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文科省の方針で、国立大学では今後、文系の科目を減らす、もしくはなくしていくらしい。そのことの是非が今、議論されているが、そもそもだいぶ前から大学は教育機関として機能していないので、どちらに転ぼうが大勢に影響はないだろう。
しかしながら、たとえ大学で習わなくとも、これからの時代はますます教養が必要になってくる。なぜなら、教養の有無こそが、その人の総合的な能力を分かつ決定的な要因となり、そしてその人の総合的な能力こそが、その人の地位や立場を決定づけるような社会になっていくからだ。
そこで今回からは、教養とは何か? それはどうすれば身につけられるのか? 教養を身につけることの効用は何か? 教養によってどのような能力が身につけられるのか? その能力は社会の中でどのような力を発揮するのか? といったことを考えていきたい。
まず第1回の今回は、「そもそも教養とは何か?」ということを考えていきたい。その定義から明らかにしていきたい。
それを考えるきっかけとなったのは、朝日新聞での川上量生さんのインタビューだ。川上さんはそのインタビューで、教養を「ある時代のあるクラスター(集団)の人たちにとって、コミュニケーションをするのに最低限必要な共通言語」と定義づけていた。その上で、「夏目漱石やシェークスピア」あるいは「村上春樹」ももはや教養とはいえず、上の定義に当てはめるなら、現代は漫画雑誌「少年ジャンプ」くらいしかない――という見解を示した。
川上さんは、さらにこう述べる。
「その他の教養は、それぞれのクラスター内での教養です。社会全体の教養にも、知識人全体の教養にもなっていない。
人文・文学の世界で教養というのは、専門分野での教養だと思う。それを「今の社会人が身につけるべきだ」、「すべての日本人が身につけるべきだ」といった瞬間に、疑問が出る」
それを読んで、ふと思い出したことがあった。
それは、例えばぼくは、夏目漱石もシェークスピアも村上春樹も読んだことがあるが、それを人に話したときは、あまり芳しい反応を得られなかった。みな、「へえ、そういうのが好きなんですね」という反応だった。彼らは確かに、川上さんがいうように、それを「今の社会人が身につけるべき」「すべての日本人が身につけるべき」とは思っていなかった。何より、彼ら自身が「自分はそれを読まなくても平気」と思っていた。それを確かに「専門分野での教養」と位置づけていた。
しかしながら、そういう人たちが明らかに違う反応を示すときがあった。それを告げた瞬間、「あ、そういうのを読んでいるんだ……」という、ちょっと悔しそうというか、ショックというか、後れを取ったような顔をする「本」があるのだ。
それは「百年の孤独」である。ぼくが「『百年の孤独』が好き」と言うと、多くの人が、夏目漱石やシェークスピアや村上春樹を好きだといったときとは別の反応を示す。それを「専門分野での教養」とは思わずに、「自分もそれを読んだ方がいいのではないか」と考える。
あるいは、ぼく自身も人から「こういう本を読んだ」と聞かされ、ちょっと悔しく、焦った経験がある。
それは、ギボンの「ローマ帝国衰亡史」だ。彼はそれを、大学のときに読んだと言った。それを、ずいぶん大人になってから聞かされたぼくは、とても焦って、その日のうちにこっそりとAmazonで注文した。その場で「読んでない」とは言えなかったし、「専門分野での教養」と切り捨てることもできなかった。それを読んでいないぼくは、彼より明らかに後れを取っていると悔しくなった。
さらには、これは川上さん自身がどこかで書かれていたのだが、彼はジブリで見習いを始めるまで、映画をほとんど見たことがなかったのだという。しかしながら、ジブリに入ってから、あるいは鈴木敏夫さんの影響で、映画を見るようになった。
これも、実は「川上さんが映画というものを『教養』ととらえたから」ではないかと思う。もちろん「ジブリで働くので仕事上必要となったから」という言い訳もできるが、しかし川上さんは、何も映画への知識や見識を求められてジブリに入ったわけではない。それとは逆に、「映画を知らないからこそその意見が重宝された」という側面があり、それは他ならぬ川上さん自身も重々承知していたはずだ。だから、彼にとってはむしろ映画を見ることは、仕事に支障を来すこととさえいえた。
それでも川上さんは映画を見た。つまり、不利を承知で見るようになったのだ。なぜかといえば、それは彼が「今の社会人」とはいわないまでも、「少なくとも自分はこれを身につける必要がある」と思ったからに違いない。意識的にしろ無意識的にしろ、「映画を見ていないと、いろいろなことに立ち後れる」と思ったからなのだ。
ぼくは、こういう知識も一つの教養だと考える。つまり、「『すべての日本人』とまではいかなくても、少なくとも自分にとっては、たとえ専門外のこと、仕事以外のことであっても、『身につけなければやばい』と思わされるような知識」は、「教養」にインクルーズされると。
その意味で、川上さんが定義する教養というのは、ぼくは少し狭すぎると思った。この世には、たとえ共通言語になっていなくとも、「自分の専門ではないが、いろんな意味で人に後れを取らないために必要」と思わせる知識があり、それも教養にインクルーズされる。それが、例えば「百年の孤独」であったり「ローマ帝国衰亡史」であったり「映画を見ること」であったりするのだ。
次回は、「教養」の定義について、さらに考えてゆく。
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