今期の『モーツァルト!』を見てアマデの存在について改めて考えました。
『モーツァルト!』をご覧になってない方はすみません。演劇論としてお楽しみください。
ネタバレもありますので、結末を知りたくない方は気をつけてください。
ミュージカル『モーツァルト!』では、赤いコートを着た幼少期のモーツァルト(アマデ)が青年期のモーツァルト(ヴォルフガング)と常に行動を共にしています。
初めて『モーツァルト!』を見る方は、その白いカツラをつけて赤いコートを着た子供の存在の意味が分からないと思うかもしれませんが、大丈夫です。
演劇的手法で舞台に魔法がかかり、それが彼の「才能」の具現化という事がすぐにわかります。
脚本のミヒャエル・クンツェさんお得意の「概念の具現化」がなされたキャラクターです。
「概念の具現化」と言えば、『エリザベート』の「トート」が有名でしょう。「死」という概念を具現化しています。『ベートーヴェン』という作品にも「ゴースト(音楽の精)」というものが登場します。
それらは全て主人公だけにしか存在を認知されません。主人公以外には見えない存在です。
『エリザベート』も『ベートーヴェン』も脚本はクンツェさんです。クンツェさんは法律学で博士号を取るほどのキレ者なので、作劇も緻密であり、哲学的な歌詞を伴って「概念の具現化」を矛盾なく成立させる強靭な構成力を持っています。
「概念の具現化」であるキャラクターは、世界中の様々な演劇に登場し、ともすれば蛇足に感じられる事もありますが、クンツェさんは、「概念の具現化」の存在意義を明確にしていて、どの「概念具現化キャラクター」も魅力的です。
個人的に「トート」と「ゴースト(音楽の精)」には浅からぬ縁があるので、クンツェさんの作った「概念の具現化」仲間でもあるアマデについても考察してみたいと思います。
今、話題の書籍「ミュージカル『モーツァルト!』の世界」も未読で恐縮なのですが、今回は個人的な感想とクンツェさんの作る「概念の具現化」を演じた体験から考えてみます。
まず、演劇に登場するキャラクターにはすべて目的が存在すると考えてみましょう。
演劇に登場するどんな登場人物も例外なく目的を持って行動しています。
その人物がどんな目的を持っているか考えながら演劇を見るとより楽しめるかもしれません。全てのキャラクターに共通するモチベーションを最もシンプルなものに還元するならば、それは「幸せになりたい」というものに集約すると言えるかもしれません。
例えば、桃太郎は鬼を倒して村に平和をもたらして幸せになりたいと思ってるし、キジはもっとキビ団子食って幸せになりたいと思ったから鬼ヶ島に来たんだろうし、鬼は鬼ヶ島の繁栄を願って敵(桃太郎)を倒して不安を排除して幸せになりたいと思っている訳です。
エリザベートの「トート」も自身は「死」という概念のくせに、愛し愛されて幸せになろうとしています。そのために、宴会に乱入したり、愛する人の家族の命を奪ったり、医者に化けたり、帝国を滅ぼしたりします。
手を変え、品を変え「愛されたい」という目的を成就しようと奮闘します。そして目的への行動が阻害されるからこそ、そこにドラマが生まれ観客の心が動きます。
さて『モーツァルト!』のアマデの場合はどうでしょうか。
彼は何を目的にしていて、何を成就すれば幸せになれるのでしょう。アマデは一言も言葉を発しません。感情を持っていないのでしょうか。答えはノーですね。
目は口ほどにものを語りますし、他者へ強いインパクトを与えるための能動的な手段として「沈黙」は大いに力を持ちます。
まあ、作劇の関係上、喋ってしまってはテーマが拡散し、つまらなくなるという面も否めないのかも知れません。
アマデは何も語ってくれないので、アマデの行動から、彼の目的を考えてみましょう。
彼は常に、音楽の源泉であろう小箱を持っていて、暇さえあればヴォルフガングの近くで作曲をしています。そして才能の結実、つまり作曲に邪魔になりそうなものがあるとそれを排除しようとします。
「才能をいかんなく発揮し音楽を作り出す事を何よりも優先する」というアマデの目的が見えてきます。
クンツェさんの別の作品『ベートーヴェン』にも「ゴースト(音楽の精)」が存在します。ベートーヴェンが曲を奏でたり、作曲をしていると空間に漂う音符かのようにどこからともなく現れます。彼らは言葉を持っており、ひたすらに「音楽を作れ」「それ以外捨て去れ」「運命に屈するな」とベートーヴェンをはやし立てます。
