欧米に合わせ「9月入学」の方が良いという議論は昔からあった。「9月入学」が多い欧米の国々に留学する学生にとって日本の「4月入学」は都合が悪い。グローバリズムの時代にそぐわないという議論である。その是非はいろいろあろうが、その話がなぜ今出てきたかというところで、私は「ショック・ドクトリン」を思い出す。
「ショック・ドクトリン」とは、新自由主義経済の教祖ミルトン・フリードマンの「真の改革は危機によってのみ可能となる」という主張を指す。カナダ人のジャーナリスト、ナオミ・クラインが名付けた。日本語訳は「惨事便乗型資本主義政策」という。
フリードマンは2005年にハリケーン・カトリーナが米国のニューオーリンズを襲った時、「ウォール・ストリート・ジャーナル」紙に「ハリケーンはニューオーリンズのほとんどの学校を破壊した。これは悲劇だが、教育システムを改良するには絶好の機会である」と書いた。
ナオミ・クラインによれば、新自由主義の信奉者たちはフリードマンの主張通り、常に危機に便乗して、つまり国民が恐怖に震える時を見計らって、市場原理主義を広めてきたという。
新自由主義経済政策が世界で初めて採用されたのはチリのピノチェト政権の時だが、この時は前の社会主義政権を米国のCIAと組んだ軍部のクーデターで倒し、国内が混乱している時だった。
その後もフリードマンの教え通り、民主化闘争のポーランド、ソ連崩壊後のロシア、さらにはアフガン・イラク戦争に便乗して新自由主義は広められてきた。新型コロナウイルスのパンデミックは紛れもない「惨事」である。これに便乗してこれまでやれなかったことをやろうと安倍政権が考えるのは不思議でない。それが急に浮上した「9月入学」ではないか。
そもそも事の起こりは、休校を強いられ、いつから授業が始まるのか分からない生徒に、再開の時期を早く決めてほしいと思う気持ちがある。しかし感染の程度はそれぞれの地域に違いがあり、その違いを考慮すれば、早く再開できるところと出来ないところがある。
再開できるところから再開を認めてしまうと、学生の学力に不公平が生じるから、全国一斉に再開する方が望ましく、一方で秋には終息するだろうということで、今年4月に入学しながら休校を強いられてきた生徒の入学を9月にずらすというものだと思う。
しかし、この秋に新型コロナウイルスは終息するだろうと言うが、「秋には第2波が訪れる」という専門家の見方もある。一律の再開にこだわって終息の時期を探れば、学校の再開はなかなか決められなくなるのが現状だ。
そしてより重要なのは、専門家会議のメンバーで東北大学大学院教授の押谷仁氏が「新型インフルエンザでは、子供が感染源になるため学校閉鎖の必要があった。しかし今回の新型コロナウイルスでは子供の感染が少なく、学校閉鎖が感染防止に有用であるとは考えにくい」と論文に書いていることだ。
にもかかわらず安倍総理は唐突に全国一律の一斉休校を発令し、学校と家族と生徒をパニックに陥れた。そして一斉休校の説明として、集団生活を送る子供が感染すれば、子供は発症しなくとも高齢者にうつす恐れがあると言われたが、それを専門家会議のメンバーは否定しているのである。
それならなぜ休校を続けているのか。安倍総理が発令してしまったため、誰もそれが間違いだと言えないからだ。そして検査を徹底的に行わなかったことがルート不明の感染者数を増大させ、学校再開のタイミングを見つけられなくした。
検査を徹底的に行わなかった理由が「東京五輪」の開催に安倍総理がこだわったためなのは明白である。所詮は政治の誤りなのだ。それを直視せずに一律の再開にこだわるから、一気に「9月入学」といういわば「惨事便乗」の話が出てきた。
「一律」とか「公平」という言葉が強調されると私には昔の日本が甦る。昔は子供に優劣をつけてはならないと、運動会の徒競走で1着、2着をつけず、ゴール前にみんなが並んで同時にゴールすることがあった。
会社でも「護送船団方式」と言って成績の悪い企業を脱落させないよう、みんなで一塊になれと行政指導された。しかしそれでは世界に追いつけないという話になり、「公平」より「競争」が重視されるようになった。
私は、休校が勉強しなくとも良いという意味ではないと思う。学生は独自に勉強しているはずだ。集団になるなというのなら学校が工夫して抜け道を考え出せば良い。オンライン授業が一番だろうが、その設備がなければないなりの工夫をする。それを自治体が援助する。それが休校だと思う。
