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㌧㌧さん のコメント

「叩き」のものにもよるでしょうけど、おそらく、こういうものは各自に
「これは社会的にこれくらいの反応をされるべきものだ」
という、ある種のバランス感覚があって
自分のレスポンスによって、社会に流れる道徳観や社会性の帳尻を調整しようという
守備意識も働いているんじゃないかと思います。
それが器用か不器用かなのかもしれません。

関係ないのですが、一連の記事を読ませて頂きまして
今回や前回の下りとは関係なく伺ってみたいのですが
岡田斗司夫に対して以前から興味があったとの事ですが
このタイミングで触れたのは何故でしょう。
またそうしたご自分に対してはどう思われているのでしょうか。
野暮かもしれませんが。
No.1
119ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 皆さん、いいかげん岡田斗司夫関連トークも厭になっている頃だと思います。ぼくも前の記事でもうやめようかと思っていたのですが、面白いコメントが付いたので、もうひとつだけ。  まずは前の記事に付いたそのコメントを引用します(読みやすいよう行頭にインデントを入れさせていただきました)。  海燕さんの意見の大半に同意します。  自分も岡田斗司夫の古いファンで、今回の事件の話を聞いても「岡田に裏切られた!」とは全く思っておらず、もともとこんな人だったというのが正直な感想で(80人彼女とかはさすがに驚きましたが)、むしろ興味の焦点は今後彼がどうやって今回の事態を収拾するのかという点にあり、どんなロジックで世間の道徳的批判に対抗するのか楽しみだったりします。  ただ一点だけ海燕さんと意見が違うのは、ネット上の反応に対する考え方です。  海燕さんは現状の「岡田斗司夫叩き」は明らかに不当だと仰っていますが自分はそうは思いません。  海燕さん自身、岡田さんに対して「道徳的共感」を行うことはむずかしいと言ってるように、ネット上の意見の大半はまさしく「道徳的違和感」を根拠に岡田氏を揶揄する物がほとんどのように思います。  殺人予告や脅迫をされたのなら確かに問題ですが、岡田氏のこれまでの他人を見下すような態度や言動を鑑みるに、傲慢な人間がヘタを打った瞬間に周囲から叩かれるのは火を見るより明らかなことで、岡田さん自身それは覚悟していたことではないでしょうか。 その上で世俗的な下々の者による道徳的批判には与しない。それが「オタキング」岡田斗司夫という人間なのだと自分は思っています。  それではその下々の者による道徳的批判は不当なのか?というと、これもまた「不当ではない」というのが自分の考えです。  なぜなら、岡田斗司夫が海燕さん言うところの「怪物」であるのと同様に、私達ネット民もまた別種の「怪物」だからです。  自分は海燕さんの「ぼくはその「怪物」を包摂する社会のほうが面白いと感じます」という意見に完全に同意します。  であるからこそ、面白おかしく岡田斗司夫を揶揄する怪物たちの言動を道徳的に批判するつもりはありません(法に反しない限りは)  そこで気になるのが海燕さんのネット民に対するスタンスです。  海燕さんはネット上の「怪物」と共存していくつもりはあるのか?  「怪物を包摂する社会」とは「怪物」をどのように扱う社会なのか?  海燕さんが言う通り岡田斗司夫が考えたかった問題とはこういうことなのではないかと思います。  非常に面白い意見だと思います。こういう反応が帰ってくると書いて良かったと思いますね。さて、ぼくの意見を書きましょう。  まず、ぼくは岡田さんに対して「怪物」とカギカッコ付きで記しています。これは「怪物と見られはするが実はそうとも限らない存在」というような意味を示したかったわけです。  あたりまえですが、岡田斗司夫がいかに冷酷といっても夜中になると牙が伸び羽根が生えてくるわけではないでしょう(たぶん。きっと。おそらく)。  岡田さんが怪物的であるとすれば、それはいわゆる「人間的情緒」に欠落があるという点にあるはずです。具体的には、女性に対する態度の無残さがそれを表しているように思います。この人には人並みの愛情とか共感といったものはあまりないのだな、と思わずにはいられません。  しかし、ぼくは人間に「人間的情緒」が必須のものだとは思いません。愛情とか共感とか、憐憫とかいうものが人間にどうしても必要だとは考えないわけです。  だから、岡田斗司夫も「怪物」ではあるにしても、同時に紛れもなく「人間」でもあるはずだ、ということを、まあ、いいたかった。「道徳的共感」がきわめてむずかしいキャラクターであるにしても、「人間」には違いない、と。  ちょっと余談になりますが、落語家立川談春の言行や文章をまとめた『談春古往今来』に、次のような話が出て来ます。  戦前、大物国士の用心棒で人殺しが趣味のような男がいたという。仲間内でもあいつにだけは逆らうなといわれていたが、その用心棒の飼い猫が死んだら三日三晩飲まず喰わずで泣き続けた。それを笑った男を用心棒、その男のカカトを切り取って殺しちゃった。親分が、カカトなんか切り取るんじゃないとたしなめたら、人間、カカトを取ると動けなくなるんです。それからゆっくりと殺すことを楽しむ、それが私の幸せですと答えたそうだ。実に心温まるエピソードではないか。  心温まるエピソードだと思うかどうかはひとそれぞれでしょうが、この話、ぼくは非常に面白いと思っています。ここにまさに「人間」がある。そう感じるからです。  「人殺しが趣味のような男」といったら、これは世間的には狂人、あるいはそれこそ怪物の類でしょう。その狂人にして怪物が、飼い猫が死んだからといって三日三晩泣き通す。まずここが面白い。  しかし、だからといってその男が「ほんとうはいい人」なのかといったらそうではなく、自分を笑った相手のことはこの上なく残虐なやり方で殺してしまう。  ある人間が、「いい人」とも「悪い人」とも、聖人とも怪物ともいい切れないこの矛盾。これが実に人間らしいなあ、と思うわけです。で、振り返るに、ぼくらの岡田斗司夫です。 (ここまで2155文字/ここから2219文字)  
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