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80年代からコラムやインタビューなどを通して、アメリカのプロレスの風景を伝えてきてくれたフミ・サイトーことコラムニスト斎藤文彦氏の新連載「斎藤文彦INTERVIEWS」。マット界が誇るスーパースターや名勝負、事件の背景を探ることで、プロレスの見方を深めていきます! 初回のテーマはプロレス史上最大の裏切り劇「モントリオール事件」!
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「我らが英雄ザ・ファンクスの凄み!」「若鷹ジェット信介――ハッスルの最期を看取った男」「ダラスに響きわたるストロング・スタイルコール! 中邑真輔 10億点のWWEデビュー!」
http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/201604
――プロレス史からひとつのテーマを取り上げてその背景を語ってもらう斎藤文彦さんの新連載ですが、1回目のテーマはWWEの「モントリオール事件」についておうがかいします!
斎藤文彦(以下フミ) はい、よろしく。
――なぜモントリオール事件を取り上げるかといえば、最近ある格闘技団体の試合中に「これはもう危ない」と判断した主催者がタオルを投入して試合を終わらせたんですが、じつは勝敗を決するような攻防ではなかったということがあって。
フミ 主催者の判断で試合を止めてしまったんですね。
――負けにされた選手がもの凄く不満を漏らして、主催者との関係が悪かったことも匂わせていたので、すぐにモントリオール事件を思い出してしまったんです。あの事件はプロレス史に残るトラブルだったので、いろいろとおうかがいしたいな、と。
フミ まずモントリオール事件を簡単に説明すると、1997年11月9日のサバイバー・シリーズのメインイベントで、ブレット・ハートvsショーン・マイケルズのWWF(現WWE、以降WWE表記)世界ヘビー級王座のタイトルマッチが行われた。すでに王者ブレットがライバル団体WCWへの移籍が決まってる中、挑戦者のショーン・マイケルズがシャープ・シューターを決めた瞬間、ビンス・マクマホンがリングサイドに現れ、レフェリーに命令して試合を止めて、ショーン・マイケルズの勝利をコールさせた。
――ギブアップしてもいないのにこんな裁定を下されて、ブレットはビンス・マクマホンの陰謀だとして大激怒したんですね。
フミ そもそもシャープ・シューターはブレットの必殺技だったし、2人は犬猿の仲だった。それにこの大会はブレット・ハートの地元カナダで行われていたんですね。
――こんなかたちでの敗北は、ブレット・ハートとしてはありえないわけですね。
フミ 一番のポイントは、WCWに移籍することが決まっていたブレット・ハートは、WWEのベルトを翌日のロウで返上するつもりだった。そしてその案をビンスは了承していた。つまり、この王座転落は、ビンスがレフェリーに命じてライバル団体に移籍する「ブレット・ハートの敗北」を強引に演出したもの。ブレット・ハートはビンスにハメられたんです。
――プロレス史上最大の裏切り劇が、大観衆の目の前で行われたんですね……。その後、WWEは全米統一を成し遂げますが、唯一帝国に危機があったとすれば、このブレット・ハートの流失も招いたWCWからの度重なる選手引き抜きですよね。WCWの魔の手がビンスのまさかの決断を誘ったというか、「このまま傷をつけずにWCWに移らせてたまるか」と。
フミ だからモントリオール事件を語るには、「マンデー・ナイト・ウォーズ」というWWEとWCWのテレビ戦争にふれないといけないんですよね。毎週月曜日の夜にWWEが「マンデー・ナイト・ロウ」、WCWが「マンデー・ナイトロ」というプロレス番組をやっていて。
――曜日や時間帯、番組名もモロ被りだったんですね。
フミ WWEはのちに「ロウ・イズ・ウォー」というタイトルに変えちゃったんだけど、先行していたのはWWEのほう(1993年1月放映開始)で、WCWが同時刻に新番組をぶつけた。始まったのは1995年9月から。
――まさに『オレたちひょうきん族』と『8時だョ!全員集合』とのプロレス版ですね。
