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石原莞爾と東條英機:その117(2,097字)

奇襲成功直後のラジオ演説で、東條英機が語った言葉をここに書き写してみたい。

「今、宣戦の大詔を拝しまして恐懼感激に耐へず、私、不肖なりと雖も一身を捧げて決死報国唯々皇国を案んじ奉らんとの念願のみであります」
「凡そ勝利の要訣は、必勝の信念を堅持することであります。建国二千六百年、我等は未だ嘗て戦ひに敗れたるを知りません」
「帝国の隆替、東亜の興廃、正に此の一戦に在り。一億国民が一切を挙げて、国に報い国に殉ずるの時は今であります。八紘を一宇と為す皇謨の下に此の儘忠報国の大精神ある限り、英米と雖も何等惧るるに足らないのであります」
「我等は光輝ある祖国の歴史を断じて汚さざると共に、更に栄えある帝国の明日を建設せむことを固く誓ふ」

これらの言葉から分かることがいくつかある。一つは、東條が明治以来の日本が積み上げてきた伝統の「亡霊」に押し潰されそうになっていたこと。1941年の時点で、明治維新
蔦文也は長い間、池田高校の監督として甲子園に行けなかった。1952年に監督になり、1971年にようやく行けたので、丸19年行けなかった。20年目でようやく悲願を達成した。

その間、一つの知られざるドラマがあった。それは「徳島商業の監督にならないか」という誘いがあったことだ。誘った相手は、当時徳島商業の顧問で、文也の恩師である稲原幸雄である。

徳島商業の監督は、その頃は須本憲一がしていた。須本は1926年の生まれで、やっぱり徳商に入って稲原の元で野球をしていた。学年でいうと文也の二つ下であった。だから文也もよく知っている人物だった。しかも1942年、徳商が幻の甲子園で優勝したときの中心選手でもあった。

この後輩の須本が、監督をしてからの文也にとっては因縁の相手となった。稲原は戦後に徳商の監督を辞め、後任には須本を指名する。稲原は文也も可愛がったが、彼の目には文也はそもそも監督の器ではな
人間は何のために生まれてきたのか?

その端的な答えの一つは「土を運ぶため」というものだが、副次的なものとして「頭を使う」ということがある。なぜなら土を運ぶためには頭を使うことが不可欠だからだ。そうして、より良く土を運ぶため、頭は良い方が良い。これが人間の動かしがたい在り方になった。

そこで人間は頭の良さを目指し始めたが、問題が生じた。それは、頭を使い過ぎると体が動かなくなるということだ。いわゆる頭でっかちになって、すぐにいろんな失敗をするようになった。

おかげで以降、人間は「頭と体の統合」ということが種に課せられた宿命となった。この矛盾した命題を解くことが、人間にとっての呪いであり祝いだ。「呪い」というのは、それを為すのが難しいから多くの人が失敗することである。「祝い」というのは、希に成功したとき、とても嬉しいことである。

実は、この嬉しさこそ「幸せ」の正体でもある。人間は矛盾する
ハックルベリーに会いに行く

『もしドラ』作者の岩崎夏海です。このブロマガでは、主に社会の考察や、出版をはじめとするエンターテインメントビジネスについて書いています。写真は2018年に生まれた長女です。

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岩崎夏海

1968年生まれ。男性。本名同じ。東京都日野市出身。東京芸術大学美術学部建築科卒。 秋元康氏に師事し、放送作家や秋元氏のアシスタントとして17年間働き、AKB48にも関わる。独立後、『もしドラ』を著し41歳で作家に。 ブロマガのタイトルは、大好きなザ・ブルーハーツの「1000のバイオリン」より。

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