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ハックルベリーに会いに行く

ブロマガ

  • 1994:その31(1,643字)

    ぼくは「文化」が好きだ。バブルの頃(学生の頃)もやっぱり文化が好きで、可能な限りそこに浸っていた。 特に当時のぼくは、人生の中で一番暇だった。お金はなかったが時間だけはあった。だから、それを活かして可能な限り文化に浸った。それゆえ、一般よりは深く文化にかかわったといえるだろう。 ぼくが大学生だったのは1987年から1991年である。すっぽりバブルの真っ只中なのだが、当時はもちろんバブルなどという言葉も知らないし(そもそもなかった)、大学生だから脂っこいところにいたわけでもない。その周縁を彷徨っていたに過ぎない。 しかし周縁を彷徨っていたからこそ見えていた景色というものもある。ぼくは1994年という年を知りたくてこの連載を書いているのだが、バブルというのはそこから5年ほど前のことである。「十年一昔」でいうなら「半昔」くらいのことだ。 「半昔」にあったことが1994年に与えた影響は大きいはずである。そういう観点から、バブル時代の文化を振り返ってみたい。 まず当時の若者――特に男性の中心にあったのはなんといっても「自動車」である。当時の若い男性にとって自動車は一種の呪縛だ。田舎はもちろん都会で...

    3時間前

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  • [Q&A]宗教にアレルギーを持つ人がいるのはなぜか?(2,469字)

    [質問] ハックルさんが言う「自分は存在しない」という場合、人は自分というものをどう捉えればいいんでしょうか? 私はまだ、自分という存在が感じられ、「存在しない」ということをどう捉えていいのか分からないところがあります。 [回答] ぼくは、メタ的に捉えています。自分は存在しないと知識では知っており、実感も微かにしますが、しかしまた「自分」という架空の存在、幻を感じてしまっているのも事実です。 そのときは、無理に抗うのではなく、自分を感じながら、自分を感じている自分というものをメタ的に認知するようにしています。そうすれば、時間が経って落ち着いたときに「あ、おれまた幻に振り回されていたな」と自覚でき、そこから薄皮がはがれていくように、自分というものがどんどん削がれ、希薄になっていくように思います。 [質問] 最近、癌になる人が気になります。特に若くして癌になってしまう人が、どうしても気になってしまうのです。 というのも、癌になるというのはなんらかの不具合があってなるように思うのですが、だとするなら、私はできたらその不具合を取り除き、癌にはなりたくないと思うからです。ハックルさん...

    1日前

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  • 本質的に生きる方法:その9(1,670字)

    ぼくが糸島に来たきっかけの一つに、ぼく自身が「土」のことをよく知らなかった――ということがある。数年前、ぼくは「土について全くの無知である」ということに気づかされた。そして驚愕した。これだけ知識に溢れたぼくが、あらゆる知識の中で最も重要ともいえる「土」について何も知らないというのは、狂気の沙汰としか思えなかったからだ。 たとえていうなら、デッサンをしないで絵を描いていたようなものである。キャッチボールをしないまま、野球をしていたようなものだ。基本のキをすっぽかして、表面ばかりをなぞっていたのである。 土は知識の一丁目一番地である。人間の知識はまず土を知ることから来ている。土への知識なくして文明も文化もない。そのことに気づいて、自分はなんと無知だったかということに気づかされた。50歳くらいのときのことである。 それで糸島に来て土の勉強を始めた。庭を作っているが当然農業にも興味を持った。さらにそれらの根底に「土木」があるということも知った。それらの分野を横断することで、土というものを立体的にとらえられるようになっていった。 世界中の人が土と共にある。人は土なしでは生きられないから...

    2日前

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  • 石原莞爾と東條英機:その63(1,862字)

    二・二六事件は1936年に起こっている。つまり太平洋戦争開戦の9年前だ。ここからの9年間が、激動なのである。戦争中を抜かせば、日本の最も脂っこい時代だ。 石原莞爾は1889年生まれなので、47歳から56歳までがその激動の時代ということになる。そのため石原自身も、まさに脂が乗り切っていた時期だが、それが逆に石原にとって最もつらいものになった。 というのも、この頃の石原はますます頭が冴え渡っていたが、それゆえますます傲岸不遜になっていたからだ。歯止めが利かなくなったのだ。 石原はもともと傲岸不遜だった。ただ、若い頃は周囲がそれを許さないところもあり、少なからず隠忍自重させられていた。しかし年齢や立場が向上するに連れ、いよいよ意見する者がいなくなり、歯止めが利かなくなった。 しかも、歯止めをかけないことで石原の能力はますます冴え渡った。その自覚もあったから、石原自身にもそれに歯止めをかけられない。おかげで、周囲の反発を買うということもまた、歯止めをかけようがなかった。 この時期の石原の立場は複雑だった。人間的には煙たがられているが、その意見には聞くべきところが多々あるので、場面場面で協力者...

    3日前

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  • 野球道とは負けることと見つけたり:その6(1,599字)

    蔦文也は1923年の生まれである。ぼくが好きな『二十四の瞳』という映画に出てくる12人の少年少女は、1921年生まれの設定である。 そのため文也は、彼らより2学年下ということになる。また、場所も徳島と小豆島でそう遠くない。だから『二十四の瞳』を見れば、文也の少年時代の日本、文化というものがなんとなく体感できる。 『二十四の瞳』の主人公で、12人の子供たちの先生である大石久子は、1907年生まれの設定だ。明治40年である。そのため、青春時代を大正デモクラシーの中で過ごした。大正の好景気の中で育った。「モボ・モガ」の文化である。 大石先生が月賦で買った自転車に乗っているのを、小豆島の女性たち(生徒の母親たち)ははじめ、良く思わない。それは、自転車は女性が乗るものではないという明治の古い女と、女でも自転車に乗っていいという大正の新しい女の文化がぶつかったからだ。明治と大正で、大きな世代間ギャップがあったのだ。 ただしそれは、その後の昭和不況、そして戦争に全ていっしょくたにして飲み込まれていく。『二十四の瞳』には、そのことも描かれている。 蔦文也の高校時代の監督は稲原幸雄だが、彼の生年は1907年で...

    6日前

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2014/01/30 11:01

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