フミ なぜWCWが戦争を仕掛けたのか。WCWは「テレビ王」と言われたテッド・ターナー率いるTBSグループ企業の中のプロレス事業部。ターナーはプロレス経営にはタッチせずに、エリック・ビショフが副社長として陣頭指揮を執っていた。ビショフはAWAの元リングアナウンサーだったんだけど、そこまで上り詰めたんですよ。あるときTBS上層部とのミーティングの中で「なぜWWEに勝てないのか」ということが議題に上がった。WWEは90年代に入ってレッスルマニアの回数も重ね、日本のプロレスファンが思ってる以上に、世界制覇に王手をかけていたわけで。
――世界制覇目前だったんですね。
フミ WWEとWCWの力関係は9対1くらいで圧倒的な差があった。WWEの世界制覇の話をすれば、どこまでさかのぼればいいか迷うけど、プロレスの「1984」体制――。「1984」といえばジョージ・オーウェルが1948年に書いた近未来小説ですね。全体主義国家によって管理された近未来の恐怖を描いたSF小説。実際の1984年に何が起きたかといえば、ビンス・マクマホン“ジュニア”が前年の1983年に父親シニアからWWEを買い取り、当時世界最高峰と言われたNWAから脱退して、全米侵攻プロジェクトを始めた。
――なるほど。いまのプロレス界はいわば、WWE「1984」の管理体制の中で生きているともいえるんですね。
フミ 70年代80年代前半のプロレス界は地方分権の時代だったけど、WWEはテリトリー制のプロレスに風穴を開けようようとした。WWEだけで全米ツアーをやっちゃおう!と。テキサスにはフリッツ・フォン・エリックの鉄の爪王国があり、ミネソタやシカゴの北部から中西部にはバーン・ガニアのAWA帝国があったり。どこにもそれなりの大きさのテリトリーがあったんです。テリトリーというのは日本語で「縄張り」ですね。
――WWEは各地のその縄張りを破壊しようとしたわけですね。
フミ それをやってしまったのがWWEの全米侵攻、1984年に起きたんです。最終的にWCWを滅ぼして世界征服をはたすのが2001年だから、なんだかんだ17年はかかってるんですけどね。
――当時のプロレスラーや関係者、ファンは、WWEの1984をどう見てたんですか? 「うまくいくわけないよ」と思った人がいても不思議じゃないですけど。
フミ そこは1984が起こらなくても、地方分権時代は緩やかに崩壊していったんじゃないかと思う。当時ボクはミネソタの大学に通っていたからわかるけど、その街にいけばその街のプロレスがあったんです。ところが80年代前半にケーブルテレビの全米中継が普及してくるでしょ。ケーブルテレビが見られるようになると、アメリカにはその街以外のプロレスがあることがわかってくるわけですよ。
――そのテリトリー以外のプロレスも見られてしまう環境が整いつつあったんですね。
フミ ボクはミネソタだったから土曜日と日曜日の朝に放映するAWAを見ていた。たとえばデトロイトのプロレスファンは、週1回のザ・シークのプロレスを見ていればよかった。その街その街のスターだけ見ていた世界を壊したのは、ケーブルテレビとも言えるんだよね。
――テリトリーを越えられるメディアが浸透すれば、WWEも全米をサーキットしやすいですよね。
フミ 1984の準備段階として1983年12月に当時WWEのチャンピオンだったボブ・バックランドがアイアン・シークに敗れて“失脚”する。そして1984年の1月にボブ・バックランドのリターンマッチが行なわれずに、AWAから引き抜かれたハルク・ホーガンがシークを破って新チャンピオンになった。
――ビンスは、バックランドが王者では全米侵攻はできないと判断したんですね。
フミ そういうことだと思います。全米でプロレスブームを起こすのは、ハルク・ホーガンの絶対的な主人公だと。82年83年のホーガンは1年のうちの半分を新日本、あとの半分をAWAで過ごしていて、のちにハルカマニアとして超メジャーになる原型はできあがっていたし、WWEのチャンピオンになる前の83年6月には、第1回IWGP決勝戦でアントニオ猪木さんを舌出し失神で破っている。これもいま振り返ると凄いことなんだけど、84年はWWEのチャンピオンのまま、新日本との関係も続いていた。そして第2回IWGP決勝では猪木さんと再戦が行われ、長州力とマサ斎藤が乱入して試合をグチャグチャにして、怒ったファンが客席に火をつけるという「6・14蔵前事件」があったでしょ(笑)。
――WWE王者になんて目に遭わせるんですかね(笑)。
