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うさぎさん のコメント

それって結局自分の専門分野がすごいからそれ以外いらないって言ってるように見えて、「ブーメラン」の一言で終わってる。
昔あったゆとり教育って詰め込み教育が問題だから、教える勉強量を下げてその余った時間であれこれ情緒教育とか愛国心とかやろうって話がゆとり教育だったはずでいま子供に勉強教える時間の枠って余ってる気がするんだけど、そこで金融経済なり、公共ルールなり、税金なり、補助金のルールなり教えれば解決する話じゃ?
No.12
30ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
国会議員が「三角関数を学校で教える必要はない。代わりに金融経済を学ぶべき」と発言して話題になっている。これに対して、多くの人が噛みつき、炎上状態になっている。ただ、このブロマガ読者諸氏ならすでにご承知かと思うが、ぼくの意見は国会議員の側だ。これが炎上するなどというのは、日本は世も末だと思わされる。 炎上させている人の多くが、「三角関数を学校で教えることには意味がある」と思っている。よしんば学校を出てから使わなかったとしても、それは表だって効果が出ていないというだけであって、内面には無形の恩恵をもたらしている――という考えだ。あるいは、これがきっかけに数学の道に進んだ人には、はかりしれない恩恵になるという意見もあった。 そんなふうに、今の世の中は国民が保守的だ。なぜ保守的かといえば、自分たちが受けてきた教育をバカにされた気になるからだろう。それしか理由がない。自分を否定された気持ちになるから、それで怒っているのだ。 しかし、世の中は今、大きく変化している。学校に行かなくとも、三角関数に触れる機会などごまんとあるし、ネットで学ぼうと思えばいくらでも学べる。 だから、学校で教える必要があるかといえば、そんなことは全くない。学問には、確かに優先的に教えた方がいいものがあることは確かだが、しかしそれは三角関数ではない。 そもそも、今の時代は競争が世知辛くなっているのだから、もし数学の分野でがんばろうと思うなら、学校で教える三角関数など教わるまでもなく解けなければならないし、逆にそれ以外の分野でがんばろうとするのなら、むしろ三角関数を学んだ時間と労力はムダになる可能性が高いだろう。 こう言うと、よく「数学は単に数学のためだけではなく、論理を学ぶためにする」という人が出てくるが、ぼくは、それは極めて怪しいと思っている。というのも、数学家に非論理的な人がきわめて多いからだ。論理の凄い人と、論理のダメな人の両方がいる。どちらにも共通するのは、抽象的な思考が得意ということだ。 なぜかというと、数学というのは論理を超越したところにある「抽象的な感覚」がものをいう分野だからだ。その意味で美術に近い。「この色がいい」というのを論理的に説明するのが難しいのと同じで、「この公式がいい」というのはなかなか論理的に説明できない。しかし数学者にとって、それは自明の理なのである。なぜなら、彼らの抽象的感覚がそれを評価するからだ。 三角関数が「美しい公式」だというのは、数学者にすれば論を俟たないだろう。しかしながら、それ以外の人にとって三角関数は単に「数学で習うもの」というレベルにとどまっている。実際、学校の授業でも「いかに美しいか」を教えたりはしない。 一方で、数学には美しい公式を論理的に記述するという要件も求められる。これが数学を独特のものとしているのだが、こういう証明は必ずしも数学をしたから身につくものではなく、むしろ言語感覚の分野である。 言語感覚というものは、もともときわめて論理性が高いため、数学とは使う脳の部位が違う。つまり、数学を学んだからといって論理性が鍛えられるわけではなく、むしろ国語の方が論理性は鍛えられる。 数学者にときおり論理性が高い人がいるのは、彼らが言語能力にも秀でているからだ。なぜそういうことが起こるかというと、言語を突き詰めていくと、言語では表現しきれない抽象的な概念に突き当たる。それが端的にいって「美」である。 だから、論理性を極めていくと、その限界のところで、唐突に抽象的な「美」が現れ、思わずひれ伏す。そうして、抽象的な感性を鍛える。こういう数学者もいることはいる。 しかしたいていの数学者は、論理性をそこまで突き詰めることができないため、元々持っている抽象的(美的)な感性で数学をする。時折「証明されない問題」が出現するのはそのためだ。抽象的には美しいと誰もが認める数式でも、それを論理的に説明できないのである。だから、その部分は他人任せようとする。そんなふうに、数学を学んだからといって論理性が身につけられるわけではないのだ。 途中から「数学とは何か?」という話になってしまったが、ぼく自身でいっても論理性はあまり強くなく(それでも一般よりは相当強いが)むしろ抽象の方が得意である。しかしながら、そういう人間にこそ学校の勉強は不向きなので、いずれにしろ学校はいらないという結論に到達する。
ハックルベリーに会いに行く
『もしドラ』作者の岩崎夏海です。このブロマガでは、主に社会の考察や、出版をはじめとするエンターテインメントビジネスについて書いています。写真は2018年に生まれた長女です。