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国際プロレス、全日本プロレス、パイオニア戦志、SWS……昭和から平成にかけて様々なプロレス団体を渡り歩いてきた アポロ菅原 インタビュー最終回で す!(聞き手/ジャン斉藤) 【アポロ菅原インタビューシリーズ】
①アポロ菅原「国際プロレス最後の夜は、麻雀をやっていました」 ②【全日本プロレス編】アポロ菅原インタビュー「いま振り返っても何もできなかったんじゃないかな」
③「剛竜馬とパイオニア戦志、北尾光司」 ④ SWS鈴木みのる戦シュートマッチ全真相1万字インタビュー
⑤北尾光司vsジョン・テンタがシュートマッチになった理由 ⑥SWS解散とザ・マミー変身
―― 1996年に横浜アリーナで開催された第1回「メモリアル力道山」には新日本プロレスをはじめ、16団体が参加しました。菅原さんはIWA格闘志塾スペシャルマッチとして、ザ・マミーに変身して鶴見五郎さんと試合をしましたが、ダイビングヘッドバットに失敗して失神してしまいました。
菅原 あのときは入場した時点で「マズイな……」って思ったんですよ。マスク越しには周りが真っ暗で何も見えなかったんですよね。普段ならは2~3人、誰かがリングまで先導してくれるんですけど、あのときは誰もいなくて1人で入場したんですよ。
―― あの「メモリアル力道山」は各団体の提供試合で構成されてましたが、1試合だけだからセコンドにつける選手たちは来てなかったんですかね。
菅原 そこらへんはどういう話になっていたかわからないですけども、自分は1人で入場しましたね。ほのかに見えるリングに向かって行けばいいだろう……という感じでしたけど。
―― それで試合中に事故が起きてしまって。
菅原 あのダイビングヘッドバットは「このへんにいるだろう」という感じで飛んだんですよ。リングに頭を打った瞬間、カメラのシャッターのように「パシャッ」となりましたよ。
―― 入場から含めて何か見えづらさがあったということですか。
菅原 それはありましたね。まず会場が大きいですし。だからマミーは……そこそこのお客さんがいる会場がよろしいんじゃないですかね。こう言ってはなんですけど、マミーというのは見世物的なところがありますもんでね。あまり会場が大きいと把握できなくなっちゃうんじゃないですかね(苦笑)。
―― マミーは横浜アリーナに合ってない(笑)。
菅原 現代のマミーは違うかもしれませんけど(笑)、当時のマミーはそんなにお客さんが入らない会場がマミーらしかったかもしれないですね。
―― 失神から目が覚めたのはいつなんですか?
菅原 担架で運ばれるときには気が付いてましたよ。自分の指が動くことを確認して、致命傷ではないなとは思ってました。
―― 対戦相手の鶴見さんとはお話はされたんですか?
菅原 うーん、話はしたのかなあ。控室に猪木さんが来ていただいて……
―― 猪木さんが!
菅原 そうです。「いいからマスクを取れ」と自分の足や指先を触っていただいて「これなら大丈夫だろう」と。俺みたいな奴のために本当に光栄なことです。プロレスラーの仕事としてはダメだったわけですからね。
―― いままでそんな失敗をしたことはなかったわけですよね?
菅原 あー、ほとんどなかったと思います。アポロ菅原として失敗したことはなかったですよ。
―― プロレスの中でもああいうことも滅多にないですよね。
菅原 だからこうやってみんなの記憶に残ってるんでしょうけど(苦笑)。
―― この試合を長州さんが批判したことでメジャーvsインディの流れができますよね。
菅原 長州さんが「だからインディはダメなんだ」って言われたんだけど。 そのとおりだと思いますよ(笑)。
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