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ハリウッドに住む有力者の友達から届いたオバマ大統領へのメッセージはこのようなものだ:あなたはアメリカの大統領だ。もの凄い権力を与えられたのだ。
さあ今、それを行使してくれ。
それは、映画『リンカーン』に込められた最低限のメッセージだと思われる。この映画は、奴隷解放に関する憲法改正案を可決させるために、合衆国下院という田舎者、狂信者、泥棒たちの集団を説得した第16代大統領リンカーンの政治活動を、スティーブン・スピルバーグ監督がその驚くべき精緻な考証によって描いたものである。リンカーン率いる共和党は、政敵である民主党よりも議席数で勝っており、過半数を占めていた。しかし、憲法改正には3分の2以上の賛成が必要である。だからリンカーンが直面した試練というのは、共和党議員の結束を保ち続けることと、政敵側から約20票を獲得することだった。このような状況の下で、政治的な力による支配が始まったのである。
この話に聞き覚えがあるとしたら、それは実際にそうだからだ。テレビドラマ『エンジェル・イン・アメリカ』の作者であるトニー・クシュナーが書き下ろしたゴージャスかつ史実に忠実な脚本による映画『リンカーン』は今を逃しては作り得なかった、と考えるのは理に叶っている。行政側と立法側の抜き差しならない行き詰まりは、過去4年間を象徴する現象である。映画『リンカーン』はこれを如実に表現しており、他の大衆エンターテイメントでそれを表現したものはない。
またこの映画は、凋落してゆくようにみえるアメリカが、良きにつけ悪しきにつけ、現在に始まったことではなく、いつもそうであったということを聴衆に教えてくれる。過度の愛党心が芽生えてきている現状を、我々は嘆くかもしれない。しかし無作法であることは、議会の長い伝統である。少なくとも現在は、共和党寄りと民主党寄りの州同士は死闘を繰り広げていない。
スピルバーグによるこの映画はまた、厳しい状況では偉業を成し遂げられない、という言い訳が出来ないことも示している。リンカーンを取り巻く人々は口々に、奴隷廃止に関する憲法改正は呪われており、それを試みることはリンカーンの貴重な政治資産を食いつぶしてゆくものだと警告した。しかし、リンカーンは歴史の流れを見続けると同時に、行動を起こすべき時期を窺っていた。その時期は、1864年の冬に訪れた。リンカーンは再選を楽々と果たした。しかし、下院の63人の民主党議員は落選してしまったため、彼らは単に現職満了までの任期だけが残っているという立場に陥ってしまった。これによって彼らは、憲法改正に賛成すれば恩恵的な役職に在任中にありつける、という誘いを断りづらい状況に置かれてしまったのである。一方、何百万人もの北部の白人が奴隷制に反対していた。これはリンカーンが、奴隷廃止が戦争終結の前提条件であると彼らに言っておいたからである。資金と人材に枯渇した南部連合軍が、奴隷制を合法にするという条項を破棄することに賛成した時、リンカーンは思った。この人道的に穢れたアメリカを再生させたいなら、迅速に行動しなくてはならないと。
私は映画『リンカーン』を観る前、封切りを大統領選挙の後まで延期したドリームワークス社とフォックス社は用心深すぎる、と私は思っていた。しかし今、封切りのタイミングは完璧だったと思っている。(もしミット・ロムニーが大統領になっていたら、映画の感想は全く違ったものになっていただろうが。)大統領選挙に先週勝ったばかりの背が高くて人当りの良い弁護士は、手堅く政局を運営してゆくか、それとも環境変化、麻薬戦争、同性愛者同士の結婚といった問題に取り組んで歴史に名を刻もうとするかの選択をすることになるだろう。ちょうど過去にリンカーンがそうしたようにね。(同性愛者同士の結婚の問題は、偶然にもドリームワークス者の創始者の一人であるデビッド・ゲフィンが関わっている訴訟でもある。)
もちろん、勇気と想像力だけでは足りない。映画の中のあるシーンで、リンカーンの妻メアリー(サリー・フィールドによって演じられた)は夫に向かい、国務長官の陰に隠れるのを止めて、憲法改正に必要な票の確保をするために自分自身が泥臭い努力を始めるようにと忠告している。強大な権力を自分に与えられたことについて、リンカーンは実際に次のように述べている:私は大統領だ。大統領は顧問たちを怒鳴りつけてもいいのだ。とにかく私は、その忌々しい票が欲しいのだ!
