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abcdefghijklmnさん のコメント

つまり、
「絶望した!ポジティブシンキングもネガティブシンキングも
できないこの世の中に絶望した」
ってことか。
No.4
148ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 世の中には、何ごとも悲観的に捉えるひとたちがいる。かれらにとって、世界は絶えざる心配事に満たされた場所である。いつも何かが不安で仕方ない。こういうひとはしばしば精神を病む。  一方、何もかも楽観的に受け止めるひとたちもいる。かれらはすべてを良いように考える。将来に何かしら問題があっても深刻には受け取らず、脳天気に生きていく。  さて、あなたはどちらに近いだろうか。ぼくはあきらかに前者なのだが、最近、その生き方を変えたいと思っている。といっても、べつに楽天家に鞍替えしたいと考えているわけではない。ぼくがめざしたいのは、悲観家でも、楽天家でもない第三の生き方だ。  悲観家と楽天家を語る際によく例に出されるのがコップと水の話である。ここに半分だけ水が入ったコップがあるとする。それを見て、ネガティヴシンキングのひとは「もう半分しかない」と考えるのに対して、ポジティヴシンキングのひとは「まだ半分ある」と考えるというのだ。  あわせて何ごとも悲観的に捉えるネガティヴシンキングのひとはウツになりやすいので良くないなどということがまことしやかに語られることも多い。たしかに、この話を見ると、ポジティヴシンキングのほうが良いように思われる。しかし、本当にそうだろうか。  なるほど、ネガティヴシンキングのひとに考え方に問題があることは事実だ。まだ半分水がのこっているにもかかわらず、「もう半分しかない」と考えているようでは、心に大きな負担がかかるだろう。その負担はやがて精神を蝕んでいくに違いない。ネガティヴシンキングでは明るい人生は望めない。  だが、それならばポジティヴシンキングなら良いのかといえば、そんなこともないと思う。ぼくにいわせれば、重要なのは「コップに半分水が入っている」という客観的な事実を過不足なくそのままに受け止められるかどうかということである。  「もう半分しかない」と思えば気分が沈むかもしれない。しかし、「まだ半分ある」と考ればそれはそれでむやみな楽観に落ち込む可能性がある。「まだ半分あるんだから大丈夫」という考え方には、格別の根拠がないのだから。  つまりはある事実を悲観するでも楽観するでもなく、どこまでも客観的に直視する見方、いわばオブジェクティヴ・シンキングが大切だと思うのだ。  もちろん、そう簡単なことではない。ひとの目は皆、何かしら歪んだレンズであり、「客観的な認識」など、儚い幻想に過ぎないのかもしれない。それでも、可能な限りその歪みを認識し、客観に近づけていく努力は意味がある。なぜなら、客観的な現実認識なしではあらゆる戦略は成り立たないからである。  たとえばある部屋に閉じ込められ、目の前にコップ一杯の水があるとする。そのとき、どのようなペースで水を飲んでいけばいいか判断するためには過剰な楽観も悲観も禁物だということは自明だろう。  どうせすぐに助けが来るだろうと楽観して飲んでしまうこともまずいし、そうかといってまったく飲まずに脱水症状を起こしても良くない。必要なのは冷静な認識にもとづく合理的な計算なのだ。あらゆることにこれがいえる。  現実認識なくして目標設定なく、目標設定なくして戦略構築なく、戦略構築なくして目的達成はない。つまりあらゆる行為の基礎となるものは不快な現実の直視である。たとえば、会社再生を試みる社長が、会社の屋台骨が揺らいでいることを認めなかったら話にならない。  笑い話のようだが、そういうことはほんとうにあるのだ。ひとがどれほど不快な現実を認めたがらないものか、そしてその逃避がどれほどの惨事を生むか、太平洋戦争における日本軍を見ればあきらかだろう。  つまり、あらゆる達成の根本にあるものは不快な現実を見つめる勇気である。「見たくない現実をそれでも直視できるか、否か」にすべてがかかっている。悲観的予測に心を預けるにしろ(ネガティヴシンキング)、希望的観測に身を委ねるにしろ(ポジティヴシンキング)、現実を歪めて認識している点では同じなのだ。  しかし、それだと畢竟、精神的にタフな人物が勝利するというあたりまえの話に帰着する。これはおもしろくない。何とか精神的に弱い人間にもうまくやる方法はないものか。そう思うのだが、やはり良い方法は思い浮かばない。  現実をそのままに認識することはときにとても辛いことである。絶望的な事実が見えてくるかもしれないということが怖いから、しばしばぼくたちは現実から逃避して「見なかったこと」にする。だが、それは最もリスクが高いやり方だ。いついかなる場合も「何もしないこと」は最悪なのである。  たとえばダイエットをする際には、自分の太った姿を鏡で見なければならないし、体重計にも乗らなければならない。汚い部屋を整頓しようと思ったらまずはその部屋の汚さと向き合わなければならない。あるいは、成績を向上させようと考えるならまずやるべきは自分がいまどの程度の学力を持っているのか確認することだ。  そう言葉でいうことは簡単だが、いつも決然とそれをできるひとがどれだけいることやら。心弱いぼくたちは「どうせやってもダメだよ」とか「きっと何とかなるさ」とか、楽観と悲観の極を行き来してバランスの良い態度を保てないことが常だろう。  ひとついえることは、結局、最初に現実を見るときがいちばん辛いのだ、ということである。しっかり現実を直視しさえすれば少しは改善できるから、次回以降は多少楽になる。そうすると、高い確率で好循環が起こり、ものごとはうまく回るようになる。  結局、最初の一回が最もハードルが高い。だから問題はその「最初の一回」をどのようにして克服するかという点にある。そのために大切なのは、なるべく早い時点で現実を直視するクセをつけることだろう。  現実逃避は、そのひとの人格の本質などではなく、単なる「心のクセ」であるかもしれない。そうであるならば、そのクセは意識することによって直すことができるかも可能性がある。そこに賭けよう。小さなことからでもオブジェクティヴ・シンキングを試してみるのだ。  しばらく前に完結した漫画『魔法先生ネギま!』に「わずかな勇気が本当の魔法」という言葉が出てくる。これは本当にそうだと思う。人生を変えるために必要なものは、本当にわずかな勇気だけである。  過度に悲観せず、そうかといって楽観しすぎることもなく、どこまでも冷静に、現実的に生きること。それができるならば、あなたの人生はより良い方向に舵を切るだろう。  これは勝利を約束する「成功法則」などではなく、もっとあたりまえの事実である。だれにでも逃げ出したいときはある。しかし、そこで逃げ出さない小さな勇者のみが、与えられた状況を改善し、活路を開いていくものだ。ぼくは心からそう信じているのである。
弱いなら弱いままで。
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