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はと大佐さん のコメント

>>2
それは関係ない。
漫画やドラマのように、いじめられている人を目を逸らさず救える者などごく僅か。
貴方の考え通りならば、世の中はいじめの加害者で満ち溢れている。

見てみぬ振りしないことを普通と認識しているのがそもそもの間違いで、
見てみぬ振りしない英雄にみんななっていこう、という考えを持つべきだ。
誰だって、自分が一番可愛いのだから。
No.13
148ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 昨日、会員制有料記事サービス「cakes(ケイクス)」がスタートしたので、さっそく入会してみた。週150円でエッセイやらインタビューやら写真集やらいろいろな記事を読めるというサービスで、なかなかお得感がある。  執筆陣のひとりに岡田斗司夫がおり、「道徳の時間」と題する連載を行なっている。ウォッチャーというほどではないものの、岡田氏の活動を興味をもって見つめているぼくとしては読みのがす手はない。さっそく読んでみた。  うむ。何だかなあ。結論から書くと、第一回から飛ばしまくり、ツッコミどころありまくり、の内容である。ひとことでいうと、現代は道徳が衰えた時代だから、ふたたび道徳を確立し行きわたらせるべきだ、という趣旨のようだ。  それはまあ良いのだが、やはり論旨に承服しがたいものが少なくない。そこで、岡田の論を引用しつつ、その妥当性を検証することとしたい。  あるいは閉じられた商業サイトから引用を行うことは不法行為であると考えられる方もいらっしゃるかもしれない。しかし、その理屈でいうとそもそも商業サイトの文章を批判したり、検証したりすることは不可能になる。それはあまりに不健全である。  また、お金を払わないと読めないという意味では一般書籍も同様であり、商業サイトからの引用もまた書籍の場合と同様に行えば良い、とぼくは考える。以下の引用はすべてここ(https://cakes.mu/series/37)から行なっている。  岡田斗司夫個人に対してはともかく、ケイクスというサービスそのものに他意がないことはもちろんだ。むしろぼくはこれからのケイクスに期待している。そうでなければ、お金を払って記事を読んだりしない。  さて、岡田はまず道徳について「物事を考えるときのベースにある、感情的な部分のこと。物事の出発点であって、個人個人がどうしたいと感じるかの問題です。その皮膚感覚についての共通認識が深められておらず、希薄化していると感じることがよくあります。僕は、それを「道徳の低下」だと思っています。」と語り、その傍証としてある記事を持ち出す。  「ドライバーの6パーセントは、あえて路肩にはみ出しても動物をひき殺すことが判明」と題する記事である(http://www.gizmodo.jp/2012/07/6_20.html)。これは道の路肩に動物の形をしたゴム製品を置いたところ、1000人中60人ほどのひとがわざわざ轢いていった、という話だ。  岡田はこの話から、こう敷衍する。 岡田 わざわざ路肩に乗り上げて轢くというのは、リスクのあることですよね。逮捕されることもありうる。それなのに、6%もの人がやってしまった。これは、 魔が差したってことなんでしょうか。少なくとも、自分はそんなことをやらない気がするんですよ。自分の周りでもそんなことをする人はいないんじゃないかな。でも、やってしまう人が一定数いる。この人たちは、自分と違うのだろうか。おそらく、動物を轢くことが悪いという皮膚感覚を持っていない人なんです。  しかし、リンク先の記事を読んでみると、その「動物」というのはカメ・ヘビ・クモだけである。カメはともかく、クモやヘビを轢き殺すことがそんなに異常なことといえるかどうかは微妙なところだろう(そもそもクモを動物といっていいのやら)。  たまたま路肩にはみ出て轢いてしまったということだってありえるわけだし、この実験結果がどこまで信頼に値するかは、なお検証を必要とすると思う。そしてそれ以前にアメリカの実験なのだから、日本の参考にはならないはずだ。  また仮にこの実験結果が正しく、日本の参考にもなり、そしてそれが「動物を轢くことが悪いという皮膚感覚を持っていない人」が一定数いることを表しているとしても、それが現代が道徳心が衰えた時代だという証拠にはならない。昔だったらもっとたくさんのひとが「動物」を轢いていたかもしれないのだから。  しかし、岡田はここから「だから、現代には道徳が必要だ」という論を展開していく。岡田によれば、かつて道徳を担っていたのは小説だったという。「ドストエフスキーの『罪と罰』もそうでしょう?」