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Croweさん のコメント

互いに「相手を理解できないから関わろうとはしない。」というのだったら戦争などないだろう。だが実際はそんな机上の理論で収まるはずもなく、様々な理由があってこの世界でも戦争が起きた。では何故戦争が起きたのか。簡単にまとめれば双方の対立関係が成り立ったからだ。その対立が国を超えて起きた戦争がガンダムの世界観というわけだろう。きっかけは何にしろ、広がりすぎた対立関係はどちらかが過ちを認めるか滅びるまで消えはしない。だから誰もがあなたみたいに「理解できない相手に対し関わらない」ということはできないので根本的なところにある難題を解決しなければ戦争根絶は武力によって戦争という形で行使されるでしょう。
No.3
148ヶ月前
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 試験的に長文の無料記事を書いてみる。  さて、この文章をお読みの方のなかで、『機動戦士ガンダム』を知らない方はおられないだろう。『ガンダム』はいまやひとつの巨大産業だ。あるいはこのブログで紹介しているほかのすべての作品を合わせたよりも、さらにメジャーなコンテンツであるといえるかもしれない。  その魅力はどこにあるのだろうか? 色々考えられるだろうが、ひとつには戦争に材をとった非常にシリアスなテーマにある、とはいえるのではないか。ガンダムシリーズのテーマが「ひとはわかりあえない」であるとはよくいわれることだ。  ひととひとはわかりあえないが故に争いあい、殺しあい、果てしなく戦いを続けるしかない、その哀しみが、たとえばアムロ・レイとシャア・アズナブルに仮託されて克明に描かれているというわけだ。  しかし、考えてみれば、べつに心からわかりあわなくても戦争をやめることはできるはずだ。わかりあえないからといって争いあわなければならないという理屈は成り立たない。必要なのはより具体的な戦争防止、平和構築の方法論であって、わかりあうことではないのではないか、と思ってしまう。  わかりあえるかどうか、という問いにすべての問題を収斂させることそのものが不毛なのではないか、と思うのだ。ひとはわかりあえるか、といったら、それはまあ、たしかにわかりあえないだろう。だからといって、永遠に争いを続けなければならないというものでもないはずだ。  どんなにひととひとがわかりあうことができないとしても、現実に世界は様々なイノベーションをくり返しながら少しずつ良い方向へ向かっている。「ひとはわかりあえない」ということは何も絶望を意味してはいないのだ。  いや、そういうことではないのだ、とあなたはいわれるかもしれない。ここでいう「戦争」とは、ひととひととのよりミクロないがみ合いの結末であり、『ガンダム』のテーマはそのいがみ合いそのものは決してなくならないということの悲惨さにこそあるのだ、と。  たしかに、どれほど社会が進展しても、ひと同士が完全に和解することはありえないだろう。社会から犯罪がなくなることは考えられないし、細かな差別や矛盾や争いもまた決してなくなりはしないだろう。  すべてを恒久的に解決する手段は、結局のところ、『新世紀エヴァンゲリオン』で描かれた恐怖の「人類補完計画」のように、溶け合って自我を喪失することくらいしかないように思われる。しかし、くり返すが、だからといって絶望する必要はない。  必要なのは、ミクロの問題に充ちた人間心理を、マクロの問題に繋げないための方法論であるはずだ。ひとはどうしようもなく愚かかもしれないが、そこでだから世の中はどうしようもないのだ、と思考停止して社会問題を放置することは何の発展性もないだろう。  ひとは愚かだ、戦争はやまない、と絶望してみせることはいかにも深遠な思想めいているかもしれないが、じっさいには何もいっていないに等しい。ミクロの人間の愚かさと、マクロの社会問題解決とは、別次元の話と見るべきなのだ。  もっとも、たしかにひとに絶望したくなる気もちはぼくのなかにもある。ひとりひとりの人間を個別に見ていけばともかく、集団としての人間はあまりにも愚劣に見える。じっさいにいままであまりにも多くの失敗を犯してきた。  たとえ綺麗な理想を掲げたところで、その理想を土足で穢してきたのもまた、人間なのだ。反戦争、反差別、対話による解決、そういった美しいお題目に比べ、現実の人間社会はあまりにも汚れているように見える。  アニメ『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GiG』には「水は低きに流れる」という印象的な台詞が登場する。水が低いところに流れるようにひとの心も安易な方向に移りゆくものだ、それはひとの心の根本的な性質でありどうすることもできないのだ、という意味だろう。  それ自体はたしかにそのとおりである。それでは、どうすれば良いのか。その、安易に流れやすいひとの心が社会を暴走させないようシステムを整備し、個別の愚かさを巨大な問題に繋げないよう努力することしかないだろう。  いわばひとの心の用水路を作ることこそ、我々が取り組まなければならない喫緊の課題であると思うのだ。じっさい、それはあまりにも遠大なプロジェクトであり、ほとんど何の身も結ばないかのように見えるかもしれない。しかし、現実にはそうではないのだ。  永遠に理想へたどり着くことはありえないとしても、人類はじっさいにいくつもの問題を解決している。いつもいつも「ひとはわかりあえない。だから戦争はなくならない」と絶望し嘆いてみせる態度は、冷静な認識ではあるかもしれないが、やはり誤謬を抱えている。  火をなくすことは不可能でも、大火災をなくすことは不可能ではないということと同じ理屈だ。何も絶望する必要はない。これからもわかりあえないまま、自我と自我の摩擦を抱えたまま、ひとは社会を進歩させていくだろう。それは人類の壮大なる歩みそのものである。  アムロとシャアはどうしようもなくわかりあえない。しかし、戦争の開戦、継続理由はべつにそこにあるのではない。その意味で、『ガンダム』のテーマは決して乗り越えられないものではない、とぼくは信じるのである。ひたすらに悲惨な殺しあいを描けばリアルだというものではないよ。
弱いなら弱いままで。
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