このシーンはオバマ大統領を観察し続ける者にとって、特に共感できるものである。第44代大統領は、議会のごちゃごちゃ言い争う奴らと自分との距離を置き過ぎたことについて非難を浴びている。行政側の歴史的快挙と言える健康保険改正法を可決させようとしていた時でさえ、オバマ大統領は側近のチーフであるラム・エマニュエルに票固めをやらせることについて概ね満足していた。エイブラハム・リンカーンはまるで狭い屋根裏に入り込むかのようにして、任期切れを待つのみとなった民主党代議士に対して揺り動かし工作を行う口達者な賄賂ペテン師たちを、自分自身で監督した。その姿を見ればおそらくオバマ大統領は、リンドン・ジョンソン大統領ばりの少々手荒な対応をティーパーティー派の共和党議員の一人や二人にちょっとしたぐらいでは自分のイメージはそんなに悪くならない、と思うだろう。
リンカーンという存在は、それ自体、自由主義の大いなる夢というものである。そのような夢は、オバマ大統領が(今までよりも)もっとリンカーンらしくなった時にのみ達成できるだろう。しかし、その夢は同時に、左派議員全員に届くメッセージを有している。急進的な下院議員であったタデウス・スティーブンスを演ずるトニー・リーに対する素晴らしいスピーチの中で、ダニエル・デイ−ルイスの演ずるリンカーンは次のように説明した。コンパスは真北を示すことが出来るが、君の目的地と君との間にある障害物については何も知らせてくれない。もし君が真北を目指して、その結果、沼にはまってしまったら、君は良いことを誰にもしてあげれない。奴隷廃止のみならず、白人系アメリカ人に課せられた過酷な戦争賠償金に対しても我慢がならなかったスティーブンスへ送ったリンカーンのこのメッセージは、ネット上の多くのブロガーが覚えておくべきものだろう:政治とは、物事の達成を目的とするものである。我々は倫理的な潔癖さを求めるあまり、物事の進歩を阻害してはならない。
オバマ大統領がこの映画を観てくれると私は期待するのみである。そうなったとき、彼が自分の正しさを幾つかの点において主張するかどうかは、私には分からない。繰り返しになるが、リンカーンは顧問からの批判に耳を傾けたが、その後、それを全く忘れ去るようにした。そして一日の終わりには、リンカーンは彼自身で意思決定を行った。これが如何に重責であったかを、映画『リンカーン』はとても良く描写している。60万人の命の重みが君一人の意思に掛かっていることを想像してみて欲しい。そしてこの重責は明らかに、他のジャーナリスト、映画脚本家、監督や役者が完全に理解することができないものである。少なくともこの映画が示すところによれば、リンカーンは自分がしなくてはならないことは、殆ど自分だけでやり遂げた。記者会見は無かったし、寄付金集めの電話も掛ける必要は無かった。24時間ひっきりなしに続く報道メディアに対して、リンカーンは返答する必要もなかったのである。
我々は時間を戻すことは出来ないし、物事が単純だった時代に遡ることも出来ない。しかし、国というレベルに於いても、本質的かつ永続的な改革を生じさせる力を我々個人が持っていることを、我々自身に想起させることは可能である。これから何世代にも渡って継承されてゆく改革というものを。たぶん、永久に引き継がれてゆく改革さえも。アメリカ合衆国憲法修正第13条は、殆どのアメリカ人が唯一の国家的偉業であると認めるものであり、誰もが誇りに思っているものである。リンカーンによれば、憲法修正第13条は、卓越した先見性と影響力をもった一人の男が今後二度と起こりえないと思われる機会をものにすべく、激流に逆らって泳いだために得られたものである。
もし、極めて重要なメッセージが今の大統領に対してあるとしたら、それは次のようなものだ:それはあなたの大統領執務室だ。あなたの国だ。我々国民が誇りに思えるようなことを、何かやってくれ。我々の子供たちが、そのまた子供の子供たちが誇りに思えることをやり遂げてくれ。もし我々が、それに値しないとしても。
(原文:Is 'Lincoln' A Memo To Obama From Liberal Hollywood?)
