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erurikuさん のコメント

他人に対しても自分に対しても○○系だから~、とかの枠組みを作らないで、
適当にやるのが一番じゃないw
真面目なイメージあったのに、プライベートで遊びに行ったら、夜はキャバクラ誘われたとかさ。
タイプが180度違うなんて社会にでりゃざらにいるでしょw
色んな方と交流広めれば大概がどうでもよくなるし、価値観が受け入れられるけど。

あいつは○○系だよ。 とか思ったったことも言ったこともないからわからないけど、
まあ、気にする方はいるんだろうし、そういう言葉には気をつけたほうがいいのかもね。
No.2
141ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 内田樹『呪いの時代』を読んでいたら、読み飛ばせない箇所が出てきたので、ここに記しておく。第六章「「草食系男子」とは何だったのか」の一節、ゼミの学生たちから聴き取った「草食系男子」の実態の話。  草食系男子の特徴は、とにかく「弱い」ということです。きわだった特徴は「すぐ泣く」。それから物を決めるのが苦手。「どこに行く?」とか「何、食べる?」とか訊いても答えられない。できることなら女の子に全部決めてもらいたがる。身体的には細身。お洒落で、髪の毛の手入れと美肌に関心が高い。かわいいしぐさ(胸の前で両手を組んで、口をとがらすとか)が得意で、外見的には哺乳類の幼生、なかんずく齧歯類に通ずる風貌をしている。家族と仲が良く、とくに母親との関係が親密。などなど。  一応、「彼女たちから聴き取った情報の一部」ということになっている話だが、この後の記述はこの「情報」を前提として進んでいるから、内田もこの話を受けいれて真実だと主張していると考えていいだろう。  「齧歯類に通ずる風貌をしている」ねえ。何の根拠があって言っているのやら。そもそもほんとうにゼミの学生がこのような主張をしたのかどうかわからないが、まあ、内田のゼミに集まる学生たちだからこの程度のことはいうのかも。  「日刊サイゾー」のインタビューのなかで、内田はこう語っている。 内田樹氏(以下、内田) 単独で「呪いの言葉」というと観念的になってしまうので、同じく本書で提示している「祝福の言葉」と対比したほうがわかりやすいと思います。「呪いの言葉」は、人を記号化したり、カテゴライズしたり、一面だけを切り取ってその人の全体を表してしまう言葉です。「反革命」とか「非国民」とか。本来は多様で複雑な人間の存在を、単純化し、記号化してしまう。例えば、ある作家について語るとき、その人の著書も読まずにインタビュー記事の一行だけをつかまえて、全人格を否定するような人がいますね。「あいつは所詮○○だ」と、ひとりの人間を言い切ってしまう。そういう切り方が現代では「スマート」と思われています。でも、それはスマートなのではなく、「呪い」をかけているだけなんです。  「呪い」は強烈な破壊力を持っており、人の生命力を減衰させて、前向きな気持をなくさせます。そういった言葉を発する人は、他者が傷つくさまや評価が下がるのを見ることに快感を覚え、その感覚の虜になってしまいます。けれど、実は他者以上に自分の生命力も傷つけてしまっている。「呪い」は必ず自分にも跳ね返ってくるのです。  「他者への憎悪は身を滅ぼす」内田樹が語る"呪いの時代"を生きる知恵(http://www.cyzo.com/2012/03/post_10056.html)  「反革命」やら「非国民」が「呪いの言葉」なのだとすれば、なぜ「草食系男子」はそうでないというのだろう。どう考えても「草食系男子」も「呪いの言葉」ではないか。  もちろん、「草食系男子」という言葉そのものは本来、必ずしもネガティヴな意味ばかりを持っているわけではないだろう。しかし、それを「人を記号化したり、カテゴライズしたり、一面だけを切り取ってその人の全体を表してしまう」ために用いるのなら、それはやはり「呪い」以外の何ものでもない。内田センセイ、他人に対しては「呪い」は良くないといいながら、自分は平気でひとを「呪って」いるのである。  もちろん、内田のつもりではこれは「呪い」なのではなく、「冷静な評価」であり「客観的事実」なのであろう。しかし、すべての「呪い」は、主観としては冷静で客観的なのだ。冷静で客観的なつもりで自分の偏見を押し付けるからこそ「呪い」なのだということもできる。  もし、内田が自分は他人を批判することは許されるが、他人の批判は「呪い」なのだから受け止める必要はないと考えているのなら、ずいぶん都合のいい話というしかない。  ネットに「呪い」を流すことは良くない、むしろ「祝福」することが大切である、という内田の主張は非の打ち所のない正論である。ぼくもそれは正しいと思う。しかし、口先では「祝福」を称揚しながら、じっさいには自分は「呪い」を撒き散らすということでは、その主張には説得力がない。  内田は出産しない女性を「オニババ」呼ばわりした三砂ちづるの著書にも好意的である。この「オニババ」こそまさに「呪い」以外の何ものでもないとしか思われないのだが、内田のなかではこれは「人を記号化したり、カテゴライズしたり、一面だけを切り取ってその人の全体を表してしまう」言葉ではないらしい。  いったいこのひとの考え方はどうなっているのか、一学者として自分の姿勢をどう考えているのか、訊いてみたいものである。まあ、単純に自立した女とか「弱い」若者が嫌いで、でも自分はひとに何だかんだいわれるのは嫌だから、「呪いの時代」といいだしたんだろう。  さて、ここまで読んで、それではお前が内田を批判する言葉は「呪い」ではないのか、といわれる方もいらっしゃるかもしれない。たしかにそうである。ぼくの言葉もどこかしら「呪い」を孕んではいるだろう。内田にはぼくには窺い知れない深慮があるという可能性は否定できない。  ただ、ぼくは大切なのは自分の言葉の「呪い性」を自覚しておくことだと思う。小野不由美いわく「責難は成事にあらず」。ひとを責めることは何かを成し遂げることではない。しかし、それでもひとを批判し、あるいは糾弾せざるをえないときはある。  そういうときは「自分はいま「呪いの言葉」を使っているのかもしれない。それはとても危険なものなのだ」という自覚を忘れないようにしたいもの。  開き直るためではない。同じことをやるのでも、いま自分が何をしているのかということをしっかりわかった上でやるのと、無自覚でやるのとでは大きな違いがあると思うのだ。これが無自覚だと、自分では合理的に批判しているつもりの罵倒コメントとかになるわけですね。  「呪い」はたしかに恐ろしい。しかし、ひとの心が明るいものだけでできているわけではない以上、言葉が「祝福」だけを伝えるものではない以上、ぼくたちはこれからもそれと付き合って行かなければならない。その上で積極的にひとを「祝福」していければ素晴らしい。  自分の言葉の「呪い性」に自覚をもとう。すべてはそこからしか始まらないはずだ。
弱いなら弱いままで。
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