フミ ホーガンは同時進行でIWGPとWWEを行ったり来たりしていた。ところが84年暮れのMSGタッグでは、ワイルド・サモワンとのコンビで出場したんだけど、ビンスからストップがかかり、1試合だけ出て“負傷欠場”で帰国。そこからは独占契約となり全米ツアーに専念することになる。新日本に来ていたアンドレ・ザ・ジャイアントものちにWWEと独占契約してね。
――WWEは有力レスラーを次々と配下に収めていったんですね。
フミ AWAからもアドリアン・アドニス、ジェシー・ベンチェラ、ケン・パテラ、大ベテランのマッドドッグ・バション、クラッシャー・リソワスキー、リングアナウンサーのジーン・オークランドを引き抜いちゃって、AWAが空っぽになるほどだった。WWEの猛攻には、AWAではなく、やがて世界最高峰と呼ばれたNWAという組織も形骸化していくわけですよ。だってザ・ファンクス、ハーリー・レイス、ダスティ・ローデスまでもがWWEに行っちゃうわけだしね。
――かつて栄華を極めたNWAというアライアンスはこうして崩壊するわけですね。
フミ リック・フレアーやロード・ウォリアーズを抱えていたノースカロライナ州のクロケット・プロが、滅び行くNWAそのものになっていくんだけど。いくらNWAクロケット・プロでもノースカロライアがニューヨークには勝てるわけがない。かなり頑張ったんだけど経営破綻した末に、テレビ王テッド・ターナーに身売りするわけですね。
――NWAクロケット・プロがWCWになるんですね。
フミ なぜWCWという名前になったかといえば、TBSで放送していたNWAクロケットプロのプロレス番組名が「ワールド・チャンピオンシップ・レスリング」だったんです。番組名がそのまま団体名になった。
――初期WCWには武藤敬司がグレート・ムタとして大活躍しましたね。
フミ 武藤選手が活躍していたのは、まだNWAとWCWの区別がきっちりついていなかった時代で。フレアー、スティング、レックス・ルーガー、ムタの4人がメインだったんですから武藤選手は凄いですよ。看板タイトルもWCW世界ヘビー級王座になるんだけど、フレアーがベルトを巻いてるあいだはNWA世界ヘビー級タイトルだったんですよね。
――そうしてWWEに喧嘩をふっかけることになって。
フミ まず「マンデー・ナイト・ウォーズ」の前の94年6月の時点で、アメリカのレスラーの中でも一般的知名度の高いハルク・ホーガンとWCWが契約を結んだんです。当時のホーガンはWWEを離れており、新日本の福岡ドームに出ていたりしていた。
――WWEはホーガンを王者にして1984を始めましたが、WCWはホーガンを主人公して月曜テレビ戦争を仕掛けたと。
フミ 元リングアナだったエリック・ビショフがターナーに「WWEに勝てないのはプライムタイムで放送してないからですよ」と進言した。それまでのWCWは土曜日の夕方の放映したんだけど。当時WWEは週に5〜6本の番組を放映していて、なかでも看板番組だった月曜日の「マンデーナイト・ロウ」にぶつけようとなってね。
――そこから6年にも及ぶ長い戦争が始まるんですね……。
フミ WCWが消滅する2001年まで、2大メジャー時代のテレビ戦争がずっと続くわけです。そしてホーガンだけじゃなくてWWEからたくさんの選手がWCWに移籍するんです。ランディ・サベージ、ロディ・パイパー、カート・ヘニング、アースクェイク(ジョン・テンタ)。ほとんどの主力選手が移ったけど、最終的にはWWEが勝利するでしょ。それは当時あまり論じられなかったことだけど、WCWという団体はゴールドバーグという例外を除いて、自前でスターを育てたことは一度もなかったんですね。
――全部WWEから選手を引っ張ってきただけ。
フミ エリック・ビショフには「ATMエリック」というアダ名がつくくらい(笑)、引き抜きにお金をじゃぶじゃぶと注ぎ込んだ。自分のお金じゃなくターナー企業のお金だから自由に使えたところもあるんだけど。やっぱりね、WWEはプロレス界最大の団体だったけど、あくまで個人商店が大きくなったところはあるわけですよ。一方のWCWは親会社が巨大なテレビ局。資本の面ではWCWに太刀打ちできなかった。
――いまのMMAでいうと、個人商店のUFCがWWEで、バイアコム傘下のベラトールがWCWという感じですね。
フミ WCWには選手を育てるという発想がなくて。だってnWoの中身はヒールに転向したところのホーガン、WWEではディーゼルだったケビン・ナッシュ、レイザー・ラモンだったスコット・ホール、1-2-3キッドだったシックス、ミリオンダラーマン、リック・ルード、ブルータス・ビーフケーキ……みーんなWWEから持ってきた。ホーガンはその頃ビンス憎しで「WWEを倒すのは俺だ」と思ってたのか、友達を全員呼んできちゃったんですよ。