というのだが、『罪と罰』ってそんなに道徳的な話だったかな……。  まあ、それは良いとしても、「しかし一時期から、あらゆる作家が、道徳から外れることをよしとして小説を書くようになってしまった」という話は納得しがたい。それはいったいどこの世界の小説の話だろう? いまも昔も、お涙ちょうだいの良い話もあれば残酷無残な話もあると思う。  仮に昔は道徳的な小説ばかり、いまは反道徳的な小説ばかりだというのなら、「悪魔派」と呼ばれた谷崎潤一郎や猟奇耽美趣味の江戸川乱歩のような作家はどういう位置づけになるのだろうか。  が、岡田によればそれも「これは、社会の完成と関係していると思います。社会が完成して盤石の体制になってしまったために、創作物にはそれを打ち壊す快楽が求められるようになった。尾崎豊が校舎のガラスを割ったことを美談にするのは、校舎のガラスがいつも綺麗に整備されるようになったからなんですよ」ということになる。  尾崎豊による「校舎のガラスを割ったこと」は単なる歌詞であって「美談」ではないと思うが……。いや、しかし、ここまではまだ良い。どうしても受け入れられないのは最後の発言。 ――学校が道徳の場でなくなったことは、最近のいじめの傾向にも影響しているんでしょうか。 岡田 していますよ。というか、「最近のいじめ」と言っていますが、「いじめ」というのは、ここ10年の間に出てきたもので、僕らの世代は経験していないものなんです。  ええっ。岡田さん、本気ですか。ぼくにいわせれば、「いじめ」ははるか昔から連綿と存在した。仮に「いじめという概念がなかった頃のいじめはいじめとは呼べない」と考えるとしても、たとえば大きな社会問題になった大河内清輝くんのいじめ自殺事件は1994年のことである。岡田にとってこの事件はいじめには含まれていないのだろうか。  もちろん「10年前にはいじめはなかった」などという話は常識的に考えて論外だから、岡田はこの先、何らかのトリッキーないじめの定義を持ち出すのだろう。どうやってこの奇想天外な意見を正当化するのか、気になることはたしかである。岡田斗司夫にしか通用しないいじめの定義というものがどれほどの価値があるのかはわからないが。  しかし、それ以前の問題がある。はたして岡田斗司夫に道徳を語る資格があるのか、という問題である。一般的にいって、論と人は分けて考えるべきなのかもしれない。たとえばナチスと関係していたとされる哲学者ハイデガーの問題などもあるわけで、人格的、あるいは行動的に問題を抱えた人物にも正論を語ることは可能である、と考えることはできる。  が、仮にそう考えるとしても、なお、岡田の行動と言動の格差はかれの言動への不信感を生まずにはおかない。なぜなら、岡田は過去、いじめ事件を起こしているからだ。  「OLD PINKお見合いオフ事件」と呼ばれるもので、岡田が自分の事務所に居候している青年をある女性と「お見合い」させ、周囲の人間とともにかれを笑い飛ばしたという「事件」である。くわしくはここ(http://d.hatena.ne.jp/kensyouhan/20110118)を見てほしい。  その場に立ちあったという竹熊健太郎氏の証言によると、 お見合い相手のぱおずさんは最初から呼ばれていたと思います。それで、OLD PINK氏の一挙手一投足に全員が声を上げて笑っていて、真面目なのはOLD PINK氏だけ。それで彼が「僕と交際してください」と告白したのですが、当然ばおずさんは「ごめんなさい」をするし、場内大爆笑だし、OLD PINK氏は能面のようになって硬直していて、不覚にもその時初めて僕は、「これは岡田氏によるパワハラだ」と気が付きました。当時OLD PINK氏は岡田氏の事務所にたしか無料で居候していて、仕事と住居を提供してもらっている岡田斗司夫氏には逆らえない立場でした。 「唐沢俊一の悪口の技術。」コメント欄(http://d.hatena.ne.jp/kensyouhan/20110118)    こういう内容だったようだ。これをぼくは「いじめ」以外の何ものでもないと考えるのだが、岡田氏はどう考えているのだろうか。いじめ加害者が自ら「自分の時代にはいじめはなかった」といっても、信頼に値しないことは明白だろう。とにかく、次回が楽しみな連載であることは間違いない。  岡田さん、岡田さん、いくらとじられた商業サイトだからって、あまり飛ばさないほうがいいと思いますよ。たとえばあなたと同世代でお友達の山本弘さんだって、自分はいじめの被害者だと主張しているのだから(http://hirorin.otaden.jp/e244884.html)。  山本さんがこの記事を読んだら何というのか、それも気になるところではある。
弱いなら弱いままで。
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