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三十六式さん のコメント

懐かしす
No.9
139ヶ月前
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序 1  桜の花びらが、舞いおりてくる。  満開の桜であった。  その満開の桜が、朝の光の中で散ってゆくのである。  風はない。  風もないのに、桜の花びらが、自らの重さに耐えかねたように枝からはなれ、光の中を散ってゆくのである。  その桜の下に、ひとりの少年が立っている。  いや、見た眼は少年なのだが、その面立ちの中には、もはや少年とは言えぬような大人びたものが漂っている。  肌の色が白い。  その薄い皮膚のすぐ内側の血の色が、透けて見えそうな肌の白さだった。  濃紺の細いズボンの上に、麻の白いシャツを着ている。  髪はゆるくウェーブしていて、眉が細い。  眸(ひとみ)は黒だが、やや灰色がかっている。その灰色の中に、わずかに碧い色が溶けているようでもあった。  それは、碧というよりは、その少年の内部にある哀しみの色が、そうやって見えてきてしまっているのかもしれない。  西城学園へ向かって登ってゆく、古い石段の上――そこに、この桜の古木が生えているのである。  小田原城が見え、その向こうに小田原の街が見えている。  もう少し向こうには、相模湾が陽光に光っている。  街は、まだ動き出したばかりだ。  四月――  ちょうど、この日から新学期が始まることになっている。  しかし、まだ朝が早いため、誰も登校してきてはいない。  その朝の光の中で、少年は桜の樹の下に立っているのである。  久鬼麗一(くき れいいち)であった。  学園は、すでに卒業式を終えている。  しかし、久鬼は、三月に行なわれたその卒業式に出ていない。  不思議なことがあった。  桜の枝からはなれた花びらが、しきりと久鬼の上に注いでいるというのに、その花びらが、一枚も久鬼の上に積もっていないのだ。その黒い髪の上にも、白いシャツの上にも、花びらが一枚もない。  よく見ていると、久鬼の上に落ちてきた花びらは、まるで、眼に見えない透明な力が久鬼を包んでいるかのように、触れそうになると、その身体を避けて舞い落ちてゆくのである。  久鬼の、その紅い唇が、かすかに微笑している。  ほんとうに笑っているのかどうか。  何かをなつかしむような、愛しむような、そんな微笑だ。  もう、帰れない。もう、もどれない。それがわかっている。  帰れない、もどれない、それがわかっているからこそ、黙って、だから、なつかしむようにそれを眺めている。  電車が動く。  クラクションが鳴る。  街のざわめき。  どこからか届いてくる人の声……  もう、そこへ、もどれない。  わずか三年だ。  わずか三年、久鬼はここにいた。  あの大鳳吼(おおとり こう)が入学してきてからは、やっと一年が過ぎたばかりだ。  しかし、そのわずかな時間のあいだに、なんと多くのものが詰めこまれていることか。  九十九三蔵(つくも さんぞう)――  真壁雲斎(まかべ うんさい)――  阿久津(あくつ)――  灰島(はいじま)――  そして、菊地良二(きくち りょうじ)。  そこへ、もう、帰ることはできない。  もう、十年、二十年の歳月が、過ぎ去ってしまったような気がする。  昨年の秋、自分は獣と化し、山の中を彷徨した。  それも、本当に昨年のことであったのだろうか。  石段の下方から、人が登ってくるのが見えた。  学生服を着ていた。  今年の、新入生が、独りだけ、早めに登校してきたらしい。  その時、背後に人の気配があった。  久鬼は、後ろを振り返った。  そこに、亜室由魅(あむろ ゆみ)が立っていた。 「行きましょう」  亜室由魅が言った。  久鬼は無言でうなずき、もう一度だけ、振り返って街を眺めた。 「行きましょう」  そう言った久鬼の唇からは、もう、あの笑みは消えていた。 2  その少年は、ゆっくりと石段を登ってきた。  一番上にたどりつき、ようやく、そこに生えている桜の樹の下に立った。  十六歳――  その顔には、まだおさなささえ残っている。  あれ?  と、思った。  さっき、下から見あげた時、誰かがこの桜の下に立っているのが見えたような気がしたのだが。  桜の下には、誰もいなかった。  そこには、透明な虚空(こくう)が張りつめているばかりであり、そこに舞い落ちてくる花びらが、光の中できらきらと光っているのみであった。  その虚空の中に、さっきまで立っていた人間のぬくもりのようなものが、何かの残り香のように、わずかにそこに漂っていた。 初出 「一冊の本 2013年6月号」朝日新聞出版発行 ■電子書籍を配信中 ・ ニコニコ静画(書籍)/「キマイラ」 ・ Amazon ・ Kobo ・ iTunes Store ■キマイラ1~9巻(ソノラマノベルス版)も好評発売中   http://www.amazon.co.jp/dp/4022738308/
キマイラ鬼骨変
待望の新章「鬼骨変」がニコニコで連載開始!



⼰の内に「獣」を秘めた⼆⼈の⻘年を描いた、作家・夢枕獏の“⽣涯⼩説”。

1982 年に朝日ソノラマから第1巻「幻獣少年キマイラ」が刊⾏されてから 31 年、これまでに別巻を含めて 18 巻(ソノラマノベルス版〈朝日新聞出版刊〉は本編 9 巻、別巻1 巻)が発売されている。