――そこまで選手を引き抜かれたら普通は絶体絶命ですよね。
フミ たしかにカジュアルなファンにとってはスターが全員WCWに移ってきたように見えるんだけど、目の肥えたマニアからすれば「これ、WWEの再放送だよね」っていう感覚。そのあいだにWWEはブレット・ハート、ショーン・マイケルズ、ミック・フォーリー、トリプルHが育ってくるわ、モントリオール事件が起きる前にはストーンコールドやロックも出現してたんですよ。だからWCWはプロレスファンの気持ちがわからなかったんですよね。プロレスファンはたとえばストーンコールドがどんどん面白くなって巨大化してスーパースターになっていく過程の目撃者になりたかったわけでしょ。それはロックもしかりね。
――完成された商品だけを楽しむだけじゃないってことですね。
フミ WCWにはそのプロレス頭がなかったし、WWEとWCWのテレビ戦争で、WCWが勝ちそうになったのは、nWoの時期だけなんですよ。WWEが視聴率で約1年間、勝てなかったのはnWoの時期。なぜ勝てなかったのかはいまになればわかる。nWoだけはWCWのオリジナルのストーリーなんです。あのホーガンが初めてヒールをやった。それだったら面白い。
――スティングもクロウスタイルに変化して、1年間試合をせずに乱入だけを繰り返しただけでしたけど、かなり面白かったですね(笑)。
フミ WCWをずっと見てきた南部のファンたちからすれば、スティングだけは信用できるレスラーなんですよ。そんなNWAとWCWの象徴だったスティングがどんどんとダークになっていく様にはリアリティがあった。プロレスの中にはそういう真実があるということなんですよね。
――それ以外は選手も物語をWCWは提供できなかった、と。
フミ WWEはWCWに選手を取られても取られても、新しいスターをどんどんと作るわけですよ。それで今回のテーマとなるモントリオール事件の話につながるんだけど。あの裏切りの引き金になったのは、WWEがせっかく育てたブレット・ハートまでもがWCWに移ることになったこと。「引退するまでWWE一筋だ」と言っていたブレット・ハートが最終的には泣く泣く移籍することになる。
――泣く泣く移籍ですか?
フミ そこはブレットのルーツにも関わる話になるんだけど。ブレッドの父親スチュー・ハートさんは、カルガリーのスタンピード・レスリングのプロモーターで、ブレットのファミリーはプロレスビジネスに関わるプロレス一家。ブレットも12歳の頃から会場でチケットのモギリなんかをやっていたんですよ。
――将来プロレスラーになることは当然のことだったんですね。
フミ リングを組み立て、デビュー前はレフェリーもやり、大学生の夏休みには試合をやっていた。ところがスチュー・ハートは、件の1984年にカルガリーのマーケットをWWEに売ってしまったんです。カルガリーがマイナーだとは言わないけれど、雪国のプロレスとしてハッピーな空間だったものが、ニューヨークの大都会のプロレスに吸収されたってことなんですね。
――ブレットは時代の移り変わりの真っ只中にいたんですね。
フミ スチュー・ハートがWWEにマーケットを売る条件は、ブレット・ハート、ジム・ナイドハート、ダイナマイト・キッド、デービーボーイ・スミスの4人をWWEで使ってくれ、と。だからブレット・ハート、ジム・ナイドハートはハートファンデーションとして、キッドとスミスはブルディッシュ・ブルドッグスとしてWWEに入った。こうしてカナダ生まれでカナダのローカル団体で育ったブレットは、ニューヨークで絶対にスターになってやると強い意志を持ってプロレスを取り組んだんですよ。そして84年から8年経った92年に、WCWから移籍していたリック・フレアーに勝ってチャンピオンになったんです。その出世のドラマというのは、ずっとWWEを見てきた人には感慨深いもので、だからこそ「ブレットLOVE」が強いんでしょうね。
この記事の続きと、ミスター高橋、ハッスル悪夢、ザ・ファンクス、中邑真輔NXTなどのインタビュー・コラムがまとめて読める「詰め合わせセット」はコチラ http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1019120
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