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モモンガタイムさん のコメント

いや、文章のリズム感は事実だから

一般論としてのやはり

新井さん?が未熟なのか?

それは、分からないが

結論としては非常にリズム感の文章との乖離があるということか

他の読者はどう感じているのだろうか?

ほとんど、やはり、興味がわかない
No.5
103ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
最近、貧困についての記事がよく話題になっている。先日もこんな記事があった。 階級社会の「想像力欠如」が貧困問題の壁だ | 「貧困報道」は問題だらけだ | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準 この記事は、日本の多くの人が貧困に対して想像力が欠落している――ということについて書いてある。とても興味深いので、ぜひ読んでもらいたい。 そしてぼくは、この記事を読んで、「ぼく自身に貧困への想像力があるかどうか?」ということについて、あらためて考えてみた。 そうしたところ、「あるのではないか」という結論になった。同時に、そこには一つのきっかけがあったということにも気づかされた。 そして、そのきっかけがあることによって、ぼくは「多くの人が貧困に対して想像力が欠落している」ということの理由も、だいたい想像できるようになったのだ。 そこでここでは、ぼくが貧困の実相を知るようになったきっかけと、考察した「多くの人が貧困への想像力を欠落させてしまう理由」について書いてみたい。 小学1年生のとき(1975年)、比較的仲良くしていた同級生の男の子がいた。 その子は、毎日お母さんからお小遣いをもらっていた。ぼくは当時、お小遣いをもらっていなかったから、その子がとても裕福に見えた。そして、とても羨ましかった。 その子は、よく本屋さんに行くと、お小遣いで『ワールドスタンプブック怪獣の世界』を買っていた。これは『ウルトラマン』のトレーディングカードの一種だ。1袋8枚入りで50円。これを、一度に5袋くらい買っていた。 彼は、一日500円のお小遣いをもらっていた。だから、それだけ買ってもまだおつりが来るのだ。あるときなどは、一度に10袋買っていた。つまり、有り金を全てはたいていた。 その姿は、ぼくからすれば、裕福を通り越して富豪に見えた。 その友だちは、ダブったカードがあると気前よくぼくにくれた。それでぼくも、カードほしさにその子に何度かつき従っていた。 ある日のこと、本屋さんでカードを買った後、その子が「家に帰ってアルバムにカードを貼ろう」と言い出した。そのカードには専用のアルバム(200円)があり、それをコンプリートすると魅力的な図鑑になるのだ。 それで、ぼくは彼のあとについていった。 すると、その子の家は、高幡不動駅からほど近い木造アパートの二階にあった。間取りは六畳二間くらいだったろうか。典型的な昭和の木造アパートだ。 そして彼は、家に戻ると台所のおひつを取り出し、そこにこびりついていた昨日のご飯をすくい取ると、小皿に移して水と混ぜ、すりこぎのようなものですり潰した。そして、なんとそれを使ってカードをアルバムに貼っていたのだ。それは自家製の糊だった。 しかし、その自家製の糊はご飯粒が完全にすり潰されておらず、アルバムに貼るとデコボコして、とても不格好だった。それを見て、ぼくは「もっときれいに貼ればいいのに」と残念に思った。同時に、「なんで市販の糊を使わないのだろう?」と疑問にも思った。 これはだいぶ後になって知ったのだが、彼の家は母子家庭だった。そして鍵っ子だった。お母さんは水商売をしていて、夜遅くにならないと帰ってこられない。 そして彼は、食費としてお母さんから毎日500円をもらっていた。彼は、そのお金を使ってカードを買っていたのだ。 なんと、最初は裕福に見えた彼は、実は貧困だった。そして、ぼくの方こそ裕福だったのだ。 ぼくの何が裕福か? これが、実はちょっと分かりにくいのである。想像しにくいのだ。 ぼくが裕福だった部分――それは、「もっときれいに貼ればいいのに」と思えたところである。それが、ぼくと彼とを大きく隔てていた。 その男の子には、アルバムは市販の糊で貼った方がきれいだし、その方が価値がある──という審美眼が欠落していた。その「価値を見極める力」、あるいは「価値を生み出す力」が貧しかった。それを誰からも教えてもらえていないのだ。 彼も、もちろん市販の糊の存在は知っていた。また、毎日500円もらっているわけだから、買うこともできた。 しかし彼は、そのちょっとのお金を惜しんで、市販の糊を買わなかった。市販の糊の価値を見抜けていなかったのだ。 それによって、彼のアルバムはすっかり価値のないものに成り下がってしまった。そこで大きな損を被っていたのだ。 それは、ぼくがそこで得ていた「得」とは大きな隔たりがあった。ぼくは、彼からもらったカードを丹念に集め、それを市販の糊でアルバム(母におねだりして買ってもらった)にきれいに貼っていた。おかげで、彼よりずっと少ない費用で、ずっと価値の高いものを生み出せていたのだ。 たとえて言うなら、彼は燃費の悪い車だった。価値を生み出すのに、とても多くの原資を必要とする。それに比べると、ぼくはずいぶん低燃費だった。少ない原資で、より多くの価値を生み出すことができた。 裕福と貧困を隔てていたのは、その燃費性能の善し悪しだった。その性能差が生涯にわたって続くから、最終的には計り知れない格差となるのだ。 彼は、そういう貧困の中にいた。 しかし、おそらく彼には、そのことが理解できなかっただろう。なぜなら、彼には500円があり、ぼくにはそれがなかった。だから、一見彼の方が裕福に見えるのである。 そして、彼以外の人々にも、この貧困はなかなか想像しにくい。 これが、例えば彼が食べるものもなくひもじい思いをしていたら、それは誰でも貧困だと認識できる。しかし問題は、「今どれだけ持っているか」ではなく、「これからどれだけ得られるか」ということなのだ。彼は今、たとえ500円を持っていても、今後価値を得るためには、ぼくの数倍労力を使わなければならない。真に貧困と裕福を分けていたのは、そうした「目に見えない格差」だった。 ぼくは、大人になってからも、何人かの貧困に出会った。そのうちの一人は、お笑い学校の生徒だった。そして彼も、やっぱり「目に見えない貧困」を抱えていた。 その生徒が、あるとき宿題をしてこなかった。そこで講師をしていたぼくが「なぜしてこなかったのか?」と訪ねると、彼は「バイトが忙しかったから」と答えた。 そこでぼくは、こう諭した。 「宿題をしてこなかったら、今日の授業は受ける意味がなくなるから、きみが授業料を損していることになるんだよ。学校に通っている間は、バイトよりも宿題を優先した方がいい」 すると彼は、こう答えた。 「でも、バイトをしないとこの学校の授業料が払えないんです」 彼は、その学校の授業料を払うためにバイトをしていた。そしてそのために、宿題ができず、授業を満足に受けられていなかった。 つまり彼は、せっかくバイトで稼いだお金を、みすみすタダで学校に寄付する格好となっていたのだ。対価としての授業を、そこで失っていたのである。 一番の問題は、彼自身がそのことに気づけていないことだ。しかし二番目の問題として、彼以外の多くの人も、そのことになかなか気づけないということがある。なぜならやっぱり、彼の貧困は目に見えないからだ。 真の貧困とは、そういう目に見えない部分にこそある。これが、多くの人が貧困に対して想像力が欠落していることの一番の理由ではないだろうか。
ハックルベリーに会いに行く
『もしドラ』作者の岩崎夏海です。このブロマガでは、主に社会の考察や、出版をはじめとするエンターテインメントビジネスについて書いています。写真は2018年に生まれた長女です。