今月1日、集団的自衛権の行使容認が閣議決定された。早速、僕はその文書、「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」を読んでみた。

読んでみて最初に感じたことは、「あんなに大騒ぎをしてまで、解釈改憲で集団的自衛権行使の容認、という閣議決定をする意味があったのだろうか」ということだ。公明党が強く反対をしたため、政府・自民党は大きく妥協。さまざまな条件をつけるなどして、当初の案を大幅に変更した。その結果なのだろう。できあがったものは、「個別的自衛権」で十分やれるのではないか、という内容なのだ。その文書を一部、引用してみよう。

「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断する」

よく読んでみてほしい。「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」なのだ。それなら、個別的自衛権で十分に対応できるはずではないか。

それなのに、なぜ安倍首相は「集団的自衛権の行使容認」にこだわったのだろうか。簡単に言えば、「これまでの日本とは変わったのだ」というシンボルが、安倍さんはほしかったのではないか。僕はそう考える。つまりは、安倍さんが言うところの、「戦後レジームからの脱却」のひとつなのだ。とはいえ今回の議論が、結果的に国民が安全保障について考える契機になったことは間違いない。