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大阪都構想を巡って争われた堺市長選挙で都構想に反対する現職市長が当選した。既成政党を批判し無党派層を取り込む戦術で伸びてきた大阪維新の会にとって、無党派の多くが現職市長を当選させた事は大きな打撃である。これで橋下徹大阪市長の求心力低下が鮮明になった。
橋下市長が政治家として注目されたのはこの国の統治構造を変えようとしたところにある。この国の統治構造は国と都道府県と市町村の三層になっており、それらの行政事務が重複する事がある。中でも問題なのは国の出先機関が地方に存在する事で、地方にやらせてもできる仕事を国が直轄してやる体制が作られている。その出先機関に国家公務員の三分の二にあたる官僚が出向している。税金の無駄だと昔から指摘されてきた。
その無駄を訴えたのが橋下徹氏である。それが現状打破を訴える改革者のイメージを作り出した。統治構造の変革として橋下氏は道州制を実現するようなことを言っていたが、そのうちかつて東京府と東京市が一つになって東京都が作られたように、大阪府と大阪市を一つにする大阪都構想を打ち出した。
それを聞いて私は大阪人のコンプレックスをくすぐる手法だなと思った。かつて商業の中心地として栄えた大阪には銀行や証券会社の本店が軒を連ねていたが、1980年代には大蔵省のおひざ元である東京に本店機能を移すようになる。新聞やテレビなどのメディア界も大阪はローカル扱いで、大阪のお笑い芸人はテレビで売れるようになると住まいを東京に移す。大阪に住まない。大阪はどうしても東京に勝てないのである。
そこから大阪人の反権力意識が出てくる。かつて自民党単独政権時代の大阪は自民党が最も気を遣わなければならない選挙区だった。反「お上」の気風が自民党に厳しく共産党や公明党にそれなりの支持を与えた。しかし大阪人には東京に対する憧れもある。大阪都構想にはそうした大阪人の反発と憧れをくすぐる作用があると思った。
大阪都構想がこの国の統治構造を変革する事につながるかと問われればそれは疑問である。霞ヶ関を敵に回してでも本気で変えようとすれば非力な橋下氏などあっという間に潰される。だから霞ヶ関を敵に回さず大阪人の心をつなぎとめる方法として考えられたのが大阪都構想だと私は見ていた。統治構造の変革はそれほど容易なことではない。
1985年に日本は世界一の債権国となりアメリカが世界一の債務国に転落した。それによって日本は明治以来の悲願である「欧米に追い付き追い越せ」を達成したと言われ、目指してきた「坂の上の雲」にたどり着いたと思い込んだ。ところがその瞬間から日本は「坂の上の雲」の先に何を目標にするかが見えなくなった。世界最強の軍事力と経済力を持つアメリカは貿易赤字と財政赤字に苦しんでいてとても目標にすべき相手ではない。
そこで出てきたのが占領期にアメリカの手で作られた諸制度の改革である。直接税中心のシャウプ税制を変え、ヨーロッパのように間接税を導入する「税制改革」が日本政治の課題となった。それを竹下登氏が内閣の命運をかけてやり遂げ、次の総理に予定されていた安倍晋太郎氏が「政治改革」を政権の課題とする。そして竹下氏が安倍氏の後に考えていた藤波孝生氏は「統治構造の改革」を課題とすることが予定されていた。
藤波政権を作るために竹下派から羽田孜氏、安倍派から森嘉朗氏、宮沢派からは加藤紘一氏が参加し、大蔵省、外務省、通産省の幹部官僚と、学者やメディア界の人間が集まって藤波政権の政策課題を考える会が出来た。箱根の宿で合宿し、日本の中央集権体制の基礎となる明治政府の「廃藩置県」について私がレポートした。しかし翌日、藤波孝生氏はリクルート事件が自身に及ぶことを知って帰京し、その会も有名無実のものとなった。
当時の私は関西に本拠がある「日本道州制研究会」と連携して道州制の実現を考えていた。しかしその後考えを変えて「廃県置藩」を唱えるようになった。一つには道州制が必ずしも中央集権体制を変えるものではないと考えるようになったからである。本来の道州制は中央政府が外交、防衛、マクロ経済などを担当し、国交省、農水省、厚労省などの業務はすべて道州に移管させる仕組みだが、官庁の出先機関が道州に入り込んで中央の権限を失わせない形を取る可能性もあるのである。
しかも道州という広域の政治単位を日本は歴史上経験した事がない。むしろ江戸時代の徳川家と各藩の関係は現在のアメリカ合衆国の連邦政府と各州との関係と同じで、各藩には完全な自治権が与えられていた。その江戸時代の藩の意識は現在でも日本の各地に残っている。それを基礎自治体とし、そこに大幅に権限を委譲し、官庁の地方出先機関を廃止した方が世界の連邦国家に似た統治構造を作ることが出来ると考えたのである。
