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90年代プロレス格闘技界を席巻した堀辺正史の「骨法・証言」シリーズ、またの名を「教祖は真実を語らない」――。ヤノタク、北條誠に続く3人目の証言者は漫画家の中川カ〜ル氏だ。80年代末期に骨法に入会した中川氏は会員番号229番と黎明期を知る数少ない人物。ひとつの町道場が宗教化していくという、骨法が骨法でなくなっていく瞬間を間近で目撃していたのだった……。
以前の「骨法検証」インタビューはコチラ!
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・元・骨法内弟子、かく語りき「矢野くんや皆さんは骨法を誤解しています」
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中川カ〜ル「いざ表に出たら骨法のベールが剥がれたというけど、表に出たものがぜんぜん違うものですから」
――中川さんはブレイクする前の初期骨法に在籍されていたいたそうですね。
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中川カ〜ル「いざ表に出たら骨法のベールが剥がれたというけど、表に出たものがぜんぜん違うものですから」
――中川さんはブレイクする前の初期骨法に在籍されていたいたそうですね。
中川 ブレイクしかけた頃の骨法になりますね。入会したきっかけは、『週刊少年サンデー』で竜崎遼児先生が『闘翔ボーイ』というプロレス漫画を連載してまして。俺は竜崎先生のアシスタントをやってたんですね。
――あ! 『闘翔ボーイ』といえば……。
中川 そうなんですよ(笑)。その漫画の中に骨法が出てくるんですけど、そこで取り上げたことで骨法がブレイクしたところもあるんですよね。これ、『闘翔ボーイ』の単行本なんですけど、表紙に写ってるのは廣戸(聡一)さんですね。
――廣戸さんは初期骨法の重要人物でその後はパンクラスに関わって、いまではJOCやプロ野球をはじめスポーツ方面で活躍される超有名トレーナーですね。廣戸さんの経歴には骨法の二文字は触れられてなくて。
中川 もう廣戸さんは骨法のことは語らないでしょうけど、廣戸さんなくして骨法ってなかったと思うんですよね。で、俺はそれまで格闘技は何もやってなくて。でも、プロレス自体は好きでよく観てたし、アシスタントをやる前にプロレスのマスク屋さんで働いてたんです。そこの会社は覆面レスラーのマスクとか、前田日明のレガースも作っていたりして。
――凄い経歴ですね(笑)。
中川 そのマスク屋にはプロレスラーになる前のスペル・デルフィンがあとから入社してきたり。そこで働いているときに『サンデー』でアシスタント募集があって、もともと漫画家志望だったんで応募したら合格したんです。それで竜崎先生が『闘翔ボーイ』に骨法を出すことになって。ウチの先生はちゃんと取材する人なので、当時骨法武術館と呼ばれていた東中野の道場に行ったんですよ。
――中川さんは骨法の知識はあったんですか?
中川 『週プロ』で堀辺先生とカブキさんが一緒に載ってる広告を見たりしてて「うさんくさいなあ」とは思ってて。だからべつに取材しなくてもいいんじゃないのかって思ってたんですよね(笑)。で、これは骨法の会員証なんですけど。
――あ、そんな貴重なものが。
中川 本当は退会時に返さないといけないんですけど。途中でなくして再発行してもらったんですが、紛失したやつが手元に残ってたんですね。これを見ると入会したのは昭和62年になりますね。
――入会したのが昭和62年。いうことは1987年ですね。そして会員番号229ですか!(笑)。
中川 矢野(卓見)さんが1000番代と言ってましたからね。たかだが3年くらいのあいだにそんなに人が増えたり減ったりしたという。
――実際に取材をしてみた骨法の印象はどんなものでしたか。
中川 最初に堀辺先生を見たとき思ったより大きかったんですよね。もっと華奢で弱々しいのかなと思ってたので「この人、強いんじゃないかな」って。それで一通り骨法の説明を受けて、廣戸さんと最上(晴朗)さんという指導員のスパーリングを見せてもらったんですけど。その最上さんという方も現在トレーナーとして活躍されていて。
――廣戸さんとともに骨法を支えていた人物なんですね。
中川 そのふたりの打撃スパーがホントに凄かったんですよ! 動きが華麗でジャッキー・チェンの映画のような、いままで見たことないような格闘技の動きで。あれは本当に凄かった。そのスパーリングに衝撃を受けたこともあって入会したんです。
――うさんくささは消えたんですか?
