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masafiro1986さん のコメント

あなたの記事は初めて読みましたが、
こういう記事を書いてくれたこと、ゲイのひとりとしてすごく嬉しいです。

僕はもう成人で「ネタにされること」にはもう「またか」と思うようになってしまいました。
なれっこで、いまはいちいち傷ついてなんていられないです。

でも、かつての自分を思い出すと、こういう「笑い」が怖かったです。

中学生くらいのころかなあ。

こういう「いじり」を一緒に笑えないと、一緒にいじって笑えないと、
なかまはずれになってしまうかもしれないという恐怖。
自分がホモだということを隠しながら、
一緒になって「ホモ(笑)」といって笑うつらさは、
思い出したくありません。

差別とか、偏見とか、そういう固いことばで言いたくないんですが、

誰かがホモネタで笑うとき、
その隣で、一緒に笑ってるふりして心がしめつけられてるひとがいたりする。
かつて僕がそうでした。

ただ、気軽にネタにされるくらい認知されているというのは、
昔に比べればずっといいことなんだと思います。
腫れ物にさわるような扱いをされるよりは、いいかな。

難しいですよね。

ホモをネタにして笑うのが、気軽な笑いだって言うのは、
今となってはわかるので、
僕自身はこういう事例をひとつひとつ糾弾しようとは思わないんですが、
(そうすることで人が遠ざかるほうがきついですし)

でも、こうやって当事者でないひとたちから、
「気を使おうよ」「相手のことを想像しようよ」という声をあげてくれるのは、やっぱり嬉しいです。
ありがとう。
No.21
149ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 数日前に、「タイトルの一部をホモに変えるとこわい」という遊びがTwitterで流行して、そのときのトレンドに入ったことがあった。名が知られた作品のタイトルの一部を「ホモ」に取り替えて遊ぶという他愛ない内容であるが、ぼくはこれに反発して、このように書いた。 オタクが社会の底辺だなんて大ウソ。もっとひどい扱いを受けているひとはたくさんいて、それに加担しているオタクも大勢いる。たしかにいわれない偏見の被害者になることも多いけれど、他者に同様の偏見を抱いているひとだって少なくないはず。被害者意識ばかり高まらせるのはどうかと思うなー。 「タイトルの一部をホモに~」みたいな残酷な遊びを見ていると『りはめよりも100倍恐ろしい』という小説のタイトルを思い出す。つまり「いじり」は「いじめ」より100倍恐ろしい、という話。本人たちは気軽な「いじり」のつもりでひとを追い詰める。 たとえば「タイトルの一部をオタクに変えると犯罪者の予感」とかいうタグがあったらどう思う? 「犯罪者予備軍扱いするな」って怒るんじゃないの? ぼくなら腹立たしいと思う。「タイトルの一部をホモに~」だって同じ事じゃないか? 抗議できない少数派の心なんて踏みつけにしてもかまわないのか? 「しょせん遊びだよw そんなむきになるなよw」ですか? きっと大津市のいじめ自殺事件の加害者だってそう言うだろうな。ぼくは空気が読めないといわれても羞恥心のある人間でありたいと思う。自分より弱い立場の人間を遊びで追い詰めるなんて恥ずかしくて出来ないね。 ぼくは究極的には自分さえ幸せに生きていければそれでいい。しかし、ほかのだれかが差別されいじめられる社会で、いつか自分に順番が回ってこないと考えるのは想像力がなさすぎるだろう。  それぞれのつぶやきは数十からリツイートされて広まった。深く考えたツイートでこそなかったが、いまでも考えは変わっていない。やはり言葉の一部を「ホモ」にすると「こわい」という言い草はセクシュアルマイノリティに対するデリカシーを欠いていると思う。  もちろん、単なる言葉の遊びであって、深刻な差別意識があるわけではないのだ、という意見はわかる。しかし、それによって傷つくひとがいるかもしれないのなら、もはやその遊びは暴力なのではないか。  べつだん、もっと政治的に正しい言葉遣いを選べ、などとといいたいわけではない。つまるところ、それは「政治的正しさ」以前の想像力の問題なのだと思う。これは差別だからやってはいけない、ということではなく、そのことでイヤな思いをするひとがいるかもしれないと考えられるかどうか、という話。  同性愛者や両性愛者などの性的少数派(セクシュアルマイノリティ)のことを、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの頭文字をとって、LGBTと呼ぶことがある。LGBTの自殺率はきわめて高いといわれている。  それはもちろん、LGBTであることそのものに問題があるのではなく、そのままの自分を社会に受け入れてもらえなかったり、周囲に差別されたり、親と対立したりということの結末であるのだろう。  もちろん、一概にLGBTであるから不幸だとはいえない。しかし、この偏狭な社会でマイノリティが生きていこうと思えばやはり楽しいことばかりではないようだ。  ぼくたちは少しでもかれらが過ごしやすい社会を作りだしていかなければならない。なぜなら、かれらが暮らしやすい社会とは、ぼくたちにとっても素晴らしい社会であるはずだからだ。  だれもが標準的なだけではない。何かしらの逸脱と歪みを抱えている。だからこそ、たまたま少数派に属することになった人々が生きやすい世界を作っていくことは多数派にとっても意味がある。  「セクシュアルマジョリティ」と「セクシュアルマイノリティ」というくくりを対立項のように捉えるのではなく、「いろいろな人がいる」というあたりまえの事実をあたりまえのものとして受け入れること。  そもそもゲイといい、トランスジェンダーといっても、そのひとのすべてを表しているわけではない。人生においてはそのようなくくりよりも自分が自分であることがすべてに優先するはずだ。  「レズビアンであるか、ゲイであるか、ヘテロセクシュアルであるか」といったことは、自分が自分であるということに比べれば大きな問題ではない。いかなる自分であれ、自由に、好きなように生きていいのだ。  その意味では、LGBTというくくりもやはり暫定的なものではあるのだろう。自分をはっきりと「ゲイ」だとか「レズビアン」だとかいうフレームに押し込めることに違和を感じるひとも少なくないと思われる。  ひとはひとりひとりがスペシャルなのであって、どんな言葉もそのひとを完全に表現し切ることはできない。性的少数派であることに深い苦悩を抱えているひともいるだろう。そんなことで悩むことはばかばかしいと思っているひともいるだろう。だれもがそれぞれ違っている。  その多様な個性がひとつの巨大な虹(レインボー)を形づくるとき、それこそより住みやすい社会が訪れるはず。ぼくたちには果たすべき社会的使命がある。タイトルの一部をホモに変えて遊んだりしている場合じゃないと、ぼくは思う。もっと素晴らしいことを、ぼくたちはできる。
弱いなら弱いままで。
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