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「【『もののけ姫』の読み方 2 】 サンはエボシ御前の娘だった?」
宮崎さん自身は、どこにもそんなことを語ってないし、「おしゃべりな鈴木敏夫さんが、どこかで不用意にそんな話をしていないかな?」って思って、鈴木敏夫の発言もあらかたさらってみたんですけど、そんなことは一言も喋ってないんですよ(笑)。
それしか書いてないんですよね。
さっきも語ったように、エボシ御前にすら「外国に売られていって、倭寇の妻になって~」みたいな設定があるんですよ。
あとは、ジコ坊とか、他のいろんなキャラにも山のように設定が付いているのに、サンだけは、たった1行だけなんです。
すごく不自然なんですよね。
あまりにも言葉足らずで、不自然。
おまけに、アニメ本編の中には回想シーンも出てくるんですけど、赤ん坊の頃のサンの描写は一切ないんですよね。
なので、僕としては「やっぱり、ここには何か語られない理由があるんだろう」と考えちゃうんです。
「いや、女なんだから、産んだ子供には愛情があるはずだ!」と思うかもしれませんが、いやいや、エボシというのは、普通の女ではなく “女・毛沢東” だから、そこら辺はちょっと普通のメンタリティとは違うということも考えられます。
これは、さっきも話したように、共同体全体に厳しい産児制限を敷いているからだと思うんですけども。
「自分たちのリーダーであるエボシ様自身が、大事な自分の子供を捨てた」あるいは「失った」とみんなにわかるようにしていたのなら、あの村の全員が「子供を作ってはいけない」というルールに納得していることにも、筋が通ると思うんですよね。
だって、モロなんかは「エボシを噛み殺すまでは戦いは終わらない」なんて言ってますから、あれはどう見ても “エボシ個人に対する恨み” なんです。
この母娘関係を考えると「いや、捨てられる時に、この子は人間ではないという意味で彫られたんじゃないかな?」と、ちょっと考えちゃうんです。
エボシは「ここに止まり、力を尽くさんか?」と言って、タタラ場で働いてくれるようにアシタカを口説きます。
そして、こう続けるんです。「古い神がいなくなり、森に光が入れば、ここは良い国になる。もののけ姫も人間に戻るだろう」と。
つまり「もののけ姫であるサンがエボシを憎んでいるのは、山犬のモロに憎しみを教えられたからだ」と彼女は考えてるんですね。
だから「モロを始めとした山犬達を殺せば、サンは人の世界に帰って来る」と思っている。
まるで、猫がネズミをいたぶるように戦うんです。
これ、なぜかというと、サンの体力が尽きて倒れるのを待って捕まえようとしているからです。
本当は全然 強いのに、相手にしてない感じなんですよ。
すると、モロも長いまつげの目を開いて、彼女を見る。「ああ、色っぽいオオカミだったんだなあ」というシーンなんですけど。
両者共「もう二度と会えない」とわかっています。
この時に、モロが「お前にはあの若者と生きる道もあるのだが」と言うんです。
でも、モロは、それ以前にアシタカが「サンと共に生きる! あの子は人間だ!」と言った時には、メチャクチャ嘲笑ったんですよね。
「フハハ……。どうやって生きるのだ?」って。
これ、アニメの中で一貫してるんですけど、ほとんど本音を言わないんですよね。
かつて恋人同士の関係だった乙事主というイノシシの神様と再会した時も「少しは話のわかるのが来た」とか、「もはや言葉も失ったか」と言うだけで、自分の内面的な本音というのを、絶対に言わない人なんですよね。
昔、恋人関係だった男女が「ついに言葉もわからぬようになったか」という時の、そんな相手を昔好きだった “自分に対する憐れみ” とか、「少しは話がわかるヤツが来た」と言う時にも、高校生の女の子が彼氏が向こうから来た時に、友達に「あのバカが来たよ」と言うようなニュアンスが、ほんのちょっと入るようになったんです。
でも、こういう大事な設定を、宮崎駿は書かないんですよ。
「モロと乙事主はもともと恋人関係だった」という設定は、もし、このアフレコ現場で宮崎駿が美輪明宏に言わなかったら、そして、それをたまたま日本テレビの取材班が撮影していなかったら、誰にも知られないままだったんです。
この宮崎駿特有の作劇法とか、キャラクターを扱う上での本質については、後半の方で、理由込みで話をしましょう。
エボシのいる世界にサンは帰せない。
なぜかというと、エボシ御前というのは森の破壊者であって、人間の中でも特に悪質な存在だからです。
この映画は「1人の娘を救おうとする2人の母親が、両方から引っ張っている話」と考えると、ものすごくわかりやすくなるんです。
だって、モロとエボシはアシタカに全く同じ台詞を投げかけるんですから。
。
これを見てください。
このシーンでエボシも、嘲笑うモロと全く同じ構図で、アシタカを嘲笑いながら「シシ神殺しをやめて、サムライ殺しをやれというのか?」と詰め寄るんですね。
左右の方向が反対なだけで、全く同じ構図で、同じ意味のことを言っている。
両者のこの台詞は偶然ではあり得ないんですよ。
作劇上、意味もなくこんなことをするはずがないんです。
つまり、自分の娘の生き様を、2人の母親が、その夫となる人物に問いかけているんですね。
それも “反語的な問いかけ” なんです。
アシタカの答えがそうじゃないことを知りながら「そういうふうにしろとでも言うのか?」と聞いている。
これは要するに「お前はどこまでうちの娘のことを考えてんだい?」ということを “怖いお母さん” として聞いているわけですね。
それも、両者とも同じように、嘲笑いながら(笑)。
「母親であると同時に、部族のリーダーでもある」という立場に立っているんです。
やっぱり、最初にも言いました通り、どこにも証拠はないんですけども。
「こう考えると矛盾がない」ということと、あとは、本来、大事な設定なはずの「乙事主とモロは実は恋人関係だった」ということを何も言わずに済ませようとしていた宮崎駿の作劇法から言って、そういう設定が隠してあってもおかしくはない、と。
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