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ぱふぱふ屋さん(1985年生組)さん のコメント

私も、人が聞けば驚嘆するほど苦しい期間を過ごしたなぁ。
実際に言われた。「貴方は普通の人が経験してきた苦難とは違う。本当によくここまで耐えたね」って、複数のひとに。
上京一人暮らししてた18ー24は地獄の苦しみだった。並の人間なら発狂や自殺もありえただろうなてくらい。
それでもまともでいられてるのは、家族の愛と、レジエンスなんたらが高かったのかな。
ま、元々善人っぽかったのが悪いことも出来るようになっちゃいましたがんね。他人様のブログに匿名で好き勝手書くワルにもなったし。精神安定剤飲むメンヘラニートにもなった。
海燕さんはずっとニートなのに成長できてすごいねぇ。(皮肉) どーやって成長してんだろ。 友達のおかげなのかな。

あそうそうもう精神安定剤は必要なくなりましたか?
No.4
123ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 もうひとつ記事を更新しておこう。最近、人畜有害くんことてれびんが「レジリエンス(またはレジリアンス)」という言葉を仕入れてきて話すのですよ。これがなかなか興味深い概念なので、記事にしておきたいと思います。  それでは、レジリエンスとは何か? Wikipediaにはこのように記されています。  レジリエンス(resilience)は「精神的回復力」「抵抗力」「復元力」「耐久力」などとも訳される心理学用語である。心理学、精神医学の分野では訳語を用いず、そのままレジリエンス、またはレジリアンスと表記して用いることが多い。「脆弱性 (vulnerability) 」の反対の概念であり、自発的治癒力の意味である。  つまり、何かひどい目にあったり、大きく傷ついたりした時、そこから立ち直り回復する力、それがレジリエンスということになるらしい。  てれびんがいうには、このレジリエンスを持っているかどうかで大きく人間的魅力が左右される、と。  医学的にどう厳密に定義されているかどうかはよくわからないのですが(専門書も出ていますが、いずれも高価で手が出ませぬ)、たしかにてれびんがいうことはうなずけます。  ひどく苦痛だったり悲劇的だったりするライフイベントを乗り越えて生きている人には、そうではない人にはないある種の人格的魅力が宿るのではないでしょうか?  さらにWikipediaから引用してみましょう。  チャーニー(Charney) は2004年に「アロステイシス(allostasis)」という概念を提唱し、それを構成する要素としてコルチゾールに始まり、セロトニンを含む11の生理学的ファクターをあげている。 しかし、レジリエンスは生理学的ファクターだけではない。 2007年にアーミッド(Ahmed) が、目に見えやすい性格的な特徴を「脆弱因子」と「レジリエンス因子」にまとめたが、そこで特徴的だったことは「レジリエンス因子」は「脆弱因子」のネガではないということである。 「脆弱因子」を持っていたとしても、「レジリエンス因子」が十分であればそれが働き、深刻なことにはならない。 その「レジリエンス因子」には「自尊感情」「安定した愛着」から「ユーモアのセンス」「楽観主義」「支持的な人がそばにいてくれること」まで含む。  国内では小塩真司らによる研究もあり、レジリエンスは「新奇性追求」「感情調整」「肯定的な未来志向」の3因子で構成され、また苦痛に満ちたライフイベントを経験したにも関わらず自尊心が高い者は、自尊心が低い者よりもレジリエンスが高いとする。  なるほど。  ぼくはいままで疑問に思っていました。同じように傷つき、苦しみながらも、一方には絶望して死んでいく人々がおり、他方にはそれを乗り越えて生きながらえてやがては幸せにたどり着く人々がいる。この差は何なのか? 何がひとの生死を分けるのか?  ひとつの答えは「運」、つまり「偶然」であるとするものです。すべては神さまがサイコロを振って決めているのであって、ひとの意志によって決まるわけではない、と。  これはかなり説得力がある意見です。じっさい、悲劇的なライフイベントに遭って死んでいく人が必ずしも「弱い」とは思えず、またそれをとにかくも乗り越える人が「強い」とも考えがたい以上、何もかも偶然だ、と考えたくなることはわかる。  そして、それはある程度正しい考えなのでしょう。神の手が左右する側面はとても大きい。しかし――それだけではない。やはりあきらかにその人のレジリエンスが関わっていると考えるべきではないでしょうか。  注意するべきは、レジリエンスとは「傷つかない力」ではないということです。ある種の「耐性」のようなものを想像すると誤ることになる。  つまり、強いレジリエンスを持っている人でも、痛い目にあうとやはり痛いのです。傷つき、悩み、苦しみ、のたうち回るのです。その傷の深さは決してレジリエンスの弱い人と異なるものではない。  しかし、強いレジリエンスがある人は、それでもなお、そこから立ち直っていくのです。ほんとうにギリギリのところで、かれは死を回避し、涙と鼻水を垂らしながら立ち上がる。そしてまた歩き始める。  そう――レジリエンスとは、究極的には「死なない力」であると考えます。死にたくなるほど辛い目にあっても、なお、死なず、そして時間をかけて回復していく能力、それがレジリエンスなのではないか。  だれもが何かしら心の脆弱性(ヴァルネラビリティ)を抱えているものでしょう。そして、そこを突かれて苦しむこともあるでしょう。ですが、レジリエンスがある人はそうやって苦しんでもやがては回復する。  一方、レジリエンスがない人はその傷が致命的なものとなる。アカデミックにどう定義されているかはわからないものの、そういうことなのではないかとぼくは思います。  いい換えるなら、レジリエンスとは「生きのこる力」だということ。「生きる力」という言葉は使い尽くされて陳腐化した印象がありますが、ここでいう「生きのこる力」はそれとは微妙に異なるニュアンスを含んでいます。  それは必ずしも「絶望しない力」ではない。むしろ、何度となく絶望し、追い詰められ、死を考え、じっさい死のうとしたとしても、それでもなお、生きのこってしまい、やがては健康を回復してゆく力、それがレジリエンスということなのではないか。  しかし、べつだん、レジリエンスがある人が立派で、レジリエンスがない人が劣っているということにはなりません。より「死」に近いところにいる人ほど、他者に対して優しく振る舞う、ぼくはそういうことも見て来ました。  ただ、 
弱いなら弱いままで。
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