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今週のお題…………「格闘技とテレビ」
文◎山田英司(『BUDO-RA BOOKS』編集長)……………火曜日担当
出版界が不況だという声を良く聞くが、それ以上の苦境に立っているのが、テレビ業界かもしれない。地上波におけるフジテレビの凋落に象徴されるように、今、テレビマンは何を作ったら視聴率を取れるのか完全にわからなくなっている。これは、テレビマンの力量が落ちたというよりも、タダで見られる地上波の構造的な問題だと思う。
ビデオリサーチができた62年からの歴代視聴率ベストテンを見ると、一般の番組の中に格闘技関係がいくつか入っている。まず、4位が力道山対デストロイヤー。そして5位と8位がファイティング原田の防衛戦。5位は黄金のバンタム、エデル・ジョフレとの防衛戦で63.7パーセント。8位はアラン・ラドキンとの防衛戦で60.4パーセントだ。
力道山が、戦後、外人レスラーを空手チョップでなぎ倒し、日本人の外人コンプレックスに訴えかけてヒーロー役を演じたことは良く知られている。これはまあ、プロレスだから実現できたのだが、5位と8位の原田とは意味が違う。
今のようにボクシング団体が複数なく、階級も8つしかない時代。バンタム級には黄金のバンタムと異名を取るパウンドフォーパウンドでも1位に輝くエデル・ジョフレがいた。65年5月、その偉大なチャンピオンを22歳の原田が破ったのである。この時のテレビ視聴率も54.9パーセントだから凄い。しかし、当時は誰も原田が勝つことは予想していなかった。もちろん、この時点で原田はフライ級の世界王座をポーン・キングピッチから奪い、白井義男に次いで日本人二人目の世界王者になっていたので知名度はある。しかし、二回級目のバンタムは難しいと思われていた。今より階級間の体重差があり、複数階級の制覇は難しい。さらに、ジョフレは原田が挑む時点で50戦無敗。世界王座も8連続KOで防衛中。どう見ても勝ち目がない。しかし、原田は勝った。その勝ち方が極めて日本人好みだったのだ。
鉄壁の防御とフォロースルーの効いたパンチでKOを量産していたチャンピオンに穴はないと思われていた。原田は技術もパンチ力も経験も、チャンピオンに劣っていた。勝っていたのは若さとスタミナ。そして闘志だけだった。原田はリング上を常にフットワークを使い、的を絞らせずに、ここぞと思ったら飛びこむ。そして攻め始めたら手を止めない。そのラッシュの凄さはアメリカのボクシング誌が狂った風車となずけたほどだ。このニックネームを聞くと、格闘技ファンはラモン・デッカーを思い浮かべるかもしれないが、もともとはファイティング原田に付けられたものだ。
不器用だが、根性がある。猛練習と過酷な減量に耐え、人気者になってもジムの合宿所に寝泊まりし、ストイックにボクシングに打ちこむ。金には執着せず、ボクシングに求道者のように取り組む。日本人の大好きなキャラであり、その後の梶原一騎の主役キャラそのものであった。そのキャラを生かして不器用に戦うが、最後には根性で勝つ。まさにその時代が理想とする日本人の姿だった。
原田がジョフレに挑んだ65年は東京オリンピックがおわり、第2期高度経済成長期の真っ只中。世界からエコノミックアニマルだの、メイドインジャパンだの、ノーキョーだのバカにされながらも、ひたすら人より多く働いて、成長するしかない、と日本中が思っていた。だから人々は原田に感情移入し、66年のジョフレとの再戦もラドキンとの防衛戦も食い入るようにテレビ画面を見た。それが先ほどの結果だ。
そして第2期高度経済成長が終わりに近づく、70年、原田もグローブを置く。
スポーツや格闘技は感情移入がしやすいが、原田がいた時代、日本人は原田を通して自分達の理想の分身をテレビ画面で見ることができたのは幸せだったのかもしれない。
なぜなら、今日のテレビ画面を見てもそんなヒーローは一人も見つけることはできない。
価値の多様化と言えば聞こえはいいが、日本人共通の理想像など、今日では描きようがない。
そう、テレビには映すものが無くなってしまったのだ。そのことを一番良く知っているのはテレビマンなのだが、その寿命を少しでも永らえる為、カメラは毎日空疎なお笑い芸人を映し続けている。
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