中川 というわけでもないんですけどね。それくらい廣戸さんと最上さんのスパーが凄くて。あれ、映像が残ってないかなあ。
――そこまでおっしゃられると一度見てみたかったですねえ。
中川 それでウチの先生が「骨法にはバックドロップみたいな投げ技はないんですか?」って質問したら堀辺先生が「ありますよ」って廣戸さんに目配せしたらバックドロップを出したりしてましたね(笑)。
――堀辺先生は昔からサービス精神が旺盛だったんですね(笑)。
中川 あといろんな極め技を見せてくれたんですけど、それを漫画に描いたら藤波辰爾がドラゴンスリーパーとして実際に使い出して。
――それくらい骨法ってトレンドだったわけですねぇ。
中川 そのときちょうど船木(誠勝)選手が奥でひとりで練習してたんですよね。船木選手が17歳くらいの頃かな。
――17歳の船木誠勝! 当時は新日本の若手で。
中川 これはボクが入会したあとですけど、船木さん 山田(恵一)さん、風忍先生、峰岸とおる先生の前でスパーリングをやったことありますね(笑)。
――あの「骨法vsゴジラ」の風忍先生とバイオレンス漫画でおなじみの峰岸先生! ライガーさんたちも普通にスパーリングをやってたんですか?
中川 山田さんは俺のあとに入会したんですけど。船木さんと山田さんは普通の道場生として一緒にやってましたよ。練習が終わったらみんなと一緒に掃除して、原チャリで帰っていくふたりをビルの2階からみんなで見送ったりして。あと一水会の鈴木邦男さんやライオネス飛鳥も来てましたね。
――武藤敬司も来たんですね。
中川 局長(堀辺夫人)によると武藤は「かっこいい技だけ教えてよ」って(笑)。
――鏡の前でずっとポーズを取ってたとか(笑)。
中川 北尾光司からもコンタクトがあったみたいですね。空拳道を名乗る前ですけど、何か肩書きがほしかったのかもしれませんね。断ったみたいですけど。
――中川さんが通っていた頃は掌打だったんですか?
中川 ちょうど掌打に変わる時期だったんですね。それまでは拳だったんですけど。
――技術の変化があるのは誰の発案なんですか?
中川 それは先生が練習の合間合間に来て「こういう動きがある」と話して、廣戸さんたちが取り入れていく感じですよね。
――習ってみてどうですか?
中川 凄かったですよ、骨法も先生自体も。先生の蹴りをミットで受けたことありますけど、ホント凄かったです。考えたらいまの俺は当時の先生と同じ歳なんですよ。47歳なんですけど、当時の先生ってそんな歳だったんだなって(笑)。だから先生の経歴とかはどうでもいいと思っていたというか、。
――昔の格闘家は“盛る”傾向がありましたし。
中川 実際に習ってみた凄さは感じていたので、経歴の胡散臭さは気にならなかったんですね。
――当時の道場生のモチベーションはなんだったんですか?
中川 なんだろな……。当時から「プロ化」するとか言ってましたけど。まあ当時の骨法は「喧嘩芸」、路上の喧嘩を想定してたのでそこは護身術ですよね。だって基本は金的狙いですから。
――基本は金的!
中川 いかに金的を狙うかの練習をしてましたから。だからいま動画とかで見られる骨法とはだいぶ違うんですよね。掌打でペチペチなんかしてなくて。
――喧嘩芸としての骨法なんですね。
スーパーセーフ着用時代の骨法。中川さん所有の貴重な写真
中川 町で絡まれてる人間を助けたりして骨法の会員証を見せながら「こういうもんです。骨法をやりませんか?」なんてバカなことをやってたりして(笑)。
中川 町で絡まれてる人間を助けたりして骨法の会員証を見せながら「こういうもんです。骨法をやりませんか?」なんてバカなことをやってたりして(笑)。
――ハハハハハ! 助けるくらい腕にもメンタルも自信がついて。
中川 実際、毎日のようにスパーリングをやってて血だらけでしたよね。当時はマウスピースをしてなかったから前歯も折れていたし、口の中もグチャグチャに切れて。
――実践的だったんですね。
中川 合宿もありました。夏と年越しに千葉の九十九里浜で4日間くらい。朝6時からランニングして夜の11時まで(笑)。メチャクチャ面白かったですけどね。でも、俺が入る前はまた違う骨法があったように、骨法もどんどん変わっていったんですよね。
――いったい何があったんですか?
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中川さんと同時期に道場に通ってました。喧嘩芸時代です。
廣戸さん、最上さんにも指導していただきました。
小柳津さんがまだ黄帯でした。
中川さんとも、会話させていただきました。
と言っても通ってたのは1年未満なので、覚えてらっしゃらないかと思いますが・・・。
ブルーザーブロディの訃報を、新聞より早く道場で聞いた(ネットの無い時代!)のが思い出されます。
あの頃は真剣に掌打を練習してましたね・・・。頑張れば両指導員や、夢彦みたいになれるって信じて。
先生の訃報に触れ、色々なことが思い出されます。
改めて、堀辺正史先生のご冥福をお祈りいたします。