#32
2015年3月6日号
編集長:東浩紀 発行:ゲンロン
ゲンロン観光地化メルマガ3月6日号(#32)をお届けします。
まもなくあの震災から4年の年月が経とうとしています。前回の東浩紀の巻頭言「観光地化計画が行く」では、震災の記憶の風化の問題が扱われていました。小松理虔さんは、そのなかの「双葉のひとたちは、もっと怒っていいと思う。否、より正確に言えば、もっと怒りをオープンに、パブリックに表明していいと思う」という言葉が引っかかっていたと言います。今号の「浜通り通信」では、いわきの小松さんによる東の呼びかけへの応答がなされています。小松さんはいま、「怒り」の表明についてどう考えているのでしょうか。
セルゲイ・ミールヌイさんの「チェルノブイリの勝者」はチェルノブイリの「ゾーン」の区分けの話。福島では避難区域の再編などが行われていますが、チェルノブイリではどのように避難区域の策定がなされ、そこで働く作業員はそれをどう見ていたのか、災害の歴史の先人に学ぶことは少なくありません。
黒瀬陽平さんの「311後の東北アート」は、いわきの「もりたか屋」で開催したアートイベントの写真レポート、そして弊社徳久倫康による柏崎刈羽原発取材レポートでは、ついに格納容器のなかに入ります。
記憶の風化にはどうやって抗うことができるのか。ゲンロン観光地化メルマガと共に考えてみませんか。
目次
- 観光地化計画が行く #32 東浩紀
- 柏崎刈羽原発取材レポート #3 徳久倫康
- 浜通り通信 #21 ぼくたちはいかにして怒りを発するべきか 小松理虔
- 311後の東北アート #21 黒瀬陽平
- チェルノブイリの勝者〜放射能偵察小隊長の手記 #25 セルゲイ・ミールヌイ 保坂三四郎訳
- メディア掲載情報
- 関連イベント紹介
- 編集部からのお知らせ
- 編集後記
- 次号予告
観光地化計画が行く #32
東浩紀
@hazuma
前回の巻頭言で、予想以上の速度で原発事故の忘却が進むなか、福島のひとにはもっと怒りを表明してほしいと記した。同じ内容は『朝日新聞』『潮』などでも語っており、予想どおりさまざまな批判に曝されている。しかし同じくらいの支持もいただいており、ぼくとしては語ったことには意味があったと感じている。福島については、なにをどう語っても批判される。開沼博氏の新著(『はじめての福島学』)の帯ではないが、福島について語るのはじつに厄介で「面倒」だ。とくに、被災の当事者ではない「外部」の人間にとっては。それでもみなが黙ってしまえば、それこそ風化は急速に進んでいくので、とりあえず議論を引き起こしただけでも記憶の継承には貢献しているのだと考えることにしている。
ところで、ぼくがそんなふうに「怒り」が大事だと考えるようになった背景には、じつは、最近、三里塚闘争の記録映画や写真集を続けて見たという経験がある。三里塚というのは、あの成田空港建設反対運動の三里塚だ。なにをきっかけに三里塚に興味をもつようになったのか、それはもはや忘れてしまったが、小川紳介の有名な映画(『三里塚の夏』)そのほかをいま見ると、農民たちの強烈な「怒り」の表情が印象に残る。彼らはとにかく怒っている。条件交渉を撥ねつけ、職員に罵声を浴びせ、建設予定地に砦を築き木杭に自らを縛り付けて抵抗する。土地を直接奪われる農夫だけではない、腹の大きな妊婦が、歯の抜けた老婆が、年端のいかない子どもたちまでもがスクラムを組み、機動隊に対峙し空港粉砕を訴えるすがたには、ちょっと虚を突かれるような驚きと感動がある。それは、いまの日本では、沖縄のような例外的な地域を除き、ほとんど見られなくなった光景である。
ぼくはここで、単純に闘争が正しかったと言いたいのではない。強硬な反対派は必ずしも多数ではなかった。全学連が介入し、時を追うごとに過激化し、死者まで出した闘争にはさまざまな批判がある。そもそもあの時期の日本で、新しい巨大な空港がどこかに必要だったのはまちがいないし、建設地がどこに決まったにせよなんらかの軋轢は生じたはずだ。ぼく自身も成田空港は何十回利用したかわからない。
そのような意味では、闘争は別に「正しく」はない。けれども、歴史とはつねに複数の衝突する物語で構成されるものだし、そのような矛盾の記憶なしには、社会は決して豊かにはならないものだ。だからぼくたちは、結局は空港を作って地元にもよかったじゃんという、「後出しジャンケン」的で経済合理的な結果論とは別に、その過程でどのような抵抗があり、軋轢があり、異議申し立てがあったのかということを記憶し続けなければならない。そしてぼくが、三里塚の記録を前にしてあらためて感じたのは、「怒り」や「悲しみ」のような感情の表出こそが、そのような記憶の保持のうえで決定的に重要な役割を果たすのだという素朴な事実である。
三里塚の闘争はすっかり過去のものだ。関係者は高齢となり、時代は変わり、空港も安全に稼働し続け、いまでは思い出されることすらほとんどない。ぼく自身もつい最近まで関心をもっていなかった。実際、いま闘争そのものからなにか教訓を引き出そうと思っても、とくにアクチュアルなことは言えそうにない。昭和生まれのぼくでさえそうなのだから、若い世代にはさらに遠い存在だろう。
けれども、怒りや悲しみといった感情の記録には、そのような冷めた距離感を一気に飛び越える力がある。あの闘争、結局は意味なかったよねという「後出しジャンケン」を超えて、まるでタイムスリップでもしたかのように、あの瞬間、あの場所からもういちど歴史をまったく別の視点で見直すことを促すような、そういう「共感」の力がある。そしてそれは新しい知識や運動の出発点となる。実際にぼくはその彼らの表情から出発し、下総台地の歴史(成田には牧場があった)、戦後日本に帰国した満蒙開拓移民の歴史(三里塚は満州を引き揚げた人々が必死で開拓した土地だった)、高度経済成長期の農業政策と開発計画の矛盾の歴史(突然の空港建設計画がもちあがるまえ、成田では政府はシルクコンビナート構想を打ち出し養蚕業への転換を促していた)について多くの事実を知ることになった。それらは、いまのこの国の成り立ちを理解するうえでとても重要な歴史だけれども、しかし同時に、いまのこの国で普通に生活し、普通に成田空港を利用しているかぎりは、ほとんど出会う必要のない歴史でもある。そんなことを調べたとしても、べつに成田を廃港にできるわけでも、新しい空港が作れるわけでもないからだ。だから、半世紀近く前の、見知らぬ農民たちの「怒り」の記録だけが、ぼくにそんな「無駄」な記憶への出会いの機会を与えてくれた。感情の記録には、そのように、未来の人々の合理性を揺るがす力がある。
合理性は、つねに無駄なことを忘却するように人々に強いる。ぼくたちは毎日、生きるためにどんどん無駄なこと、役に立たないことを忘れていく。だから、ものごとを未来に伝えるためには、未来の人々の合理性を揺るがす仕掛けを作っていく必要がある。きっとそれが、本来の哲学とか文学とかの機能だったのだろうと、最近は考えている。
東浩紀(あずま・ひろき)
1971年生まれ。作家。ゲンロン代表取締役。主著に『動物化するポストモダン』(講談社)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、三島由紀夫賞受賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『弱いつながり』(幻冬舎)等。東京五反田で「ゲンロンカフェ」を営業中。