アルジェリア人質事件に関するBLOGOSの記事は、議論のすり替えしかしていない

今回はしんざきさんのブログ『不倒城』からご寄稿いただきました。

■アルジェリア人質事件に関するBLOGOSの記事は、議論のすり替えしかしていない
こちらの記事を読んだ。

「アルジェリア人質事件 僕は「Aさん」では死にたくない」 2013年1月23日 『BLOGOS』

http://blogos.com/article/54579/

若干厳しい言葉を使うが、この記事は議論のすり替え以外のことを何一つしていない、と私は思う。

まず最初に、

アルジェリア人質事件で犠牲になった方を実名で報道するかが、大きな論争になっている。

故人や遺族の了解なしに実名で報道できるのか、という疑問に、マスコミはきちんと答えてきたのだろうか。

というセンテンスを挙げられていて、ここが首題の一つだと判断して差し支えないだろう。

それに対して、この記事で提示されている回答は、

毎日起きている交通死亡事故の中にも、思わぬ社会の不備が隠されていることがある。遺族への取材が社会を突き動かし、事故対策が進むことは決して少なくない。

その一方で「Aさん」という匿名に社会を動かす力はない。

僕は「個人情報の保護」「匿名報道」という綺麗ごとや事なかれ主義よりも「実名報道」という疼きを伴う地道な作業が社会をつなぐ力を信じたい。

みんなで泣き叫んだり、怒ったり、笑ったりする記憶を共有する社会は「匿名」の中からは生まれてこない。語り、言葉を紡いで、つないでいくという作業から社会に連帯感が生まれてくると信じている。

僕が犠牲者なら事件の背景を徹底的に調べて、何か問題がなかったか報じてほしいと願うだろう。

僕は「実名」で死にたい。それは、僕が社会で生きていく上での誓約でもあり、権利でもある。

といった部分だろうと思う。

ここでは何点かの錯誤が発生している。


・首題で提示されている「個人や遺族の了解」という問題が(恐らく意識的に)無視されている。
・個人情報の保護という問題を、「綺麗ごと」「事なかれ主義」と無根拠にレッテリングしている。
・上記に付随して、個人情報の保護という問題を実名/匿名だけの問題にすり替え、矮小化している。
・「「Aさん」という匿名に社会を動かす力はない」という主張が無根拠。「連帯感」などの曖昧な言葉にすり替えられている。
・最終的に、首題に対する回答として、「僕は「実名」で死にたい。」という、いわば自分の意志しか提示していない。

正当なポジショントークであれば批判する筋合いはないが、ポジショントークにしても聊か出来が悪いのではないかと思う。

前提として、今回の話は「報道によって、遺族のプライバシーが侵害される/されたかどうか」という問題であることを確認しておきたい。(朝日新聞がなにかやらかした、という話も見たが、現時点では自分で確認出来ていないので置いておく)

ざっくりソースを追いかけてみたのだが、

「【アルジェリア人質事件】7人の氏名公表せず 政府と日揮「家族と相談し…」」 2013年01月22日 『MSN産経ニュース』

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130122/crm13012208200005-n1.htm

によると、「(犠牲者の)家族と日揮が相談し、公表を避けてほしいとのことだった」ということなので、遺族が被害者の氏名を「知られたくない情報」と考えたことは恐らく事実なのだろう。遺族にとって、被害者の実名がプライバシーの対象になるのか、法律的にどうなのか、という話は、毎度「知る権利」との利益衡量で判断されることなのでここでは触れない。裁判があるならそこで明らかになるだろう。

つまり、ここで優先的に考えなくてはいけないのは、まさに引用の記事でも触れている、「遺族の意志や了解が存在しない状態をどう評価するのか」ということになる。

それに対して、引用の記事は殆ど言及していない。「遺族の意志が存在しなくても報道しちゃっていいじゃん」ということなら、それはそれで十分議論の対象になると思うのだが、そもそもそこに踏み込んでいないのである。

