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タツクさん のコメント

鹿がんばれ
No.3
135ヶ月前
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「おれを、救う?」  久鬼が、つぶやく。  久鬼の眸に、さらに光が点る。 「ああ……」  久鬼は、溜め息のような呼気を吐いた。  一度、二度、眸を閉じたり開いたりした。 「夢を、見ていたようだ……」  視線を、周囲にめぐらせた。 「長い、夢だ……」  腕を持ちあげる。  その腕を眺める。  左右の手を。  そして、指を。  指先を。  その眸が、自分の身体に移ってゆく。 「夢じゃ、なかったのか……」  溜め息とともにつぶやく。 「それとも、まだ、夢を見ているのか……」  月光の中に、久鬼は、白い腕を差し伸ばし、そして、 「ずいぶん、楽しい夢だったような気がする……」  謡 ( うた)うように言った。 「悪夢であったような気もするが、それはそれで、悦びに満ちたようなものであったような気もするのですよ、九十九……」  久鬼の視線が、九十九にもどった。 「何故、救うのです?」  久鬼が言った。 「何故、このぼくを、救わねばならないのです……」  ゆっくりと、久鬼の口調が、かつての久鬼のそれにもどってゆく。  大量の、どろどろの肉塊と毒素を吐き出して、すでに、獣の身体は、当初の半分くらいにもどっている。  久鬼の眸の中に、光の量が増えてゆく。 「こんなに楽で、こんなに楽しいのに……」  久鬼は言った。  ぶるり、  と、久鬼が、獣が、その身を震わせた。  血肉の飛沫 ( しぶき)が、周囲の月光の中へ散った。  ゆるり、  ゆるり、  と、獣が、久鬼の上体を生やしたまま、自らが作った肉 泥 ( にく でい)の中から歩み出てきた。  それは、牛に似ていた。  大きさも、その姿も。  しかし、むろん、それは牛ではない。  濃い獣毛が生えていた。  まともに地についている脚は、六本あった。  幾つもの腕や、頭部が生えているのは同じであったが、今、その主体は、その中心に生えている久鬼にあるのは、明白であった。  そして、月光の中に広げられた、巨大な蝙 蝠 ( こう もり)の翼。  生物としての、肉体のバランスが、それなりにとれてきつつあるようであった。  それでも、まだ、凶 々 ( まが まが)しい歪 ( いび)つな感があるのは否めないが、それは、美しかった。  月光の中で、久鬼は、両手の指を髪の中に差し込んで、それを掻きあげた。  ざわっ、  と、その髪の毛が、立ちあがる。  久鬼の赤い唇に、笑みが点る。  しかし、その眸には、たまらなく哀切な光が宿っていた。 「さっき、ぼくを、救いたいと言いましたか、九十九――」  久鬼は、つぶやいた。 「どうやって、救うのです。檻に閉じ込めて、見せ物にしますか。どこかの施設に幽閉して、実験材料にしますか……」  また、一歩、獣の脚が、近づく。 「おもしろいですね。さあ、救ってもらいましょうか……」  言ったあと、久鬼の唇が、また微笑した。 「でも、その前に、答えてもらいましょうか。そこに、あなた以外の、もうひとりの人間のいるわけを……」  久鬼の視線が動いたのは、吐 月 ( と げつ)が身を隠している木立の方角であった。  ゆっくりと、吐月が、木立の中から姿を現わした。  九十九の横に並んで立ち、 「吐月という者だ……」  そう言った。 「吐月?」 「君も知っているだろう、真壁雲斎の友人だよ」  吐月は言った。 「ああ……」  久鬼は囁くように言った。 「なんとなつかしい名前を耳にするんでしょう。真壁雲斎……夢のようです……」  久鬼にとって、それは、遥か昔の神話上の名として響いたようであった。  雲斎――  円空山――  円空拳――  久鬼が、その顔を、月へ向けた。  その時――  不幸であったのは、そこへ、一頭の鹿が出現したことであった。  雌の鹿だ。  野生の動物としては、考えられぬほど無防備に、横手の木立の間から、その鹿は姿を現わしたのであった。  人への警戒心が薄れていたのか、もともと警戒心のない個体であったのか。  風上からやってきたことを考えに入れても、その鹿は、無防備であった。  現われて、そして、数歩動いてから、その鹿は、その獣に気づいたのであった。  鹿は、逃げようとした。  しかし、その逃げる方向を誤った。  後方へ逃げるか、せめて横へ逃げればよかったのに、なんと、その鹿は、その獣の前を駆け抜けようとしたのである。 画/晴十ナツメグ 初出 「一冊の本 2013年9月号」朝日新聞出版発行 ■電子書籍を配信中 ・ ニコニコ静画(書籍)/「キマイラ」 ・ Amazon ・ Kobo ・ iTunes Store ■キマイラ1~9巻(ソノラマノベルス版)も好評発売中   http://www.amazon.co.jp/dp/4022738308/
キマイラ鬼骨変
待望の新章「鬼骨変」がニコニコで連載開始!



⼰の内に「獣」を秘めた⼆⼈の⻘年を描いた、作家・夢枕獏の“⽣涯⼩説”。

1982 年に朝日ソノラマから第1巻「幻獣少年キマイラ」が刊⾏されてから 31 年、これまでに別巻を含めて 18 巻(ソノラマノベルス版〈朝日新聞出版刊〉は本編 9 巻、別巻1 巻)が発売されている。