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マイケル・ホーガン
Huffington Post エンターテインメント・エグゼクティブエディター
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さあ今、それを行使してくれ。
それは、映画『リンカーン』に込められた最低限のメッセージだと思われる。この映画は、奴隷解放に関する憲法改正案を可決させるために、合衆国下院という田舎者、狂信者、泥棒たちの集団を説得した第16代大統領リンカーンの政治活動を、スティーブン・スピルバーグ監督がその驚くべき精緻な考証によって描いたものである。リンカーン率いる共和党は、政敵である民主党よりも議席数で勝っており、過半数を占めていた。しかし、憲法改正には3分の2以上の賛成が必要である。だからリンカーンが直面した試練というのは、共和党議員の結束を保ち続けることと、政敵側から約20票を獲得することだった。このような状況の下で、政治的な力による支配が始まったのである。
この話に聞き覚えがあるとしたら、それは実際にそうだからだ。テレビドラマ『エンジェル・イン・アメリカ』の作者であるトニー・クシュナーが書き下ろしたゴージャスかつ史実に忠実な脚本による映画『リンカーン』は今を逃しては作り得なかった、と考えるのは理に叶っている。行政側と立法側の抜き差しならない行き詰まりは、過去4年間を象徴する現象である。映画『リンカーン』はこれを如実に表現しており、他の大衆エンターテイメントでそれを表現したものはない。
またこの映画は、凋落してゆくようにみえるアメリカが、良きにつけ悪しきにつけ、現在に始まったことではなく、いつもそうであったということを聴衆に教えてくれる。過度の愛党心が芽生えてきている現状を、我々は嘆くかもしれない。しかし無作法であることは、議会の長い伝統である。少なくとも現在は、共和党寄りと民主党寄りの州同士は死闘を繰り広げていない。
スピルバーグによるこの映画はまた、厳しい状況では偉業を成し遂げられない、という言い訳が出来ないことも示している。リンカーンを取り巻く人々は口々に、奴隷廃止に関する憲法改正は呪われており、それを試みることはリンカーンの貴重な政治資産を食いつぶしてゆくものだと警告した。しかし、リンカーンは歴史の流れを見続けると同時に、行動を起こすべき時期を窺っていた。その時期は、1864年の冬に訪れた。リンカーンは再選を楽々と果たした。しかし、下院の63人の民主党議員は落選してしまったため、彼らは単に現職満了までの任期だけが残っているという立場に陥ってしまった。これによって彼らは、憲法改正に賛成すれば恩恵的な役職に在任中にありつける、という誘いを断りづらい状況に置かれてしまったのである。一方、何百万人もの北部の白人が奴隷制に反対していた。これはリンカーンが、奴隷廃止が戦争終結の前提条件であると彼らに言っておいたからである。資金と人材に枯渇した南部連合軍が、奴隷制を合法にするという条項を破棄することに賛成した時、リンカーンは思った。この人道的に穢れたアメリカを再生させたいなら、迅速に行動しなくてはならないと。
私は映画『リンカーン』を観る前、封切りを大統領選挙の後まで延期したドリームワークス社とフォックス社は用心深すぎる、と私は思っていた。しかし今、封切りのタイミングは完璧だったと思っている。(もしミット・ロムニーが大統領になっていたら、映画の感想は全く違ったものになっていただろうが。)大統領選挙に先週勝ったばかりの背が高くて人当りの良い弁護士は、手堅く政局を運営してゆくか、それとも環境変化、麻薬戦争、同性愛者同士の結婚といった問題に取り組んで歴史に名を刻もうとするかの選択をすることになるだろう。ちょうど過去にリンカーンがそうしたようにね。(同性愛者同士の結婚の問題は、偶然にもドリームワークス者の創始者の一人であるデビッド・ゲフィンが関わっている訴訟でもある。)
もちろん、勇気と想像力だけでは足りない。映画の中のあるシーンで、リンカーンの妻メアリー(サリー・フィールドによって演じられた)は夫に向かい、国務長官の陰に隠れるのを止めて、憲法改正に必要な票の確保をするために自分自身が泥臭い努力を始めるようにと忠告している。強大な権力を自分に与えられたことについて、リンカーンは実際に次のように述べている:私は大統領だ。大統領は顧問たちを怒鳴りつけてもいいのだ。とにかく私は、その忌々しい票が欲しいのだ!