幾つか具体的に挙げてみたい。全体的に、曖昧な言葉が多く論として評価し辛いのだが、

僕は「個人情報の保護」「匿名報道」という綺麗ごとや事なかれ主義よりも「実名報道」という疼きを伴う地道な作業が社会をつなぐ力を信じたい。

みんなで泣き叫んだり、怒ったり、笑ったりする記憶を共有する社会は「匿名」の中からは生まれてこない。語り、言葉を紡いで、つないでいくという作業から社会に連帯感が生まれてくると信じている。

まず、個人情報保護や匿名報道という言葉を「綺麗ごと」「事なかれ主義」と断じていること自体、人格権に関する意識の軽さを感じられて若干どうかと思うのだが。

「みんなで泣き叫んだり、怒ったり、笑ったり」という紋切型の感情表現議論もさることながら、そもそも問題なのは「実名か匿名か」ということではなく、「実名を端緒にして遺族の情報が特定され、それによって遺族のプライバシーが侵害され、遺族が不利益を被ること」だというのに、それ以上「社会をつない」でどうしろというのか。アレか、遺族に対する嫌がらせ電話も立派に社会をつなぐという行為の一環だ、とかそういうことか。

筆者の意図に歩み寄って、「社会の連帯感の維持には実名報道が必要」という一般論を考えたとしても、やはりその根拠は不明なままだ。例えば、何らかの事故や事件の被害者が実名で報道された時、その報道は一体どのようにして「社会の連帯感」を育てるのだろうか?事件の被害者が鈴木さんか佐藤さんか、ということが一体どのように連帯感に寄与するのか。

また、この場合、泣き叫ぶ主格は遺族であって「みんな」ではないと思うのだが、無理やり当事者の枠を広げることによって、プライバシーの濃度を薄めようとする意図でもあるのだろうか。

ここで提示されているのは、「社会全体の利益」という概念でラッピングしようとして失敗している、マスメディアの都合でしかない。

毎日起きている交通死亡事故の中にも、思わぬ社会の不備が隠されていることがある。遺族への取材が社会を突き動かし、事故対策が進むことは決して少なくない。

その一方で「Aさん」という匿名に社会を動かす力はない。

根拠不明。例えば、ぱっと思いついただけの例で恐縮だが、いつぞやにあった東芝クレーマー事件*1においては、表に出てきた個人の名前は「Akky」という匿名のみだったが、良い悪いは別にして、企業の顧客対応を大幅に変革した一つの原動力となった。

*1:「東芝クレーマー事件」 『Wikipedia』
http://ja.wikipedia.org/wiki/東芝クレーマー事件

また、仮に大きな事故があったとして、「被害者の実名が公表されなかった為に、反省やその後の事故対策がなされなかった」というケースがあるなら提示して欲しい。「匿名に社会を動かす力はない」と断ずるならそういった論拠が必要だろう。別に反例一つでケチをつける気はないが、反例は出てくるが実例が出てこない、というのでは話にならない。

僕が犠牲者なら事件の背景を徹底的に調べて、何か問題がなかったか報じてほしいと願うだろう。

僕は「実名」で死にたい。それは、僕が社会で生きていく上での誓約でもあり、権利でもある。

個人の意志は個人の意志として尊重するべきだが、この筆者はおそらくアルジェリアで発生した事件の被害者ではない(もし被害者だとしたら全力で謝罪させて頂く)。そして、優先されるべきなのは事件の当事者、少なくともより当事者に近い立場にある人である。

一言で言うと、「筆者がどういう意志を持っているか、というのはこの議論と全く関係ない」

何度か書いているが、私は、ポジショントークが悪いことだとは全く思わない。むしろ、まっとうなポジショントークが出来る人というのは、自分の立場をわきまえて、それに資する動きが出来る人、ということで、信頼するべき人だと考えている。

だが、行われたポジショントークが筋悪であった場合、それはそれで批判するべきことだと思う。筋悪なポジショントークは、我田引水と呼ばれる対象にしかならない。それは、話者にとってもそのポジション自体にとっても不幸なことだ。そう思ってこの記事を書いた。

今日思ったことはそれくらい。

●追記:参照URL
「叔父を誇りに思います」 2013年1月22日 『モトシロブログ』
http://livemedia.jp/?p=1256

朝日新聞に実名を公表されてしまった、という親族の方のブログ。

執筆: この記事はしんざきさんのブログ『不倒城』からご寄稿いただきました。

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