ベートーヴェンは気難しく孤独な壮年の男性として描かれていて、時が経つにつれ耳が聞こえなくなるという運命の中にいます。最終的に自分の心血を注ぎこんだ音楽も聞くことができず、それへの評価である観客の喝采すら聞こえず、人生の後半はかなりハードになっていきます。
それでも「ゴースト(音楽の精)」は「耳が聞こえる必要はない」「心の中に音楽はある」「不滅の音楽を作れ」と焚き付け続けます。そして、不滅の交響曲である「第九」が出来上がるわけです。つまり、音楽を創造するという点では、両者に協力関係が見えます。
演出家からも「ゴーストにとってベートーヴェンの音楽は栄養であり生きる糧である」というアドバイスをもらったことがあります。もちろん、ベートーヴェンが恋愛や、その他音楽以外の事に熱中しそうになると、「ゴースト」は苦言を呈してはいました。しかし、ベートーヴェンを強く押さえつける事はありませんでした。
『モーツァルト!』に戻りましょう。「才能」の化身であるアマデと、実際に現実を生きているヴォルフガングの関係について考えてみます。僕自身が『モーツァルト!』の脚本を見たことないので、想像の範疇を出ませんが、その分、自由に考察してみます。
舞台を見ていてまず感じたのは、ヴォルフガングが何もしていないように見えたということです。
何もしていないというか、自分の行動を突き通す意思が不完全という印象です。
もちろん、喜怒哀楽、七転八倒、ヘンテコバレエ、超絶歌唱、はしていました。パフォーマンスとして素晴らしかったです。
しかし、今語りたいのは、それとはまったく別の次元の話で、脚本上のヴォルフガングの役の持つ性質の話です。
ヴォルフガングは、約束を守れません、ルールも守れません、家族も守れませんし、恋愛や結婚にも責任が持てません。
作曲に関してもアマデが9割以上を作り、仕上げに2.3筆を走らせて「できた!」となる事が多いです。つまり、生きる能力の低い「子供」に見えます。
ここで思い浮かぶのはこの場合の「子供」の逆の「大人」とはどんなものだろうかという事です。
「大人」になるというテーマは、ストーリーの後半に頻発していました。
父であるレオポルトからも「大人」になる事を強く求められていたように感じます。
「大人になるという事は倒れた後も立ち上がる事」という言葉は男爵夫人からも発せられます。
近現代の思想において「人間が大人になる」という事を考えるにあたり、個人的にはニーチェの「超人」説が思い起こされます。その説を簡単に言うと、生きる意味のない世界から脱するために「自分の価値を自分で創造し、自分の人生を自分で決定する」というものです。キン肉マンとかドラゴンボールの「超人」のイメージは捨ててください。
クンツェさんの作る作品からは「才能」と「運命」の対立構造をよく感じます。自身の才能に苦しみながらも、その運命に抗い続けるという不可能性の中から、人間の美しさを掬い取ろうとするまなざしを感じるのです。
その不可能性から脱するための答えの一つとして、ニーチェの「超人」説をあげることができるでしょう。「大人」になれれば「才能」を飼い慣らすことができるのです。
さて、アマデの話に戻ります。アマデの行動で気になった点があります。二幕序盤の「♪愛していれば分かり合える」のシーンでのことです。コンスタンツェとヴォルフガングの愛が成就しそうになると、アマデが敵対勢力を連れ込んでそれを阻害しようとします。
このアクションは、アマデがヴォルフガング以外のキャラクターにも、影響が与えられると劇中で明示されたかなり力強い大きな行動です。
個人的に、ここで違和感が芽生えました。
ヴォルフガングが恋愛をすることは作曲のネタになり得るだろうし、外部の人間を操ってまで邪魔しなければならない行動だったのかどうかという疑問が生まれました。
別の言い方でいうと、今までの流れから見ても「才能」の化身にしてはアクションのパワーが強すぎるという事です。ヴォルフガングが恋愛にかまけている姿を睨みつつ、そばで淡々と作曲するのも有りかなと思えるのに、そうではなく、他者を利用して強権的に無理やり引きはがします。
これより導かれる結論として、アマデはただの「才能」の化身では無いのだろうなということです。
ヴォルフガングにとってアマデは何なのでしょうか?
きっと、イマジナリーフレンドであり、幼少期に分離してしまった自分であり、神からの使いでもあるのでしょう。どれも正解だと思いますが、

個人的には「