弱いなら弱いままで。
久遠の「道」。
昨日、録画しておいたテレビ番組「アスリートの魂」を見ました。今回の題材は「弓道」。29歳にして最年少で弓道の頂点、天皇杯を制覇しながら、そのあと長い試行錯誤の道に入ったある選手を追いかける内容でした。
これがね、面白かったんですよ。いや、ひとことで面白かったといっていいものなのかどうか、迷うところなのですが、それでもあえて面白かったといおう。
何がそんなに良かったのかといえば、この選手、何と天皇杯制覇の翌年、すべて的にあてていながら予選で敗退してしまうのです。
どういうことなのか? ぼくもよくわからないのですが、ようするに、弓道においてはただ的にあてればいいというものではないらしいのですね。
そこには細かな作法やら礼法やら美意識やらが存在していて、それを無視すると、たとえ的にあてても評価されないらしい。
いや、わけがわかりませんよね。あたればいいじゃん、と思うんだけれど、そういうものじゃないのかな? そういうものじゃないらしいんです、これが。
じっさい、この選手は「きみがやっているのは弓道ではなくただの的当てだ」などと審査員から酷評されたとか。それからかれは長い長い迷いの道に入ってしまうわけなのですが、何だかなあ、と思いません? ぼくは思います。
日本で一般に「武道」といわれる競技は、いずれも「礼」を重視します。「礼に始まり礼に終わる」。しかし、それはあくまで競技内容とは別のこと、少々非礼であってもその選手の得点とは別に考えることが普通だと思います。
ところが、弓道ではそうではないらしい。「礼」とか「美」というものが、選手としての評価にダイレクトに関わってくることがありえる世界らしいんですね。
ぼくもくわしいことは知らないから適当にいっているのですが、それにしてもそんなことがありえていいのか、と思ってしまいますよね。
競技である以上、まずは矢が的にあたるかどうかがいちばん重要なんじゃないの、という考え方がそこでは通用しない。それはまさに「スポーツ」とは似て非なる「道」なのでしょう。
そもそも日本人はスポーツにおいても独特の美意識を持ち、あくまで美しく戦うことをよしとするところがあります。柔道で一本勝ちにこだわったり、野球で敬遠を問題視したり、相撲で品格がどうこうといいだしたりするところですね。
そこには単なる成否勝敗を超えた崇高な美意識が存在するのです。あるいは、存在するとされています。しかし、ほんとうにそんなものがあるのか、というと、その確証は何もないわけです。
その道の名人とされる人々が「あるのだ」と主張しているだけで、科学的にその実在が確認されたわけではない。
弓道にしても、名人は「大切なのはあてることではない」というようなことをいいます。それでは、何が最も重要なのかといえば、
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