民主党が政権交代を成し遂げた時、何よりも統治構造の改革を私は期待したが、あっという間に霞ヶ関の軍門に下ってしまった。その後、国民の注目を集めた橋下氏も私の中では「統治構造を変革する政治家」から「大阪人をくすぐるだけの政治家」となり、やがて国政に進出すると「愛国ごっこ」の好きな石原慎太郎氏と共にイデオロギー遊びにうつつを抜かすようになった。その挙句に国際社会には通用しないローカル政治家である事を露呈した。堺市長選はそうした事への回答である。それにしても藤波政権の課題となるはずだった「統治構造の改革」はいまだ手つかずのままである。
【関連記事】
■田中良紹『国会探検』 過去記事一覧
http://ch.nicovideo.jp/search/国会探検?type=article
<田中良紹(たなか・よしつぐ)プロフィール>
1945年宮城県仙台市生まれ。1969年慶應義塾大学経済学部卒業。同 年(株)東京放送(TBS)入社。ドキュメンタリー・デイレクターとして「テレビ・ルポルタージュ」や「報道特集」を制作。また放送記者として裁判所、 警察庁、警視庁、労働省、官邸、自民党、外務省、郵政省などを担当。ロッキード事件、各種公安事件、さらに田中角栄元総理の密着取材などを行う。1990 年にアメリカの議会チャンネルC-SPANの配給権を取得して(株)シー・ネットを設立。
TBSを退社後、1998年からCS放送で国会審議を中継する「国会TV」を開局するが、2001年に電波を止められ、ブロードバンドでの放送を開始する。2007年7月、ブログを「国会探検」と改名し再スタート。主な著書に「メディア裏支配─語られざる巨大メディアの暗闘史」(2005/講談社)「裏支配─いま明かされる田中角栄の真実」(2005/講談社)など。
橋下市長が政治家として注目されたのはこの国の統治構造を変えようとしたところにある。この国の統治構造は国と都道府県と市町村の三層になっており、それらの行政事務が重複する事がある。中でも問題なのは国の出先機関が地方に存在する事で、地方にやらせてもできる仕事を国が直轄してやる体制が作られている。その出先機関に国家公務員の三分の二にあたる官僚が出向している。税金の無駄だと昔から指摘されてきた。
その無駄を訴えたのが橋下徹氏である。それが現状打破を訴える改革者のイメージを作り出した。統治構造の変革として橋下氏は道州制を実現するようなことを言っていたが、そのうちかつて東京府と東京市が一つになって東京都が作られたように、大阪府と大阪市を一つにする大阪都構想を打ち出した。
それを聞いて私は大阪人のコンプレックスをくすぐる手法だなと思った。かつて商業の中心地として栄えた大阪には銀行や証券会社の本店が軒を連ねていたが、1980年代には大蔵省のおひざ元である東京に本店機能を移すようになる。新聞やテレビなどのメディア界も大阪はローカル扱いで、大阪のお笑い芸人はテレビで売れるようになると住まいを東京に移す。大阪に住まない。大阪はどうしても東京に勝てないのである。
そこから大阪人の反権力意識が出てくる。かつて自民党単独政権時代の大阪は自民党が最も気を遣わなければならない選挙区だった。反「お上」の気風が自民党に厳しく共産党や公明党にそれなりの支持を与えた。しかし大阪人には東京に対する憧れもある。大阪都構想にはそうした大阪人の反発と憧れをくすぐる作用があると思った。
大阪都構想がこの国の統治構造を変革する事につながるかと問われればそれは疑問である。霞ヶ関を敵に回してでも本気で変えようとすれば非力な橋下氏などあっという間に潰される。だから霞ヶ関を敵に回さず大阪人の心をつなぎとめる方法として考えられたのが大阪都構想だと私は見ていた。統治構造の変革はそれほど容易なことではない。
1985年に日本は世界一の債権国となりアメリカが世界一の債務国に転落した。それによって日本は明治以来の悲願である「欧米に追い付き追い越せ」を達成したと言われ、目指してきた「坂の上の雲」にたどり着いたと思い込んだ。ところがその瞬間から日本は「坂の上の雲」の先に何を目標にするかが見えなくなった。世界最強の軍事力と経済力を持つアメリカは貿易赤字と財政赤字に苦しんでいてとても目標にすべき相手ではない。
そこで出てきたのが占領期にアメリカの手で作られた諸制度の改革である。直接税中心のシャウプ税制を変え、ヨーロッパのように間接税を導入する「税制改革」が日本政治の課題となった。それを竹下登氏が内閣の命運をかけてやり遂げ、次の総理に予定されていた安倍晋太郎氏が「政治改革」を政権の課題とする。そして竹下氏が安倍氏の後に考えていた藤波孝生氏は「統治構造の改革」を課題とすることが予定されていた。
