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ポテトさん のコメント

>>2
 人はそんなに器用じゃない。片手間にできる何かで生計が立てられる人は極々少数。大多数は競争の中で生きている。個人ではどうにもならないから苦しんでいる人が多い。その理由こそ政治にある。少し長くなるが、経済を理解した私が、真の30代が生き残る道を綴るところまで執筆する故、最後まで一読願いたい。
「リスクを取らないのは最大のリスク」という社訓のような謳い文句を国家が行うからワーキング・プワや自殺者が増える。国家はリスクを取れない。リスクを取れば死者が出るからだ。うつ病により自殺する人もいれば、生活苦で餓死する人や一家心中を行う事例も出てくるし、実際に報告され報道もされている。
 今や厚労省調査で2011年の生活苦は6割超(バブルの頃は4割超)。この原因こそデフレと新自由主義にある。それは何故か。デフレはモノが売れなくなる経済。モノが売れず、市場原理で価格を下げてようやく売っている。その分、企業利益が減ってしまう為、労働者の賃金まで削っていく。だからデフレになると物価が下がる分以上に賃金が下がる。そして購買力が落ち、モノが売れず価格が下がる。これこそ悪循環。
 そして、自民党はまさしくデフレを促した。それが小泉政権下の構造改革。この構造改革は人材をモノ扱いした労働者派遣法の度重なる改悪で低賃金低待遇労働者を民間企業で、特に輸出大企業に食い物にさせてきた。派遣労働者の割合は1990年と2013年5月15日時点を比較して25~35歳男性で5倍以上、女性で2倍ほど増えている。何れも過去最悪だ。その中でも単純労働者としての派遣では正社員登用率は低く、いつ首を切られてもおかしくない雇用条件および製造業では社宅とセットという関係上、生活はより不安定になり購買力はもとより将来設計がままならない中では日本人のモノ作りが崩壊する危機的状況にも直面している、というのが実態だ。非正規の場合、昇給やボーナスがなく、不安定化をより助長しているのだ。
 これらを雇用が増えたと時の政権は自画自賛するが、それは形式上のことで、安定した所得の上昇や待遇面での保障なくしてデフレ脱却という日本経済再生は果たせず、これらは購買力を貶め、デフレを促進する愚策なのだ。デフレ下では規制緩和ではなく規制の強化で労働者を守らなければデフレを深めてしまう。
 大企業をはじめとする民間企業は内部留保が膨らんでおり、それらは過剰投資による設備や部品などの仕事をする上での資産が多く計上されているからだ。これは大量生産を可能とした供給体制の拡大であり、その対となる需要が減少するデフレ下ではデフレを促進する事に繋がるのだ。人を食い物にし、大量生産・大量消費を行えばモノが売れず価格が下落しても利益を出す事ができるがデフレスパイラルを齎す事になる。
 現にテレビの価格は軒並み下がり、1インチあたり1万円の時代はどこへやら1インチ1千円以下まで下がり、牛丼は価格破壊が相次ぎ、若者の車離れまで起きた。その為の規制をとっぱらったのが小泉政権下の愚策の数々、つまりデフレ政策なのだ。
 そうとも知らずに安倍政権はこの道へ進んでおり、限定正社員を設けようとしたり、安い外国人労働者を厚遇するなどのTPP特区を東京、愛知、大阪に設ける事を高らかに謳い、更なるデフレへ突き進もうとしている。
 目下、輸入品を中心に円安効果で原材料費の高騰分の値上げが行われているが、物価が上がっても大半は給料が増えないスタグフレーションになる可能性が濃厚だ。
 デフレとはモノが売れない経済を指すと前述したとおり、(民間企業の希望価格で)モノが売れる経済にしなければならない時に、そうした所得倍増政策は自民党には皆無に等しい。まったくもって論外だ。
 私が提起しよう。デフレを脱却する為の真の財金政策とは、消費者に強制消費を促すことだ。数字単位で年度末などの有効期限を明記した政府紙幣を消費者に配り、消費者に強制消費を促す。これによって購買力向上に伴い消費は活性化し、民間企業の希望価格で必ずモノが売れるようになる。断言しよう。
 そして、民間企業は有効期限が切れる前に政府紙幣を取引銀行で日本銀行券に替え、安定的に利益計上すること、特にこの際、できれば各社メーカーと小売店業者等が話し合いで価格を引き上げる等の値上げ処置を行い、十分な企業利益を確保することができれば、労働者の所得に分配され、値上げ分以上に消費者の家計は潤う事が見込まれる。それが更なる購買力増加をもたらし、やがてインフレ経済に再び対応できるのだ。折を見て、ハローワークと連携して失業者に対し就職口の斡旋を行うことが肝要だ。
 これぞ真のデフレ脱却政策であり、これこそ今を生きる大多数の30代が生き残る道であり、それは現役世代に通ずる話であり、現役世代が稼ぎ、所得の再分配によって現役を退いた高齢者の面倒を見ることができるのである。これが日本流の至極真っ当な経済活動、社会保障制度の根幹である。この事を著名なブロマガ主に是非とも広めて頂きたい。
