Dropkick
「ホイラー・グレイシー vs. エディ・ブラボー」因縁史■MMA Unleashed
「クロン・グレイシー vs. 青木真也」が行われた6月9日のメタモリス2大会で、メタモリス第3回大会(日程未定)のメインイベントが「ホイラー・グレイシー vs. エディ・ブラボー」の再戦であることが唐突に発表された。このイベントはグレイシー一族が設立したブラジリアン柔術(BJJ)の大会で、プロモーターはハレック・グレイシーである。イベントのコンセプトは、よりエキサイティングな形式のBJJを提供すること。試合時間は20分、第1回大会ではポイント制は取り入れず、一本決着しか認めないこととなっていたが、第2回大会からはジャッジが配置され判定が行われるようになっている。
ホイラーとブラボーの最初の対戦は、2003年5月6日、ブラジル・サンパウロのジナーシオ・ド・イビラプエラで行われたADCC「第5回サブミッションレスリング世界選手権」のことであった。
ブラボーはもともと高校ではレスリング部に所属、空手の練習もしていたが、1994年のUFC2で、ギをまとった小男、ホイス・グレイシーが大きな選手を切り捨てていく様子に感銘を受け、カーロス・グレイシーの弟子であるジャン・ジャック・マチャドの門下に入り、ギありの柔術の練習を始めた。マチャドには羊膜索症候群という先天性の病気があり、右手には親指と小指しかなく、グリップが効かないため、オーバーフック、アンダーフックに頼る戦い方を編み出していた。マチャドは、弟子のブラボーがやがてノーギに転向していくことについて寛容であった。オールドスクールなBJJの師範はしばしば、ギを着用して動きが制限された中で練習することこそが、技術を向上させると信じている。しかしブラボーは、BJJの選手の多くがMMAで負けてしまうのは、ギに頼りすぎた戦いをしているからで、ノーギになったとたんに武器がなくなってしまうと批判した。マチャドはノーギ転向後のブラボーに、黒帯を授けている。
ちなみに、ブラボーがツイスターを開発したのは柔術の練習を始める前の高校のレスリング部時代のこと、プロレスのグラウンドコブラツイストをアマレスのピンフォール技術として使ってみたのが最初である。最初ブラボーはその技をギロチンと呼んでいたが、BJJのギロチンと混同しないよう、ツイスターという名前に変えたのだった。
この記事の続きを読む
ポイントで購入して読む
※ご購入後のキャンセルはできません。 支払い時期と提供時期はこちら
- ログインしてください
購入に関するご注意
- ニコニコの動作環境を満たした端末でご視聴ください。
- ニコニコチャンネル利用規約に同意の上ご購入ください。