しゅじしさん のコメント
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新年も早くも一週間が過ぎ去ろうとしていますね。30歳を過ぎてから、いいかげんにしろと思うくらい時の流れが早くなったような気がします。
このまま何もしないでいると、簡単に40になり50になり60になってぽっくり逝くのでしょうね。ああ恐ろしい。
今年は西暦2015年、いろいろな人が語っている通り、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の舞台となっている年です。しかし、ぼくはそれにもかかわらず、『エヴァ』的なるものは既に終わったのではないかと思っています。
というか、昨年か一昨年あたりで『エヴァ』に象徴される方法論は完全に終わったのかな、と思うんですね。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』はタイトルこそ同じでも全く新しいことにチャレンジしている作品ですから「終わった」とか「もう古い」ということはできないけれど、『エヴァ』テレビシリーズが象徴していた考え方はさすがにもう完全に時代遅れになっただろうと。
ここでいう『エヴァ』が象徴する考え方とは、「トラウマ」によって生み出される負の情念が支配する人間観のことです。
皆さんご存知のようにトラウマとはある人が過去に負った心的外傷のことを指しているわけですが、『エヴァ』においてはこのトラウマが非常に重要だった。
シンジにせよ、アスカにせよ、ミサトにせよ、ゲンドウにせよ、過去に何らかのトラウマを背負っていて、そのトラウマに支配された人生を送っているわけです。
『エヴァ』の物語に対してはよく「狂気」という言葉が使われますが、作品世界に狂気をもたらしていたのはまさに数々のトラウマであっただろうと思います。
いいかえるなら過去が現代を支配するというのが『エヴァ』の人間観、ひいては世界観だったといっていいでしょう。
これは1999年を間近に控えた90年代中盤としては非常に説得力のある世界観でした。ぼくもその深刻きわまりない世界観に釘付けになっていたことを思い出します。
しかし、世界のマクロ状況は移り変わり、それはミクロな生活にも影響を与えます。したがって『エヴァ』から20年が過ぎ去ったいま、その種の考え方は、さすがに通用しなくなって来ていると思うのです。
この20年間で何が変わったのか。それはトラウマという過去の傷の支配を背景にした暗い世界観が魅力を失ったということなのではないかと思います。
それはつまり多くの人が「トラウマとかもういいよ」と思い始めたということなのではないでしょうか。みな、過去の出来事に延々と支配されつづけるという不健康な世界観から脱出したいと考えるようになったと思うのですよ。
殊に昨年はトラウマという概念そのものを否定するアドラー心理学が流行しました。ぼくもそのきっかけとなったベストセラー『嫌われる勇気』を絶賛していますが、これは非常に象徴的なことだと思うんですね。
もういいかげんトラウマ比べを続けるような暗い時代ではなくなりつつあるということを意味していると思うのです。もう時代はいかなる意味でも世紀末ではありません。新たに制作された『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の内容を見てもわかるように、より成熟した世界観でもって物事を語る時代が訪れたのです。
だからこそ、ぼくなどはくり返し「幸せになった」とか「不幸になることはあきらめた」と語るわけです。
一昨年の映画『風立ちぬ』の完成と公開あたりがひとつの節目だったでしょうか。時代は「過去のトラウマに支配され、何もできない」というモードから完全に解放され、「目の前の現実に積極的に関与する」モードに移り変わったように思います。
もちろん、これは時代の空気というか雰囲気の話でしかなく、客観的に論証できるかといえばできないのですが、ぼくは感覚的に時代の開放感を感じています。
たとえその果てにあるものが王国の残骸でしかないにせよ、それでもなお世界とその問題に関わっていくのだ、ぼくは『風立ちぬ』にはそのような意思を感じましたし、それは新たに来る時代を象徴するものだと考えます。
もちろん、それはただ闇雲に自分の道を選択すればいいということではなく、深慮熟考が必要とされることに変わりはないのですが、それでも「何も選ばない(エヴァに乗らない)」ということが最善だとする時代ではなくなって来ているだろう、ということです。
『進撃の巨人』のヒットなどもありますしね。庵野さんも結婚して何だかすっかり幸せそうだしなあ。いや、仕事が大変なのは間違いないだろうけれど、それは自分で選んでことである上に、ある意味で「まっとうな試練」です。「不幸」というような性質のものではないと思う。
『エヴァンゲリオン』的なるものは終わった、とぼくがいうのはそういうことです。ついに完全に新しい時代が幕を開けたように思うのです。
とはいえ、なかにはそう簡単に変わることのできない人もいます。だから、物語もまた完全に一新されるわけではない。前の記事で取り上げた『恋愛しませんか?』みたいな物語はそういう状況を象徴しているようにも思います。
『恋愛しませんか?』はまさにトラウマの物語です。じっさいには何の障害も問題もないとしか思えないにもかかわらず、過去のトラウマに支配され、前向きに生きることができない人物が主人公です。
そのかれに天使のような女の子たちが一方的に好意を寄せてくれるという、いわば「どうしようもないぼくに天使が降りてきた」系の物語ですね。
ぼくはそのご都合主義そのものを問題にしたいとは思いません。ご都合主義最高! ビバご都合主義! だって、ほんとうに天使のような女の子が降りてきたらいいと思うじゃないですか(降りてこないけれど)。
でも、「どうしようもないぼくに天使が降りてきた」なら、さっさとその天使を捕まえてしまうべきだと思うんですよ。「過去の傷がうずくのだ」なんて中二病みたいなことをいっているヒマがあるなら、さっさと告白して付き合って押し倒してラブラブになってしまえばいいじゃん、と。
いやまあ、そこに何かしらの問題なり障害があるのなら、それを解決する必要が生じるでしょうけれど、『恋愛しませんか?』の場合は特にそういうものがあるようには思われないのですね。
だったら、せっかく幸運が降りかかってきたんだから、それをキャッチするのに躊躇するのはおかしい。何を考えているのかわからない。ぼくはそんなふうに思います。
いや、過去のトラウマがあるせいでどうしても積極的になれないという話もわからないではないですよ。でも、いってしまえばそんなに大したトラウマであるようには思われないんですよ。
ちょっと同級生の女の子にからかわれたというだけで、それもほんとうに悪質な「いじめ」とかではない。ちょっとしたタチの悪いイタズラという程度です。
そんなものに一生を支配されて、目の前で可愛い巨乳の女の子がラブ光線を放っているのを無視し、ネクラなオタク人生を送るなんてばかげている。そうは思わないでしょうか? ぼくは思うのです。
いや、べつに「二次元より三次元を選ぶほうがまともだ」とかそういうことをいいたいわけじゃなくて、二次元を選んでもいいんだけれど、その理由がちゃちなトラウマとかじゃダメだろうと。幸せになれるチャンスがあったらさっさと幸せになってしまえよ、と思うんですよ。
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至言だと思います。おかげでアマゾンのサイトで「嫌われる勇気」をポチってしまいました。
今年も素敵な作品の紹介&批評楽しみにしております。
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