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海燕さん のコメント

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海燕
 もともとぼくはその種のヒエラルキーを認めませんけれどね。
No.2
121ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 熊代亨『融解するオタク・サブカル・ヤンキー ファスト風土適応論』読了。ここ最近、何となく読書意欲があって、1日2冊か3冊くらいのペースで読んでいっているのですが、そのなかでもこの本は良かった。色々なことが非常に明快になりました。  もちろん、いままでもマイルドヤンキーとかライトオタクといった言葉は知っていて、その意味するところについても考えていたのだけれど、「それらは同じひとつの現象の別の側面なのだ」という発想はなかった。  熊代氏には感謝したいところ――って、シロクマ先生じゃん! シロクマ先生、良いこと書くなあ。いやはや。それでは、まずはその著者のウェブログから本書に関する記述を引用してみましょう。  近年は、オタクが死んだ・サブカルは終わった・ヤンキーがマイルドになったと言われていますし、実際、地方の国道沿いや郊外では、オタクともサブカルともヤンキーともつかない若者を多数みかけます。そうした現状を、オタク論・サブカル論・ヤンキー論それぞれ単体で論じるのは難しく、どこか不自然ではないかと私は思い続けていました。    本書では、それぞれに尖っていたオタク/サブカル/ヤンキーが大衆化していくプロセスを振り返りながら、かつてサブカルチャーに求められていたものと現在サブカルチャーに求められているものの違い、一昔前の尖った趣味人の心理的ニーズと現在のハイブリッドな消費者の心理的ニーズの違いについて論じました。    現在のファスト風土には、オタク的/サブカル的/ヤンキー的な意匠やコンテンツが溢れかえり、そういう意味では、オタクもサブカルもヤンキーも今が全盛期と言えそうです。しかし、魂としてのオタク・魂としてのサブカル・魂としてのヤンキーはどうでしょう?それぞれのジャンルが融合しながら普及していくうちに、スピリットが失われてしまったのではないでしょうか。控え目に言っても、薄められてしまったものがあるのではないでしょうか。 http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20140912/p1  つまり、本書は「オタクが死んだ・サブカルは終わった・ヤンキーがマイルドになった」という現象を、ひとつながりの事態として捉え、分析しているわけです。  これはねー、率直にいって慧眼だと思う。自分で気付けなかったことが悔しいくらい。ぼくは主にこのうちの「オタクが死んだ」という側面に注目して物事を見ていたわけですが、それだけでは真実は見えて来なかったんですね。  いま考えるとライトオタクとマイルドヤンキーに共通項があることは自明にも思えますが、いままではそういう視点はなかった。ここらへんが具眼の士とただの凡人の落差というものなのかもしれません。  さて、ぼくの目に「ライトオタク」という言葉が飛び込んできて、初めて「オタクが何だか変わり始めている」という文章を読んだのは2004年のことです。  この記事( http://www2u.biglobe.ne.jp/~captain/sub1_241.htm )ですね。そこでは、岡田斗司夫さんの本に触れつつ、こんなふうに書かれています。  読まれた方はわかっていると思いますが、未読の方も岡田氏の提示し定義した「知的エリートとしてのオタク」については機会があれば読まれることをお奨めします。(まだ文庫版は入手できますし。)  「オタクというのは何か?」をきちんと語り説明し伝えたメディアとしてあの本しかなかったことから、肯定するにしろ否定するにしろ、その後の「オタク論」の起点になっています。  そこで提示されていた「本来のカテゴライズでの“オタク”」ってのと、最近多い 「アニメを見ているから僕もオタクです。」 「ギャルゲーに萌えてるから僕もオタクです。」 「フィギュアやグッズをいっぱい買っているから僕もオタクです。」  …なんてのは全く違います。  フィギュアに関してもそういう人たちが大量にいるというのは以前『食玩テキスト』で書いたとおりですが、その他のアニメなどのジャンルに関しても同じ。  「オタク」なんてその程度で名乗れるものではないんですよ。  正しい言い方するなら、それらはファンでありマニアでありコレクターです。  明らかに視点がクロスしないため、こういう層を僕は最近「ライトオタク」層と呼んで分けています。  あるいは「自称・オタク」層。  はい、出ました、「ライトオタク」。ここで書き手ははっきりと侮蔑と敵意を込めて(といっていいでしょう)その「新しいオタクの層」を認識しています。  個人的には岡田斗司夫さんが定義しようとした意味での「オタク」は、90年代中盤には挫折していると考えますが(オウム事件があったからです)、まあとにかくそういう「濃い」オタクの視点から見たら「新参者のぬるいオタクたち」なんて、軽蔑すべき対象以外の何ものでもなかったことはよくわかります。  しかし、御存知の通り、それから10年、「ライトオタク」は増えつづけ、勢力を増しつづけ、いまや「オタク」という言葉が指す層の代表として認知されるに至っています。いやー、歴史って面白い。  ここで起きているのは「オタク文化のカジュアル化」という現象です。それまで、オタク文化とは、ある程度「覚悟」を定めないと飛び込めないイヤ~ンな文化だったんですよ。  何しろバカにされたりキモがられていたし、ちょっとやそっちの覚悟では「ぼくはオタクです」なんていえなかったわけです。ぼくもそれでどれだけ苦しんだことか……。  まあ自分語りはいいとして、そういう「楽しむ者の覚悟を問われる文化」であったオタク文化が、このあたりから急速に「だれでも楽しめるカジュアルな文化」に変わり始める。  象徴的なことに、2004年といえば『電車男』が出た年です。 
弱いなら弱いままで。
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