藤波政権を作るために竹下派から羽田孜氏、安倍派から森嘉朗氏、宮沢派からは加藤紘一氏が参加し、大蔵省、外務省、通産省の幹部官僚と、学者やメディア界の人間が集まって藤波政権の政策課題を考える会が出来た。箱根の宿で合宿し、日本の中央集権体制の基礎となる明治政府の「廃藩置県」について私がレポートした。しかし翌日、藤波孝生氏はリクルート事件が自身に及ぶことを知って帰京し、その会も有名無実のものとなった。
当時の私は関西に本拠がある「日本道州制研究会」と連携して道州制の実現を考えていた。しかしその後考えを変えて「廃県置藩」を唱えるようになった。一つには道州制が必ずしも中央集権体制を変えるものではないと考えるようになったからである。本来の道州制は中央政府が外交、防衛、マクロ経済などを担当し、国交省、農水省、厚労省などの業務はすべて道州に移管させる仕組みだが、官庁の出先機関が道州に入り込んで中央の権限を失わせない形を取る可能性もあるのである。
しかも道州という広域の政治単位を日本は歴史上経験した事がない。むしろ江戸時代の徳川家と各藩の関係は現在のアメリカ合衆国の連邦政府と各州との関係と同じで、各藩には完全な自治権が与えられていた。その江戸時代の藩の意識は現在でも日本の各地に残っている。それを基礎自治体とし、そこに大幅に権限を委譲し、官庁の地方出先機関を廃止した方が世界の連邦国家に似た統治構造を作ることが出来ると考えたのである。
民主党が政権交代を成し遂げた時、何よりも統治構造の改革を私は期待したが、あっという間に霞ヶ関の軍門に下ってしまった。その後、国民の注目を集めた橋下氏も私の中では「統治構造を変革する政治家」から「大阪人をくすぐるだけの政治家」となり、やがて国政に進出すると「愛国ごっこ」の好きな石原慎太郎氏と共にイデオロギー遊びにうつつを抜かすようになった。その挙句に国際社会には通用しないローカル政治家である事を露呈した。堺市長選はそうした事への回答である。それにしても藤波政権の課題となるはずだった「統治構造の改革」はいまだ手つかずのままである。
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<田中良紹(たなか・よしつぐ)プロフィール>
1945年宮城県仙台市生まれ。1969年慶應義塾大学経済学部卒業。同 年(株)東京放送(TBS)入社。ドキュメンタリー・デイレクターとして「テレビ・ルポルタージュ」や「報道特集」を制作。また放送記者として裁判所、 警察庁、警視庁、労働省、官邸、自民党、外務省、郵政省などを担当。ロッキード事件、各種公安事件、さらに田中角栄元総理の密着取材などを行う。1990 年にアメリカの議会チャンネルC-SPANの配給権を取得して(株)シー・ネットを設立。
TBSを退社後、1998年からCS放送で国会審議を中継する「国会TV」を開局するが、2001年に電波を止められ、ブロードバンドでの放送を開始する。2007年7月、ブログを「国会探検」と改名し再スタート。主な著書に「メディア裏支配─語られざる巨大メディアの暗闘史」(2005/講談社)「裏支配─いま明かされる田中角栄の真実」(2005/講談社)など。
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橋下大阪市長は、言語明快、話は極めて分かりやすい。移り気なのか、支持の多い少ないを気にしすぎるのか分からないが、お話のように、主張することがころころ変わってしまった。本当に遣りたいことは、地方分権、公務員改革など官僚制度の改革であったことは、読み取ることが出来ます。いかんせん、長年に亘って培われ、退職後の天下り先が明確にマップ化されており、官僚の生活が一体化されていては、簡単に言葉で動くような組織ではなく、多くの理解者を得て、官僚が自ら動く、動ける改革から進めなければ、根本的な改革は不可能に近く、断念せざるを得なくなったのでしょう。向こう見ずな若者が元気よく、次から次へと構想を打ち出しているが、ともに行動できる同士が少なくては、既存の体制を根本的に変革することが不可能なことを、実践したよく言えばパイオニアとも言えます。政治の世界が分からなくなり、都構想に必ずしも賛成していない石原氏と野合して、ご自身も何を遣っているか、わからなくなったのではないか。御自身が混乱しては、有権者を説得することなど出来なかったといえます。