも考えられる。  どんな作品の受け止め方をしようと、彼女たちのかってではあるでしょう。ただ、ぼくはやはり同じ作品を愛しているひとたちは「仲間」だと思うし、「共通の言語」で語り合いたいという欲望がある。異なる視点からの批評に興味もある。コミュニケーションを希望するわけです。  これは「全体としてみれば」という話で、腐女子のひと個人個人をみていけば、仲良くできるひともそうでないひともいるだろうことは当然です。  ただ、その文化圏特有のオリジナル言語でしか話をしない(ようにみえる)ひとたちをみていると、ぼくはこう、何だか、寂しくなる……。いや、ほんと、それはそのひとたちの当然の権利なんですけれど。けれどね!  まあ、そんなところですか。一方的な仲間意識が迷惑だということもありえるとはわかります。ただ、ぼくはやっぱりできるだけ仲良くやって行きたいんだよね。個人個人はともかく、全体としては。無理なのだろうか。  ちなみにぼくは韓流ドラマにはまっている中高年女性なんかも「仲間」だと思います。だって、韓流ドラマ、おもしろいもん。共感できる。理解しあえる。仲間、仲間。  ひととひとの関係には理解しあえるところとそうではないところがあるのが当然で、それはオタクだろうと腐女子だろうとリア充だろうと変わりません。互いに理解しあえない部分を抱えていても、対話は可能なのです。  そういう意味では、ぼくは「対話」を望んでいるのだと思う。「対話の必要などない。わたしたちにとってあなたたちは無である」といわれると、哀しいし、寂しい。まあ、はっきりそこまでいうひとも少ないかもしれませんが。  以上、ぼくの偏見でした、とさ! どうよ?  
弱いなら弱いままで。
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