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堺雅人主演のNHK大河ドラマ『真田丸』。8月28日に放送された第34話では、人気俳優・哀川翔が演じる豊臣家晩期の重臣・後藤基次(又兵衛)が、石田三成(山本耕史)を討たんと乗り込んできた加藤清正(新井浩文)らの諸将ともに登場した。後藤は、信繁(堺)と初対面し、ひと目でその好人物ぶりを気に入った様子を見せていたが、そんな彼は、同番組の名物・有働由美子アナのナレーションでも紹介されたように、今後、信繁と共に豊臣家における最後の大戦で活躍する重要な人物である。
講談や軍記物など、後の創作物で希代の豪傑として描かれている後藤だが、史料にはっきりと登場するのは、秀吉による九州征伐が行われた1580年代半ばのことで、実はそれより前の人生については、あまり明らかとなっていない。
後藤家の次男として永禄3(1560)年に生まれたとされる基次。後藤家は、播磨・別所氏および小寺氏(後に黒田官兵衛・長政親子を輩出した黒田家の祖)の家臣として知られるが、1578年、織田家内で起きた内紛の最中、荒木村重が黒田孝高を監禁する事件が起きると、主家である黒田家の家臣一同が記した署名を基次の親族が拒否したことで騒動となり、一族の面々と共に追放された。
その後、基次が台頭するのは、秀吉による九州討伐の局面だ。この頃、彼は、黒田家の家老をつとめていた栗山利安の与力として、たった100石で召し抱えられていた。追放からの事実上の帰参という点を考慮しても、名のある武将をこれほど小さな禄で抱えることは考えにくいため、おそらく基次は、三十路半ばを過ぎるまでは、さほど華々しい活躍を見せることがなかった、もしくは成功を収めても、正当な評価が得られていなかったのではないか。しかし、基次は、気持ちを新たに再び黒田家に仕えるようになると、九州征伐のほか、朝鮮の役で相次いで武功を上げるなど、目覚しい活躍を見せるようになる。そんな活躍を考えれば、ある意味、"遅咲きの花"とも言うべきタイプの武将であるだろう(なお、そんな後藤を演じる哀川が、「一世風靡」のメンバーとしてではなく、俳優としてVシネマに起用され、後に「Vシネの帝王」の異名をとるまでに活躍、そこからさらにバラエティなど、多方面での活躍を見せるようになった90~00年代、の時期の後藤と同様に三十路過ぎ)。
しかし、黒田家随一の猛将として名を馳せながらも、当主である黒田官兵衛の嫡男・長政には「謀反人」として睨まれ続け、ことあるごとに衝突を繰り返すようになる。この確執(というよりは、一方的に長政が睨み、邪険にしたと見るべきである)は、官兵衛の没後、長政が黒田家の当主となった後の慶長11(1606)年、ついに、基次が一族を引き連れて黒田家から出奔するという前代未聞の騒動につながっていく。関ヶ原の合戦以降、基次は、武功を称えられ大隈城(益富城)1万6000石を有するまでに大出世していたが、それらをすべてうち捨てての"バックレ"であったわけである。無論、このことに対して長政は激怒。剛勇で知られる基次を、各地の諸大名が召し抱えようとすることを想定し、「彼を採用しないように」と「奉公構」というお触れを出すことで、彼の"再就職"を妨げる圧力をかけた。
無論、基次からすれば、自分なりの筋を通した身の処し方であったのだと思うが、こうした無骨な、ある意味、「男が惚れる男の生き様」的な人生は、多くのファンから「アニキ」と慕われ愛される哀川が、これまで数多くの作品で演じてきた魅力溢れるキャラクターと、どこか重なって見える部分である。そして、そんな多くの哀川キャラたちと同様、史実における基次には、なんとも悲劇的な最期が待ち受けていた。
長政の圧力が影響し、浪人生活を送っていた基次は、慶長19(1614)年、大野治長に招かれ大阪城入りすると、ブランクを感じさせぬ見事な采配をいきなり披露し、「摩利支天の再来」と称賛されるまでにカリスマ化していく。この頃、基次と同様、豊臣方には多くの名のある武将たちが招かれていたが、その中でもとりわけ武勇に優れ、にもかかわらず不釣り合いな苦労人生を送ってきた基次の人望は篤く、豊臣方の諸将にとって、まさに「アニキ」的な存在となっていたのだ。
慶長20(1615)年に起きた大阪夏の陣においては、明らかに兵力で劣るとわかっていながらも、その期待ゆえからなのか、伊達政宗や松平忠輝らが率いる徳川方の軍勢、約3万5000を迎撃するという重要な役割を担うことになる。兵力差こそあれど、そこは戦上手で知られる「豊臣方のアニキ」基次。彼が序盤から健闘を見せることで、一気に全体の流れを変えさせる可能性は十分にあった。しかも、その戦闘を支えるのは、彼を慕い、彼からも愛されたかわいい弟分でもある毛利勝永(『真田丸』では岡本健一が演じる)&真田信繁らの面々。誰もが「アニキ」率いる豊臣方の善戦を確信していたのである。
しかし、結論から言ってしまうと、この時もまた、天は基次に味方することはなかった。実は不運にもその日は濃霧に包まれており、基次らが率いる約6400の先行隊と合流する予定であった勝永、信繁らが率いる約12000の後発隊が合流できず、基次は徳川方の大軍から袋叩きにも近い状況で攻撃されることとなってしまったのだ。しかしそれでも基次は、10倍以上もの兵力差を物ともせずに奮戦。明らかに生還することは難しいと知りながらも、少しでも流れを豊臣方に引き寄せようと、乱軍の中で決死の突撃を繰り返す。いくら敵を倒し続けても、次から次へと新手が押し寄せてくるという状況で、基次は、なんとか奇跡的に数時間もの間持ちこたえることに成功したものの、戦況そのものを大きく変えることはできず、無念の最期を遂げることとなってしまった。
致し方ない理由によるものとはいえ、自らの到着が遅れたことで、昵懇の間柄であった後藤を死に追いやったことを知った真田信繁は、そのことをおおいに悔やみ、すぐさま半ばヤケクソの突撃をして、基次の後を追おうとしたほどであったという。それほどまでに「アニキ・基次」の死は、信繁にとっても、豊臣家にとってもあまりに痛すぎる、そして早すぎるものであったのだろう。そんな、ある意味、「Vシネ」的な男たちの絆を、哀川らがどう好演することとなるのか、年末に向かって是非とも注目したいところである。
文・興津庄蔵
■『真田丸』公式サイト
http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/
■『真田丸』Facebook
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