人間しか資源のない日本で、新型コロナウイルスが怖いからと、何もしないで視聴率至上主義のバカテレビを眺めていれば、大宅壮一ではないが「一億総白痴化」することは間違いない。
勿論、それぞれの学生に学力の差が生じることはあるだろう。しかしウイルスとの戦いはそこにある。恐れて家に閉じこもっただけの人間と、工夫しながら通常に近い生活を続けた人間とでは、終息後のスタートラインが違う。
国家で言えば、経済のスタートラインが違ってくる。先行きが見えない日本と違い、世界各国はロックダウンを解除して経済活動再開の方向に舵を切った。海外メディアが評価する国は、台湾、韓国、ニュージーランド、ドイツなど徹底的に検査を行い、感染者を減らした国である。
またスウェーデンは国民が自分の責任で通常通りの生活を維持した。休業もせず休校もせず、死者数は2千人を上回ったが他国からの批判を無視して自己流を貫いた。日本はそれらの国々と異なり、検査をしない政策を採用し、そして安倍総理が全国一律の一斉休校を発令したのである。
コロナ禍以前の安倍総理は政権最大の危機に陥ってボロボロだった。消費増税によって景気は落ち込みアベノミクスは風前の灯、そしてスキャンダルのてんこ盛りである。「桜を見る会」、河井夫妻の公職選挙法違反事件、秋元司議員のカジノ汚職事件、「森友問題」も自殺者の妻の反撃が始まり、さらに検事総長の人事に手を入れ猛反発を受けていた。
コロナ禍はそうした状況を一時的には忘れさせる効果を生んだ。一方で安倍総理のコロナ禍への対応は、国民の目に無能さを印象づけた。各国の政治リーダーと同じ問題で比較したことや、アベノマスクや動画でのお気楽さが分かったからである。
危機が起こればリーダーの支持率は上がる。しかし米国のトランプ大統領と安倍総理だけは上がらない。上がらないどころか下がっている。それでもトランプ大統領は経済の回復に向け必死な様子が分かる。安倍総理は「第三次世界大戦」と言う割には必死さが見えない。
安倍総理は退陣後の「レガシー」として「アベノミクス」と「東京五輪」を考えていたと思う。しかし「アベノミクス」は消費増税で息を引き取り、残るは「東京五輪」を自らの手で開催し、景気をV字回復することだった。
「東京五輪」開催に固執するあまり安倍総理はコロナ禍への対応を誤り、「東京五輪」開催も今や風前の灯火である。特効薬の誕生を神に祈る毎日だと思うが、特効薬が出来てもそれが世界中に行き渡り、「完全な形」での五輪開催は相当に厳しいと思う。
安倍総理のレガシーはすべて喪われつつあった。そこで「惨事」に便乗し教育制度に手を入れる「9月入学」を考えたのではないか。そもそも日本の学校は大正時代までは欧米と同じ「9月入学」だった。それが「4月入学」に変わったのは会計年度と関係する。
日本政府が明治17年に会計年度を4月から3月までとしたため、師範学校から始まりやがて「4月入学」が一般化した。それ以来、企業も一般社会も3月を年度末、4月を年度初めとして日本社会は動いてきた。
学校だけを「9月入学」にすると色々不都合なことが起こる可能性がある。従ってこの課題を追及していくと会計年度を変更する話になる。だから「9月入学」は教育現場だけの話ではない。明治から続く日本社会の大改革と言うべきテーマだ。
レガシーを喪いつつある安倍総理はだから誰かを通じて自治体の首長にそれを言わせたのではないか。しかし菅官房長官や森山国対委員長は慎重な反応を示した。安倍総理がやるべきは「惨事」にまともに向き合うことで、それに便乗した改革案をレガシーにしようとすればそれも評価を下げる一因になる。私にはそうとしか思えない。
<田中良紹(たなか・よしつぐ)プロフィール>
1945 年宮城県仙台市生まれ。1969年慶應義塾大学経済学部卒業。同 年(株)東京放送(TBS)入社。ドキュメンタリー・デイレクターとして「テレビ・ルポルタージュ」や「報道特集」を制作。また放送記者として裁判所、 警察庁、警視庁、労働省、官邸、自民党、外務省、郵政省などを担当。ロッキード事件、各種公安事件、さらに田中角栄元総理の密着取材などを行う。1990 年にアメリカの議会チャンネルC-SPANの配給権を取得して(株)シー・ネットを設立。
TBSを退社後、1998年からCS放送で国会審議を中継する「国会TV」を開局するが、2001年に電波を止められ、ブロードバンドでの放送を開始する。2007年7月、ブログを「国会探検」と改名し再スタート。主な著書に「メディア裏支配─語られざる巨大メディアの暗闘史」(2005/講談社)「裏支配─いま明かされる田中角栄の真実」(2005/講談社)など。