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野球道とは負けることと見つけたり:その7(2,011字)
同志社大学はミッションスクールでアメリカとの親和性が強かった。そのため軍国教育や日本の国家主義には最後まで抵抗した。だから戦時中は、相当肩身の狭い思いをしただろう。それでもキリスト教徒の頑なさで、かなりギリギリのところまで抵抗した。キリスト教徒は抵抗することへの抵抗が少ない。なにしろ教祖のイエス・キリストが「抵抗の人」なので、弾圧に抵抗するのは最も教義に適った行動ということもできるからだ。それゆえに長期的に見ると強い。なぜなら弾圧するのはいつでも守旧派で、弾圧されるのはたいてい革新派である。そして長期的に見れば、革新派が勝利することは間違いないのである。それが、キリスト教が2000年以上にわたって栄え続けた最大の理由だろう。逆に、キリスト教2000年の中で最大のピンチだったのが、キリスト教自体が守旧派に回った中世だった。そんな中で活版印刷が生まれ、キリスト教内にキリスト教に抵抗する革 -
1994:その31(1,643字)
ぼくは「文化」が好きだ。バブルの頃(学生の頃)もやっぱり文化が好きで、可能な限りそこに浸っていた。特に当時のぼくは、人生の中で一番暇だった。お金はなかったが時間だけはあった。だから、それを活かして可能な限り文化に浸った。それゆえ、一般よりは深く文化にかかわったといえるだろう。ぼくが大学生だったのは1987年から1991年である。すっぽりバブルの真っ只中なのだが、当時はもちろんバブルなどという言葉も知らないし(そもそもなかった)、大学生だから脂っこいところにいたわけでもない。その周縁を彷徨っていたに過ぎない。しかし周縁を彷徨っていたからこそ見えていた景色というものもある。ぼくは1994年という年を知りたくてこの連載を書いているのだが、バブルというのはそこから5年ほど前のことである。「十年一昔」でいうなら「半昔」くらいのことだ。「半昔」にあったことが1994年に与えた影響は大きいはずで -
[Q&A]宗教にアレルギーを持つ人がいるのはなぜか?(2,469字)
[質問]ハックルさんが言う「自分は存在しない」という場合、人は自分というものをどう捉えればいいんでしょうか? 私はまだ、自分という存在が感じられ、「存在しない」ということをどう捉えていいのか分からないところがあります。[回答]ぼくは、メタ的に捉えています。自分は存在しないと知識では知っており、実感も微かにしますが、しかしまた「自分」という架空の存在、幻を感じてしまっているのも事実です。そのときは、無理に抗うのではなく、自分を感じながら、自分を感じている自分というものをメタ的に認知するようにしています。そうすれば、時間が経って落ち着いたときに「あ、おれまた幻に振り回されていたな」と自覚でき、そこから薄皮がはがれていくように、自分というものがどんどん削がれ、希薄になっていくように思います。[質問]最近、癌になる人が気になります。特に若くして癌になってしまう人が、どうしても気になって
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