「オタクでありながらヤリチン」というジャンルの男性がいることは世間にはあまり知られていませんが、そもそもオタクとヤリチンは似ています。
ヤリチンが「多くの女性とセックスできる自分が好き」というナルシシズムで心の穴を埋めようとしているように、自己肯定してないオタクは「モノや概念が好きな自分」「それについて他人より詳しく知ってる自分」が好きで、そのナルシシズムで心の穴を埋めようとしているのです。この「モノや概念」というのは、アニメやアイドル・パソコン・車だけでなく、仕事・お金・教養・スポーツ・健康なども含まれます。
つまりオタクは、その対象が「女性」に変わるだけで簡単にヤリチンになるのです。ヤリチンとは、ようするに「セックスおたく」のことなんです。
二村ヒトシの『恋とセックスで幸せになる秘密』が面白くて、ふるえながら読んでいる。『すべてはモテるためである』が男性向けの本だったとしたら、こちらは女性向け。
「いい恋がしたい」と思いながら、「愛すること」や「愛されること」に失敗しているすべての女性たちにささげる至純の一冊となっている。
書かれてあることはシンプルで、なおかつぼくの日常からは遠い内容なのだけれど、それにもかかわらずいちいち腑に落ちる。女性がどうこうというより、人間ってそういうものだよなあ、と納得できる内容だ。
『すべてはモテるためである』では「キモチワルさ」という刺激的な言葉で表されていたものは、ここでは「心の穴」という表現が使われている。
すべてのひとの心には、どこかしら「穴」が空いている。その「穴」の形こそは、そのひとの個性そのもの。そのひとの欠点や欠落、そして長所や魅力も、すべてその「穴」から湧いて出ているのだ、と二村は云う。
そして、まずは「穴」のことを正確に知るよう努力しよう、と誘いかける。そうすれば、いつか自分自身を肯定し愛することができるようになるかもしれない。
二村はここで「自己肯定」と「ナルシシズム」を明確に区別している。そして「自己肯定」とは「自分への愛」であり、「ナルシシズム」とは「自分への恋」であると云う。
愛するとは、「そのひとをそのままに受け止めること」であり、恋するとは「そのひとを自分のものにしたいこと」である。つまり、前者はあいてを抱擁しようとし、後者は束縛しようとしていることになる。
しかし、恋と愛は恋愛というコインの裏表であって、どちらも欠かすことができない、らしい。
思うに、もし、一切の愛がなく恋だけだとすれば、それは「支配欲」に過ぎなくなってしまうだろう。あるいは、まるで恋がなく愛だけだったなら、それは「父性」や「母性」に近い感情ということになるかもしれない。
ぼくたちは「あいてのそのままの姿を受け止めたい」という想いと、「あいてを思うままに束縛したい、所有したい」という気もちの狭間で、恋愛している。
そのバランスが崩れてしまうと、恋愛はたやすく「依存」や「暴力」へと姿を変える。二村はその傾向を指摘し、警告しているように思える。
二村が特に問題にしているのは、「愛されたい」と願いながら、「自分には愛される資格がない」と思い込んでいる自己肯定感の低い女性たちである。
だれよりも強く愛されることを願っていながら、「自分で自分に価値があることを信じられない」ために、よりリスキーな恋愛に突き進んでいってしまうタイプ。
すべては彼女たちの「心の穴」がそうさせているのだが、自分の「心の穴」から目を逸らしているとなかなかそのことに気づかない。
そして、どこにいるともしれない「理想の恋人」をひたすらに追い求めたり、あるいは「だれでも同じだから」とたいして好きでもない人物と結婚してしまったりする。
彼女たちがほんとうに求めているものは、恋されることではなく愛されること、つまり「いまの自分をそのままに肯定してもらうこと」だと二村は語る。
そう、多くのひとが「いまそこにいる自分」を無条件に肯定してほしいと願っている。しかし、それでいて同時に「こんな自分には何の価値もない。こんな自分を好きだ、などというひとは愚かなのではないか」とも考えている。この倒錯、この矛盾がときに恋愛を破綻に追い込む――そういうことらしい。
恋愛は一面で愛情であるが、べつの一面では欲望である。だから、それは「依存」や「暴力」と簡単にすり替わる。しかし、それでいてその表面はどこまでも美しくコーティングされているから、ひとはなかなか自分の「心の穴」に原因があるのだということに気づかない。
ここでぼくは、以前読んだ『デートDVと恋愛』という本を思い出す。「デートDV」とは、ここでは「恋人同士や夫婦の間の暴力」全般を指している。
「なぜ、愛し合っているはずの恋人同士や夫婦の間で暴力が起こるのか、それを防ぐためにはどうすればいいのか」を語った本である。
この本のなかに「シングル単位の恋愛」、「カップル単位の恋愛」という概念が出てくる。つまり、恋していても自分は根本的にはひとりであるという考え方(シングル単位)で恋愛を捉えるべきで、ふたりはいつもいっしょで、ひとつの物語を共有しているという考え方(カップル単位)で捉えるべきではないという主張だ。
「カップル単位」で恋愛を捉えることこそすべてのドメスティック・バイオレンスの根源なのだから、あくまで「シングル単位」の価値観を続けるべきだ、という内容である。
少女漫画とか、恋愛映画、テレビドラマなどを見ていると、「愛しているからこそ支配したい、束縛したい、自分のものにしたい」という形の恋愛観が頻出している。
しかし、上記で見て来たように、それは愛というより恋、愛情というより欲望の表出である。だから、それは支配や暴力と紙一重のところにある。
しかし、どうしても恋愛にはどこか「支配欲」が絡むところがあることも見て来た通りだ。物事を「カップル単位」で捉えることこそが恋愛の醍醐味というところは、たしかにある。
たとえば、自分が浮気してもまったく平気な恋人を持ったら、どこか物足りない気がしないだろうか。「もっと自分を支配してほしい、束縛してほしい。そのことで愛を感じたい」という欲求は、かなりの程度、普遍的なものであるように思える。
甘美な恋愛はかくも深遠な罠に満ちている。みんな、「心の穴」から湧き出てくる「さみしさ」に耐えられないのだ。
ほんとうに健康なひとなら、自分の「心の穴」を直視し、それと向きあって付き合っていくことができるだろう。しかし、その勇気がないひとは「ナルシシズム」に逃げ込む。
ひたすらに自分自身を見つめ、「インチキな自己肯定」に逃避する。冒頭で引用したように、二村にとっては、「ヤリチン」も「キモいオタク」も同一の存在の別側面である。
二村は