 因みにベーシック・インカムで所得の穴埋めをしようという発想もあるが、私が提示したのはデフレ脱却の為の強制消費に主眼を置いた財金政策であり、消費者に強制消費を促す事が最も重要だというメッセージが込められている。ベーシック・インカムで本当にデフレ脱却できるのかどうか怪しく、家計切詰めなどのデフレマインドが蔓延している時代では効果がどの程か予想し難い。そこで、これよりも強制消費に重きを置いた政策として提起している。
 駄文多く、長文に至ったことをご容赦ください。(2,295文字)
No.11
138ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
これからますます厳しい「競争の時代」にならざるをえないだろう。 そういう時代を生き抜くには、競争をするのではなく「競争しない」ことがだいじだ。 このことは、近著 「まずいラーメン屋はどこへ消えた? 椅子取りゲーム社会を生き残る方法」 にも詳しく書いた。その中で、今回は特に、30代がどう生き残ればいいのか――ということについて書いてみたい。 その前に、ここでちょっと、ぼくの30代を振り返ってみたい。 ぼくは、30代に入る直前の29歳で離婚した。この時、人生に絶望して死のうとも考えたが、結局死ぬのが怖くて死ねずに、仕方なく生きていくことを決めた。 その際、せっかく生きていくことを決めたのだから、後悔のない生き方をしたいと思った。それで、かねてから「自分は放送作家に向いていない」とずっと思っていたので、これを廃業しようと考えた。 なぜ向いていないと思ったかというと、放送作家は俗に「テレビ芸者」といわれるくらい、周囲を楽しませたり盛り上げたりする能力が求められているのだけれど、ぼくにはそれがほとんどなかったのだ。というより、集団行動が苦手だった。一対一ならまだいいのだが、3人以上の集団の中で楽しく振る舞うことが苦手だったのである。 だから、集団で行う会議などは苦痛以外何ものでもなかった。しかし、放送作家の仕事に集団での会議は欠かせなかった。それで辞めようと思ったのだ。放送作家を辞め、小説家になろうと思った。 なぜ小説家になろうと思ったかといえば、二十歳の時に 「百年の孤独」 という小説を読んで、「死ぬまでに一冊でいいからこんな面白い小説を書いてみたい」と強く念じたことがあり、それを思い出したからだ。そうして、このまま死ぬまで一作の小説も書かないのでは後悔する――そう思った。 そこから小説家への転向を目指し、活動を始めた。 まず、世界文学全集を読んだり、世界文学の評論集である 「週刊朝日百科『世界の文学』」 を読み込んだりして、小説の勉強をした。 そこでぼくは、独学ではあるものの、「世界文学」というものを体系的に学ぶ機会を得た。 ぼくはそれまで、小説が好きでたくさん読み込んではいたけれども、世界の文学がどのような歴史を辿って、どう体系づけられているのかということを知らなかった。 だから、この勉強はとても面白かったし、何より、歴史を学んでその世界を体系的にとらえることが、とても役に立った。なぜなら、その世界を体系的にとらえられるようになると、俯瞰的な視点を獲得でき、これまでとは比べものにならないほど視野が広がるからだ。そうすると、そのことについて習得するスピードも、ぐんと増すのである。 このできごとは、とても大きかった。それ以来、ぼくは何かを身につけようと思ったら、まずはその「歴史」から勉強するようになった。歴史を勉強して、その「体系」を身につけ、俯瞰的な視点を獲得することで、それを学習したり身につけたりするスピードを早めるようになったのだ。 そうしてぼくは、その勉強を踏まえたうえで、いくつかの小説を書いた。 しかしそれらは、どれも出版社からは芳しい評価を得られず、やがて小説家の道も諦めざるをえなくなった。再び、大きな挫折を味わったのだ。 この時は、放送作家に挫折した時とは違って「自分の能力が劣っているからだ」とは思わなかったので、また違った感慨を覚えた。 放送作家に挫折した時は、「ぼくの能力がないからだ」ということで、すぐに諦めもついた。しかし小説家に挫折した時は、出版社や世の中の不理解が原因だと思ったので、やりきれない思いが募るばかりだった。両者を比べると、小説家に挫折した時の方がダメージは大きかった。 そうして、挫折というのもいろいろなケースがあるのだなということを、この時学んだ。 それからぼくは、クリエイターを廃業してプロデューサー業に転向した。もう何かを表現することでは食べていけなくなったからだ。 その中で、今度はビジネスとは何かということを学び始めた。 その際、これも独学ではあるけれども、「体系的に学んで俯瞰的な視点を獲得しよう」ということを意識した。そうして、たくさんの本を読むようにした。 その中で、ぼくはドラッカーの「マネジメント」と出会った。これは、後にぼくの運命を大きく変えることとなるのだけれど、このようにして「もしドラ」を出す41歳の時までに、ずっとビジネスの勉強をし続けていた。 さて、これらのことを踏まえたうえで、いよいよ30歳の生き残り方について話したい。 ぼくは、30代において最も重要なのは、 
ハックルベリーに会いに行く
『もしドラ』作者の岩崎夏海です。このブロマガでは、主に社会の考察や、出版をはじめとするエンターテインメントビジネスについて書いています。写真は2018年に生まれた長女です。