このシーンはオバマ大統領を観察し続ける者にとって、特に共感できるものである。第44代大統領は、議会のごちゃごちゃ言い争う奴らと自分との距離を置き過ぎたことについて非難を浴びている。行政側の歴史的快挙と言える健康保険改正法を可決させようとしていた時でさえ、オバマ大統領は側近のチーフであるラム・エマニュエルに票固めをやらせることについて概ね満足していた。エイブラハム・リンカーンはまるで狭い屋根裏に入り込むかのようにして、任期切れを待つのみとなった民主党代議士に対して揺り動かし工作を行う口達者な賄賂ペテン師たちを、自分自身で監督した。その姿を見ればおそらくオバマ大統領は、リンドン・ジョンソン大統領ばりの少々手荒な対応をティーパーティー派の共和党議員の一人や二人にちょっとしたぐらいでは自分のイメージはそんなに悪くならない、と思うだろう。
リンカーンという存在は、それ自体、自由主義の大いなる夢というものである。そのような夢は、オバマ大統領が(今までよりも)もっとリンカーンらしくなった時にのみ達成できるだろう。しかし、その夢は同時に、左派議員全員に届くメッセージを有している。急進的な下院議員であったタデウス・スティーブンスを演ずるトニー・リーに対する素晴らしいスピーチの中で、ダニエル・デイ−ルイスの演ずるリンカーンは次のように説明した。コンパスは真北を示すことが出来るが、君の目的地と君との間にある障害物については何も知らせてくれない。もし君が真北を目指して、その結果、沼にはまってしまったら、君は良いことを誰にもしてあげれない。奴隷廃止のみならず、白人系アメリカ人に課せられた過酷な戦争賠償金に対しても我慢がならなかったスティーブンスへ送ったリンカーンのこのメッセージは、ネット上の多くのブロガーが覚えておくべきものだろう:政治とは、物事の達成を目的とするものである。我々は倫理的な潔癖さを求めるあまり、物事の進歩を阻害してはならない。
オバマ大統領がこの映画を観てくれると私は期待するのみである。そうなったとき、彼が自分の正しさを幾つかの点において主張するかどうかは、私には分からない。繰り返しになるが、リンカーンは顧問からの批判に耳を傾けたが、その後、それを全く忘れ去るようにした。そして一日の終わりには、リンカーンは彼自身で意思決定を行った。これが如何に重責であったかを、映画『リンカーン』はとても良く描写している。60万人の命の重みが君一人の意思に掛かっていることを想像してみて欲しい。そしてこの重責は明らかに、他のジャーナリスト、映画脚本家、監督や役者が完全に理解することができないものである。少なくともこの映画が示すところによれば、リンカーンは自分がしなくてはならないことは、殆ど自分だけでやり遂げた。記者会見は無かったし、寄付金集めの電話も掛ける必要は無かった。24時間ひっきりなしに続く報道メディアに対して、リンカーンは返答する必要もなかったのである。
我々は時間を戻すことは出来ないし、物事が単純だった時代に遡ることも出来ない。しかし、国というレベルに於いても、本質的かつ永続的な改革を生じさせる力を我々個人が持っていることを、我々自身に想起させることは可能である。これから何世代にも渡って継承されてゆく改革というものを。たぶん、永久に引き継がれてゆく改革さえも。アメリカ合衆国憲法修正第13条は、殆どのアメリカ人が唯一の国家的偉業であると認めるものであり、誰もが誇りに思っているものである。リンカーンによれば、憲法修正第13条は、卓越した先見性と影響力をもった一人の男が今後二度と起こりえないと思われる機会をものにすべく、激流に逆らって泳いだために得られたものである。
もし、極めて重要なメッセージが今の大統領に対してあるとしたら、それは次のようなものだ:それはあなたの大統領執務室だ。あなたの国だ。我々国民が誇りに思えるようなことを、何かやってくれ。我々の子供たちが、そのまた子供の子供たちが誇りに思えることをやり遂げてくれ。もし我々が、それに値しないとしても。
(原文:Is 'Lincoln' A Memo To Obama From Liberal Hollywood?)
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マイケル・ホーガン
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