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「猪木は事業に手を出してる場合じゃない!」
かつてよく目にしたこんな猪木批判。ズバリ、もっともな話だけど、そんなつまらない正論は聞きたくない。だいたい猪木はいまも昔も事業まっしぐらな人間なのに、何をいまさら大騒ぎしてるんだろうか。人並みはずれて旺盛すぎるその事業欲は、今日に始まったことではなく、彼のプロレス人生と絡みつくかたちでドラマチックに展開されてきた。事業に走れば走るほど猪木の魔性ぶりは浮き上がり、ある種のエンターテイメントとして、プロレス史を彩ってきたのだ。
古くは昭和・新日本時代に遡る猪木の事業投資は、ブラジルの物産販売を目的とする「アントン・トレーディング」の設立から始まった。マテ茶やアントンナッツ(ひまわりのタネ)、タバスコの輸入、六本木のスペアリブレストラン「アントン・リブ」を取り扱っているぶんにはまだよかったが、いずれ国家規模のプロジェクトに着手することに。ここ数年のあいだで、その事業スピリットが最大限に爆発したのは、いわずと知れた永久電機だろう。
成功すれば、わずかな磁力で半永久的にエネルギーを生み出すというこの発明。科学の理論上、100パーセント不可能と言われているが、中世ヨーロッパの時代から多くの人間がこの発明の魔力にとりつかれ、猪木もあり余る情熱と、億単位の金を注ぎ込んでいた。
「この発明によって科学の理論が覆り、学校の教科書を書き換えることになる」(猪木)
彼の側近ですら、いぶかしげに眺めていた永久電機が、いつの日か動くと信じてやまないのであった。
もともとこの大発明は、大阪のある人間がその商談を破壊王こと橋本真也に持ちかけたものだったという(破壊王も事業欲が旺盛だった。晩年は冬木薫さんと健康器具販売会社をつくろうとした話を耳にしたが、破壊王にこそ健康管理をしてほしかった)。しかし、どういうわけか話は猪木のもとへと転がり込むことになった。
そして、2002年3月12日――ホテルオークラで、いまや伝説の永久電機記者会見が行なわれる。その席で公開された永久電池の名称は「Inoki Natural power-VI」。一般マスコミが取り囲む会見冒頭で「エネルギーの常識にないことが起こりました!」と誇らしげに挨拶する猪木だったが、いざ起動スイッチを押しても、永久電機の力で点灯するはずの電光板は、一瞬たりとも反応を示さなかった。ざわつく報道陣、顔を見合わせる企業家たち……。
関係者が慌しく電機内部を点検すると、内部でもっとも重要となる磁石装置の止め金が外れていた!
じつは、この日の午前中に行なわれた世界各国大使向けの会見ではちゃんと起動したそうだが、猪木いわく「俺が開発者に完成を急がせてしまった」せいか、金具にトラブル発生。驚くことに彼らは外れた金具を接着剤で補強して公開記者会見に臨んだ。世紀の発明を接着剤でフォローしたというのだ。
その後、金具が外れたまま猪木が起動を試みるという無茶なチャレンジも施されたが、電機は不気味な沈黙も保ったまま。いや、動かないのも無理もない。そもそもこの開発に携わったT技研所長K先生からして、「なぜ永久エネルギーを生み出すのかわからない。早稲田大学の教授に相談している」という他人事すぎる発言をしていたほどだから。
「午前中は動いていたんですけどね。ボルトをピシッと締めればこういうことにはなんない。一週間ぐらい日を調整しまして、それで動かないようであれば終わりだな!ダハハハ!」(猪木)
猪木は豪快に笑い飛ばしたが、ボルトをピシッと締め直しての会見は行なわれることなく、しばらくしてT技研のK先生はこの事業から姿を消した。その後、開発者は入れ替わり、「アメリカの巨大資本が妨害しかねない」(猪木)という陰謀史観的な理由のために、秘密裏で開発が進められたそうだが、結局は路線変更。
元・日立製作所の技術者であり、アントン・バイオテック(旧アントン・ハイセル)社長の猪木実弟・啓介氏らの手により、効率の良いモーター「闘魂パワー」(開発はINP技術研究)として日の目を見ることになる。夢の大発明に着地先は、相当現実的なモーターだったわけだ。
事実上の永久電機失敗を機に、猪木の事業熱が冷めたという話を耳にしたが、どうなのか。そもそもあり余る事業欲が芽生えたきっかけには、ゴルフ場やサウナなどの多角経営で鳴らした力道山のもとで青年期を過ごした影響もあったのだろう。さらに猪木が5歳の頃に若死にした父親は石灰業を営んでいた。エネルギー事業に挑むのは猪木家の血でもあった。その石灰業は石油時代の到来とともに、あえなく破綻。行き詰った猪木家は、ブラジルへの集団移民の道を選択する。しかし、その新天地は日本で聞かされていた楽園像からは、ほど遠いものだった。
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