mi_murayamaさん のコメント
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今年、小野不由美『十二国記』の新刊が出るという。まずは短篇集になるようだが、長編が続くと考えていいのではないか。物語は素晴らしくいいところで中断している。十年ぶりに続刊を読めるとしたらこれ以上の歓びはない。
『十二国記』は稀代の傑作である。だれもがそういうし、ぼくも異論はない。ほんとうに面白い物語だと思う。ただ、それでもぼくはこの小説にかすかな違和感を覚えることがある。批判というほどつよい思いではない。ほんとうに小さな、それでいいのか、という違和。
それはこの小説の価値観に対する違和だ。『十二国記』の登場人物はそれぞれ偉い。立派である。初めは愚かだったり卑小だったりする人物も、時の流れとともに成長してゆく。ぼくはその立派さについていけないものを感じる。だれもがあまりにも偉すぎる。というか、物わかりが良すぎる。
それをいちばん強く感じたのが、いまのところ最大の長編である『風の万里 黎明の空』だ。主人公である陽子を含めた三人の少女たちの放浪と成長を描いた物語だが、その成長がぼくには少々無理があるものに思えた。
『風の万里 黎明の空』一編を貫くテーマは「自己憐憫に耽るな」ということだと思う。自分を哀れんで泣いてばかりいると、自分がだれよりも可哀想に思えてくる。それは何ら事態の解決につながらない。だからそうしてばかりいないで、行動したほうがいい、と。
このテーマ自体には異論はない。ぼくもよく同じ趣旨のことをいうし、正しい考え方だと思う。しかし、ぼくにはどうにもその正しく、また高潔な考え方に違和を覚える。つまり、自己憐憫に耽るまい、と思ってもどうしてもそうしてしまうのが人間ではないか。
たしかに自分を哀れむことは不毛かもしれないが、だからといっていつも凛としていられるかというとそうでもないはずだ。しかし、『十二国記』はそうした弱さを許さないように思える。そこに何か窮屈なものを感じざるをえない。
これが『銀河英雄伝説』だと、そういう感想にはならない。ラインハルトは高潔だが、それは単にかれが特別な人物だからそうだというだけであって、だれもが高潔であるべきとは描かれていないと思うからだ。『銀英伝』には善人とはいいがたいが魅力的なキャラクターもたくさん出てきていて、それが作品を多彩に彩っていると思う。
『十二国記』の場合は、やはり悪い奴はひたすらに悪い奴、というところがある。それが最もつよく出ているのが『東の海神 西の滄海』で、この作品の敵役である斡由は、初めは颯爽たる姿で出てくるのだが、結局、無残な醜態をさらして退場する。かれの役割は主人公のひきたて役であるに過ぎない。こういうところが、どうにも納得できない。
でも立派すぎる人たち、の息苦しさはあんまり感じないです。見えないところではわりと呑気にやってそう。
「華胥」にも、兄の語る理想の国には自分のような平凡な人間の居場所がない、と言う大公が出てきますね。
むしろ成田美名子の方が…みんな善意と気遣いと気配りの人で、サイファとか、わたしはそこまで考えて生きていけないよ、もっと日々無神経に生きちゃってるよ、と思いながら読んでました。
上の方、わたしもその解説読みましたw
なので、死なないラインハルトってことは銀英伝で否定されている専制政治を意味してて、ってことは、世界の制度、天のシステム崩壊が物語のオチか、と妄想してました。
うー、すっごく楽しみですが、待つのが長い!
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