では、ここから『耳をすませば』の解説に入りますね。
『耳をすませば』は、元々は宮崎駿が親戚の持っている信州の別荘でゴロゴロしていたときに、親戚の女の子が忘れていった『りぼん』という少女雑誌を、何もする事が無いので読んでいた時から始まります。
その時に押井守とか、庵野秀明とか、いろんな人が別荘に来て、そこで宮崎駿はみんなに議論を吹っかけたそうなんですね。
「これをアニメに出来るか?」と。
というか、「根本的に “少女マンガ” というのはアニメになるのか?」と言ったんですよ。
すごい事を言いますよね。
つまり、『キャンディキャンディ』とか『魔女っ子メグちゃん』とか、延々とある少女アニメの歴史を宮崎駿は まったく認めてないんですよ(笑)。
「あれは少女アニメではない」と。
「少女マンガをアニメにしていなくて、ただ単に手塚治虫 的に少年マンガをアニメにするのと同じ文法で作っている」と。
「そうじゃなくて少女マンガの文法自体をアニメに持ち込めるのか?」という事です。
どういう事かっていうと、宮崎駿にとっての “少女マンガ” っていうのは、これは企画書にも書いてあるんですけども “甘ったるいウソの世界” なんですね。
それで、そういう “甘ったるいウソでないと描けない純粋な気持ち” っていうのがあると。
そこが少女マンガの凄い所だと。
それで、そういう “甘ったるいウソを使わないと描けない純粋な気持ち” っていうのを描く。
その部分は、やるに値する仕事だろう。
そう考えて、宮崎駿が「これは出来るのか?」と考えてコンテを切って作ったのが『耳をすませば』です。
その頃の宮崎駿は、自分がプロデューサーをやったり、自分が絵コンテと脚本をやったりする事で、「もっと身近にいる若手にチャンスを与えよう」と思って近藤喜文さんを監督にしたわけですね。
それで「リアルで “甘ったるいウソ” っていうのをどうやって成立させるのか?」っていうと、徹底的にリアリズムを描いてやっていこうと。
徹底的にリアルな日常描写を重ねる事によって、その “甘ったるいウソ” というのを作っていこうと。
それで冒頭の猛烈にリアルな表現を描いたんですね。
これは高畑勲が作った『おもひでぽろぽろ』に対する対抗意識がもう溢れまくってるんですけども。
という事で、「『耳をすませば』のオープニングは、どんなふうに出来ているのか?」というのを解説したいと思います。
・・・
これは「カントリィ~ロ~ド♪」というところで始まる『耳をすませば』のオープニングです。
夜景の町が現れます。
この夜景の中で、点々と光だけが明滅しているのがメチャクチャきれいです。
その中で、タイトルの下側を細~い電車が走ります。
まぁ、大きく動いているのがこの電車だけなので、すごい目を引くんですね。
この電車にひたすら主観を当てるというか、目を追わせる事によって “お話” を作っているんですね。
まず大東京の夜景が現れて、超高空から、高い空から見ていて、電車だけが動いているんですね。
それで次にわりと大きめのターミナル駅が現れて、ちょっと分かりにくいですけども、細~い電車がカーブを描きながらターミナル駅の中に入っていくんですね。
だから動くものが ほとんど この電車だけなので、この電車の方へ見ている人の目が吸い込まれていく。
「あ、この電車が止まる事で “お話” が始まるんだな」というふうに思わせる。
それで、段々とカメラの高度が下がります。
見てください。
もう本当に高度千何百メートルぐらいから見ているところから、何百メートルにまで、ビルの一つ一つが分かる所まで高度が下りてきて、次に高度が100メートルぐらいの所まで下りてきます。
それで分かりにくいですけども、右側の電車が駅に入ってきて、真ん中の位置まで来ています。
それで電車がキーッと止まるんですね。
僕は最初見たときに、ここで電車が止まったから「あ、やっとここでお話が始まるのかな」と思ったら、ここでも全然お話が始まらなくて、この電車がもう一回また発車しちゃうんですよね。
