武藤敬司の引退興行が2月21日に東京ドームで開催されることになった。「名前と数字の語呂合わせでリングサイドは610万円。スペース・ローンウルフ時代の入場で被っていた610ヘルメットの特典付きはどうだろう?」などと妄想するまもなく、まだ9月だというのに50万円のリングサイドは完売。天才レスラーの引退興行の大成功は約束された滑り出しを見せている。

俗に言うニッパチ(2月・8月)は商売をするうえで鬼門とされてきた。何かと出費がかさむ年末年始明けの2月と、暑さのため外出が憚れる8月は、市井の人々はお金を落としづらいというわけだ。その俗説を覆したのは新日本プロレス真夏の祭典8月のG1クライマックスだが、プロレス格闘技の東京ドーム興行が2月に行なわれたのは一度だけ。その唯一の東京ドームが1990年2月10日「'90 スーパーファイト in 闘強導夢」だった。天心vs武尊にも引けを取らないほどの盛り上がりを見せたこの日、本来ならば武藤敬司が主役になるはずだった。このテキストは、ボクがまだ見ぬ強豪「グレート・ムトー」に夢を見ていた頃の話である。


ボクは当時小学生だった。初代タイガーマスクがいつのまにか姿を消したこともあり、新日本プロレスを積極的に追うことはしてなかった。海賊男や巌流島、たけしプロレス軍団など子供には理解しがたい難解なストーリーも消極的になった理由のひとつだ。プロレス自体が世間の関心を失われており、気がつけばテレビ朝日のプロレス中継番組『ワールドプロレスリング』は土曜16時に降格。そのうえゴルフの特番のせいで放送されないことは頻繁で、キング・オブ・スポーツはゴルフに勝てなかったのだ。

リング上に目を向ければ、烈風隊にブロンド・アウトローズ、旧ソ連軍団と、どうにもイケてない感。橋本真也と蝶野正洋の抗争も無理矢理感が否めず乗り切れなかった。そんな冬の新日本プロレスを眺めていたボクのプロレススイッチが激押しされる情報がアナウンサーの口からこぼれだした。新日本プロレスのレスラーがペイントレスラーとしてNWAでスーパースターになっているというのだ。

強さを求めるはずの新日本のレスラーがペイントというのも当時のボクには斬新だったし、新日本にとって憎き帝国NWAで暴れまわっていることも衝撃的。新しいプロレスの風を感じた。

その名は「グレート・ムトー」

「グレート・ムタ」と告げられていたのに、テンションのあがったボクは間違えていたインプットしていた。グレート・ムトー、すごい奴がいるな。なんで世の中はこんなすごいプロレスラーの存在に気がついていないんだ……名前すらうろ覚えの小学生は興奮しながら無知な世間をあざ笑った。

グレート・ムトーの正体・武藤敬司というプロレスラーの試合はなんとなく見たことがあるが、コーナーポスト最上段から1回転して両足で着地する姿を見て「この選手は何をやってるんだろう?」と首を傾げた印象しかない。ラウンディング・ボディプレス(ムーンサルトプレス)の自爆回避ができる類まれなる運動神経を理解できてなかったのだ。

80年代の初代タイガーマスクや長州力が熱狂をもって世間に向い入れられたのは、リング上の景色や構図をいっぺんさせたから。新しくて過激だった。もしかしたらグレート・ムトーが新世界の秩序をもたらしてくれるかもしれない。当時は映像も入手困難、小学生のお小遣いでは簡単にプロレス雑誌を買えない。試合を見たこともないのグレート・ムトーの華麗なるファイトを妄想する日々が続いた。そんなある日、ムトー凱旋の報を聞きつけ、小学生なりに大枚を叩いて週刊プロレスを購入。まず名前がムトーではなくムタであることを知った。なぜムタなのかは意味がわからなかったが、記事の詳細にページを捲る手が震えた。

1990年2月10日「'90 スーパーファイト in 闘強導夢」、NWA世界ヘビー級タイトルマッチ。グレート・ムトーがリック・フレアーに挑戦する。

グレート・ムトーが帰ってきて色褪せて見えたプロレスを変えてくれる。福島県在住のボクは、馬場さん以来となる日本人2人目のNWA世界王座獲得の歴史的快挙目撃のため、東京ドーム現地観戦を真剣に考え、親にどうやって相談しようかと夜も眠れなかったが、その悩みからはあっけなく開放される。

グレート・ムトー負傷欠場による世界戦中止。しかし実際の理由は新日本プロレスが4月に行われる全日本プロレスとWWFの東京ドーム興行に手を貸すことに対してWCWが態度を硬化。政治的理由からフレアーの来日をキャンセルしたと言われる。

しかし、皮肉なことにリック・フレアーvsグレート・ムトーの中止がまったくチケットが売れてなかった東京ドームをフルハウスにするきっかけをつくった。目玉カード消滅に慌てた新日本プロレスは全日本プロレスに相談。馬場さんはジャンボ鶴田、天龍源一郎、スタン・ハンセンなどトップレスラーを新日本に快く貸し出した。この交流戦は、冷戦終結の国際情勢と合わせて“プロレス・ベルリンの壁”崩壊と騒がれ、各所に出回っていた無料招待券はプラチナチケット化させた。

