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UnderTheSkyさん のコメント

回答有難うございました
確かに、死を免れることはできませんし、不老不死は実現していません。昔、19世紀ごろはまだ公開処刑という制度が当時の諸先進国にも残っていて、そこには見物人がいたそうです。また、餓死している人がいることもあったそうですし、戦争も多い時代でしたし「死」は身近だったのかもしれません。

人身事故が起こると野次馬ができるのも、もちろん野次馬根性もあるでしょうが、マインドコントロールに遠ざけられた「死」を感じることができるのでしょう。もともと、生と死は不可分なのに死だけ遠ざけられているのでしょうから

先日七夕だったのですが、たなばたという儀式はそもそも短冊に飾るだけではなく、お盆のような、霊が返ってくるという儀式だったことをバスに乗っていた時に喪服の服を着た人を見たとき思い出しました。

何か作るためには、マインドコントロールから抜け出さないといけないのかもしれません。成長戦略をとりつつ、消費を抑制するような賃金で働かせ続けるというビジネスモデルもハックル先生の「種としての縮小局面」という考え方ならば、納得できるものです。

もっと、インターネットではなくフィールドに出ようと思います。「書を捨て街に出よう」ではなく、「インターネットを捨て街に出よう」ですね。しかし、その街は私を受け入れてくれるかわかりませんが。

自然に触れながら、瞑想するように感じてみようと思います。ありがとうございました。
No.1
119ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
[質問] 最近何に価値があるかわからなくなってきてしまったのです。もしかしたら、何にも価値がないかもしれないですし、あらゆること、は価値があるかもしれないとも考えています。倫理的でないこと――例えば、人を殺す。しかも、特に理由なく。それすらも価値があり、また価値がないとも考えています。 また今、体調を崩していまして、仕事をしていません。働かない理由の一つにすることもしないことにも価値を見出せないことが一つかもしれません。 また、生きることについて、死ぬことについても考えています。まあ、これは在学時、また、それ以前からも考え続けたことでありますが。「社会的」(社会という単語もここでは自分は日本語以外の言語が使用できないので日本社会のことを指します)に意味があるとされていることは本当に意味があるのか、建前は意味があると装っていて、実はそこまで辛い思いをしてまで建前を貫き通すことが出来ない人が増えてい
ハックルベリーに会いに行く
『もしドラ』作者の岩崎夏海です。このブロマガでは、主に社会の考察や、出版をはじめとするエンターテインメントビジネスについて書いています。写真は2018年に生まれた長女です。