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シロさん のコメント

どんな反応も、前作の正当な評価の結果でしかない。タイトルや表紙、マーケティング戦略のみでベストセラーになった駄作、買って損したというのが一般認識でしょ。書籍に留まらず映画も、売れていい出来のものではなかった。こんなものが売れるような社会はおかしいと、みんなが思ってるから、誰も続編なんて望まないんだよ。悔しかったら評価されるに値する本を書け。それ以外で読者を見返すことなんてできっこない。
No.32
110ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
今度、「もしドラ」の続編、「もしイノ」(「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『イノベーションと企業家精神』を読んだら』)が発売される。ぼくは当初、これを「書かない」といってきた。書くと大変だ、というのが分かっていたからだ。大変というのは、この続編を快く思わない人がいるのである。 先日、続編が発売されることを発表した。すると、それを伝えた記事には、こんなコメントが並んだ。 いずれも、ぼくが失敗することを望んでいる。 こういう声は、けっして大多数というわけではないが、少なくもないだろう。ぼくを含め、人は、他人に対しては残酷な気持ちを宿している。他人の失敗を望み、これを喜ぶというのは、誰でも持ち合わせている自然な感情だ。 だから、こういう人たちを咎め立てすることはできない。ぼくにできることは、二つだけ。こういう声を避け、続編を書かないか、こういう声に立ち向かって、続編を書くかだ。 そうしてぼくは、これまで続編を書かなかった。それは、人々の悪意に触れるのが嫌だったからだ。人々の、ぼくの失敗を望む気持ちに触れるのが嫌だった。挑戦しなければ、それに触れることもない。だからぼくは、挑戦を避け続けていた。 しかしながら、やがて気づいたのは、そういう挑戦を避ける気持ちこそが、人を緩やかな失敗に導くということである。それは「緩慢な失敗」である。失敗をしないということは、それはそれで、大局的に見れば一つの大きな失敗だったのだ。 人は、失敗を避けられない。それは、人が死を避けられないのと似ている。 ぼくは、やがて死ぬ。それと同じように、ぼくのクリエイター生命も、やがて終わりを迎えるだろう。 そこで、失敗を避け行動を起こさなかったのでは、表面的には死んでいないように見えても、それは結局死んでいることと同じだった。 だからぼくは、覚悟を決めた。死ぬ覚悟を決めたのだ。続編を書いて、もしこれが失敗したら、クリエイターとしての死を迎えるかもしれないということを、覚悟したのである。 よく「背水の陣」というが、誰でも背水の陣など取りたくはないだろう。それが失敗に終われば死――というのは、けっして気持ちのいいものではない。 しかしながら、「背水の陣」にはおそらく、それによってしか得られない、大きな効果もあるのだと思う。それは、いわゆる「火事場の馬鹿力」とか、「窮鼠猫を噛む」といった諺に示されているように、人間、追い詰められて開き直ると、これまでにはなかったパワーを発揮できるようになるからだ。 あるいは、「捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という諺もある。人間は、生きたい生きたいともがいていると、かえって死を早めてしまう。それよりも、いっそ運を天に任せると、かえって助かったりする。 さらには、「武士道というは死ぬことと見つけたり」という言葉もある。これは、死を覚悟しながら生きていくと、余計なことを考えなくなるので、正しく行動できるということだ。 それでぼくは、ようやく続編を書くことを決めたのだった。 そこでぼくは、自分にこう言い聞かせた。 「これが失敗すれば、ぼくのクリエイターとしての可能性は狭められるだろう。仕事もお金も人間関係も、いろいろと上手く回らなくなる。そういうリスクが、この続編を書くという作業にはつきまとっている」 「しかし、よし、それならそれを、引き受けようではないか。ぼくはやがて死ぬ。それが早いか遅いかの違いだけだ。それよりも、今この瞬間、続編を書くことのひとときの幸せに身を投じよう。そもそも、ぼくが続編を書けるのは、前作がヒットしたからだ。前作がヒットしなければ、この続編もなかった。つまり、ぼくはそこで死んでいた可能性もある。その意味では、もらった命だ」 「もらった命が、まだ生きながらえる可能性があるのなら、それをまだ燃焼させられるうちに、燃焼させよう。書いたら失敗するかもしれないが、書かないこともまた失敗なのだ。そして成功する可能性は、書く中にしかない」 そうしてぼくは、書いた。書くのに一年半かかったが、重圧の大きさを考えれば、むしろ早く書けた方なのかもしれない。 書き終えた今、悔いはない。これがヒットするかしないか、分からない。失敗作との烙印を押され、さんざんな酷評を受けるかもしれない。 それでもいい。もらった命なのだ。散るときは散る。どうせ散るなら、パッと散ろう。 ぼくにとってだいじなのは、悔いのないことだ。ぼくはこれまで、自分の人生や作品というものに悔いがない。よく、満足したら終わりだという。しかしぼくは、満足している。満足したら終わりではなく、満足する気持ちがないと、次に行くことができないからだ。 ぼくは、満足することを糧に、生きている。満足がなければ、続けられなかった。 満足は、ぼくにとっては始まりなのである。そうしてぼくは、この続編に満足している。だから、たとえこれが失敗し、クリエイターとしての命が終わったとしても、また何か別の道で、生きていけると思うのである。 もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『イノベーションと企業家精神』を読んだら - Amazon
ハックルベリーに会いに行く
『もしドラ』作者の岩崎夏海です。このブロマガでは、主に社会の考察や、出版をはじめとするエンターテインメントビジネスについて書いています。写真は2018年に生まれた長女です。