同大会は数日遅れながらゴールデンタイムで放映。特別ゲストには、クリーンの頃の田代まさしだ。ベイダーvsスタン・ハンセンのガイジン頂上対決、天龍vs長州ガッチガチのタッグマッチ、北尾光司デビュー戦、猪木が坂口征二と黄金タッグをひさしぶりに結成して、はじめて観客と共に「1、2の3、ダー!!」と唱和した。かつてのエネルギーを取り戻したプロレス空間がそこにあった。ボクはこの日から熱狂的なプロレスファンになった。唯一の心残りはグレート・ムトー抜きでプロレス人気復活の狼煙が立ち上がったことだ。

ゴールデンタイムの影響力は凄まじく、翌日の学校では誰かがハンセンのラリアットを、誰かが北尾の奇妙な構えを、誰かが猪木になりきり「ダー!」と吠えていた。「グレート・ムトー、試合がなくて残念だったね」と話題にするやつなんて誰もいない。

グレート・ムトー信者のボク(試合を見たことない)が唇を噛みしめる悲しい出来事はまだ続く。同年4月27日、ついに実現したムトーの凱旋試合があまりにも素晴らしかったからだ! 

信じられないほど高く跳躍するギロチンドロップ、早すぎて何が起きたかがわからないフラッシングエルボー、ダイナミックで美しすぎるラウンディング・ボディプレス……。

ほら見ろ、俺のグレート・ムトーはこんなにすごいんだ……しかし、残念ながら土曜16時という時間帯だったために注目度は低く「グレート・ムトー、やっぱりすごかったね」と話題にされることはなかった。その年末に再び実現した新日本の地上波ゴールデン特番では、ジェット・シンの凶器攻撃の前に本領発揮するまもなく反則勝ち。ゴールデンタイムの影響はやっぱり凄まじく、翌日の学校で同級生が、かつてのボクのように小馬鹿にする。

「あのムトーってレスラーさ、トップロープからマットに後ろ向きで1回転して着地したけど、何がやりたかったんだろな(笑)」

違うんだよ、あれはラウンディング・ボディプレスというムトーの必殺技なんだ。相手がかわしてもスルリと着地できる高度な動きなんだよ……。ムトーの世間的知名度はなかなか上がらななかった。小橋建太がムーンサルトプレスを使い始めると、グレート・ムトーのほうが先だと周囲に触れ回った。あの東京ドームでフレアー相手にグレート・ムトーが躍動していたら印象は違ったのに、プロレスはこれからも安泰だったのに!

2月の東京ドーム不出場がボクのプロレスファン心に暗い影を落とし、そしてムトーをエースに据える気のない新日本にも勝手に腹を立てて(いま振り返れば全然トップレスラーの扱いだった)、プロレスの楽しみ方を徐々に変えていく。「見る」ほうから「読む」ほうに、つまり活字プロレスの世界に誘われ、サブカル・アングラ的のスタンスがつくられ、現在の編集者という職業に辿り着いた。ムトーの動向は追ってはいたが、初期衝動は失われていた。。

その後、ムトーは「武藤敬司」と「グレート・ムタ」の2つの顔を使い分け活躍。IWGP王座獲得、G1クライマックスも優勝、高田延彦を4の字固めで仕留めてUを消した。故郷・新日本を離れ、自らトップとして経営という苦しい戦いも強いられた。あの頃のボクは、プロレスを変えるために一瞬の熱狂や革命をムトーに求めたが、プロレスは長い時間をかけて物語が熟成され、味わうものだ。ムトーは自身のけだし名言「ゴールのないマラソン」を地で行くように、ただひたすらプロレス道を走り続け、猪木以降のプロレスシーンを牽引するトップランナーとなっていた。

「これはね、ゴールのないマラソンを走ってるようなもんなんですよ。ライバルが今どこを走ってるのかもろくに見えないし、ちょっとしたら同じ道を走ってないのかもしれない。たまに“実況放送”が聞こえてくると、あせっちゃうし、こっちはこっちでいつも意地とプライドで走り続けなくちゃいけない。プロレスを続けていく限り、このレースは終わんない」(週刊プロレス/1992年1月20日号)

1990年2月10日、グレート・ムトーが輝けなかった「’90 スーパーファイト in 闘強導夢」に出場した34名のレスラーたちは、全員引退もしくはセミリタイア。鬼籍に入った方も何人かいる。あの時代を生きたムトーが受け身を取り続けてなお、ここにきて「ゴールのないマラソン」のテープを切ることに感服するしかない。

ボクはいまでも「あの2月の東京ドームにグレート・ムトーが出ていたらプロレス界はどうなっていただろう?」と思いを馳せることがある。たとえどんな世界線にでも、この天才レスラーはプロレスに新秩序をもたらしてくれただろう。ボクが夢見たグレート・ムトーの革命は幻に終わったが、武藤敬司はわれわれを豊かでたくましいプロレスに導いてくれた(文/ジャン斉藤)

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