それでこの自動車が通るカーブの遥か向こうにビル街が見えていて、そこにかすかに電車が見えていて、またこの電車が動き出すんですね。
つまり、ターミナル駅を、大東京を見せて、その中でちょっと田舎のターミナル駅が見えて、そこに電車が止まったんですけども、さらにそこを電車は出て、このビル街が無い所へ。
もっともっと寂しくて暗い所に、郊外の田舎へと電車が向かって行くと。
そうすると次に、映画の中にも出てくる “地球屋” というアンティークショップのベランダが映り、そのベランダでお爺さんが息をついて見てると、そのベランダの手すりの向こうに、さっきの電車がスーッと走ってる。
カメラはどんどん田舎に行って、高度を下げながら電車をひたすら追っています。
それでやっと電車は止まります。
ついにカメラが地面に来ました。
踏切があって、女の人が踏切が開くのを待っている。
電車が ゆ~くりと停車して、駅に止まる。
駅に止まって、車掌がいるドアが先に開いて、そのあとで客席のドアが開くと。
すごい丁寧な作画なんです。
この女の人が電車が通り過ぎる時に、ほんの少しだけ首を曲げていると。
視線を送っている。
この辺りの演技が、すごい細かいですね。
もう地面の方に、かなりカメラが下りて来ているんですね。
それで、ここでようやくお話の舞台になって、この電車が止まってですね。
手前が駅です。
今 止まった電車から、駅から人がワーッと降りて来るんですね。
だからずっと大俯瞰で、高度千メートルぐらいから見ている大東京から、電車の動きをずーっと追いかけて、その電車がずーっと田舎に行って。
やっと踏切があるような小さい駅に止まったかと思うと、そこから人がワーッと溢れてきて、その奥にファミリーマートが見える。
もう実在のコンビニがハッキリ見えて、そこへ向かって人が溢れて行くと。
そうすると、そのファミリーマートの中に主人公の月島雫が無表情でいて、牛乳パック一つを買って、このファミリーマートの自動ドアから出てくる。
ようやっと ここで主人公が登場なんですね。
あの宮崎駿のアニメの劇的な主人公の登場の仕方ではなくて、すごく抑えた登場なんです。
はるか空の上からカメラがずーっと下りてきて、この地上の踏み切りの横の駅の前のファミリーマートへ みんなが入っていく中で、一人このファミリーマートから出てくる主人公っていう事でキャラを立てています。
・・・
鈴木敏夫とか高畑勲が、この『耳をすませば』のムック本で語ってるんですね。
「宮崎駿 抜きで、宮崎アニメが出来るかどうかの実験作だった」と「壮大な実験であった」と「それは成功であった」と。
『ジブリの教科書』の中で鈴木敏夫は、「宮崎 抜きでも宮崎アニメが出来るという実験が成功した事が、良い事なのか悪い事なのか、いまだに分からない」と言ってるんですけども。
だけど宮崎駿 自体の、このアニメに対する痕跡はいくつも残っています。
たとえばこれは宮崎駿は自分のアニメでは あんまり やらない事なんですけども。
これは本当に最後の方のシーンです。
雫が初めて書いた小説を地球屋のお爺さんに見せて、恥ずかしがるシーンですね。
お爺さんは「これは素晴らしいよ」と言ったんですけども、雫は「そんなのダメです! 私、恥ずかしい!」ってムチャクチャ恥ずかしがる。
その恥ずかしいものを見せた後、体が冷えてしまったので二人で鍋焼きうどんを食べるシーンがあるんですけども、ぶっちゃけこのシーンがめちゃくちゃエロいんですよ。
というのは、裸を見られるより恥ずかしいものを、生まれて初めて宮崎駿の分身のようなお爺さんに見せるわけですよね。
その後、男女の営みの後のように、暖炉の火の前で鍋焼きうどんをすするというシーンがね。
このシーンだけが、このアニメの中でめちゃくちゃエロい匂いがしていてですね、「あぁ、ここで宮崎駿をちょっと出しちゃったな」と思ったんですけども。
この手のエロの自然な出し方が、宮崎駿はめちゃくちゃ上手いんですね。