• このエントリーをはてなブックマークに追加

兵頭新児さん のコメント

userPhoto
兵頭新児
結局、フェミニストたちは「ロリコンを倒す正義の味方」のフリをして、「エロ全体を滅ぼそうとしている」わけだし、リベラル君たちは「エロを守るフリをして、フェミニストを守ることこそが目的」であり、また「ロリコンをLGBTの仲間入りさせて、自分はその利権に与ることを目的としている」わけで、もう頼むからお前ら戦って共倒れしてくれという感じですね。
それにしてもニコニコ大百科にまで「まなざし村」と書かれていて、ちょっと落ち込みました……。
No.4
90ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 今回は 前回記事 の補足+『スパロボ』クリア記念です。  というわけで「スパロボ」などの単語で検索していらっしゃった方、すみませんが本稿は当ブログのかなり特殊な視点からロボアニメなどを批評しておりますので、その辺、ご了承ください。また本稿では年代が重要になってくるので、作品タイトルの後にその作品の原作の発表年代を記しています。  では、そういうことで。 *     *     * 「 全てを『スパロボ』で知る男 」ことワイ、当然『クロスアンジュ』(2014)も『スパロボ』で知りました。  ちょっと前であれば、こうした「深夜アニメ」的な作品が『スパロボ』に参戦することにはいくらかの抵抗もあったことでしょうが、まあ、近年の神谷明も出ない、石丸博也も出ない『スパロボ』のこと、割とどうでもいいです。  いえ、ぼく自身は別に美少女アニメだから『スパロボ』に出てはいかん、といった感覚は希薄だと思うのですが(『ダンガイオー』(1987)も『ナデシコ』(1996)も拒否感なかったですしね)、ピカレスク的な作品が出てくることには、多少の拒否感があります。これはかなり前に 『ゴーカイジャー』(2011)に毒を吐いていた のに近い。ピカレスクが反道徳でけしからぬ、というわけでは全くなく、「その悪党と正義の味方とが共同戦線を張るならば、ちゃんと葛藤などの描写を踏まえろ」と言いたいわけです。  更に言えば、『コードギアス』(2006)が参戦した時などはそれなりにちゃんと考えられており、正義と悪の呉越同舟の矛盾は、『スパロボ』においてはあまり生じてはいないとは思います。しかしそれは同時に、むしろダイナミック作品を原作に近いリメイク版に入れ替えるなどして、むしろ全体の勧善懲悪的なテイストが薄まっているからだとも言え、まあ、そんなわけでぼくの『スパロボ』愛も年々テンションが低くなって行っているわけなのですが。  それは置くとして、『クロスアンジュ』です。  これ、誰に向けたアニメなんでしょう?  当初はどう見ても深夜の萌え枠、美少女ヘンタイレズアニメにしか見えませんでした。  事実、本作でロボットに搭乗するのは全員が美少女キャラ。キャッキャウフフな百合展開が続く……というよりは何だか妙にギスギスした生々しい女同士の争いが続き、何でスカッと正義のために敵ロボットをやっつけてくれないのか、不満が募ります。  そうこうする内にタスクという少年が現れ、アンジュといい仲に。彼は例外的にロボットに搭乗しますが、それがピンク色である辺り、やはりあまり男性性を感じさせないキャラとして描かれています。  そして最終的に、アンジュはエンブリヲと戦います。  え~と、ルート分岐で途中のお話を見ていないので今一よくわからないのですが、エンブリヲは世界征服を企む悪の帝王……か何かなのだと 多分、思います 。『スパロボ』では『フルメタル・パニック!』(1998)のラスボスとコンビを組んでおりました。  エンブリヲは悪党らしくアンジュと共に様々な作品の美少女キャラをさらっていって、ハーレムを作ろうとしますが(……?)、怒りに燃えるタスク(及び宗介など他の女性キャラの恋人たち)によりその野望は潰えます。最終的にはアンジュはタスクと結ばれ(肉体関係のあったことが暗示されます)、ハッピーエンド。  そう、本作は最終的にはヒロインが二人の男性に求められる、乙女アニメになって終わってしまったのです。  正直、あまり一般性のある(広く見てもらえる)感じの作品でもない印象を持ったので、ラスト辺りで妙に女性向けになったのが、ぼくにとっては違和感でした。  そう、「萌え」の本質は「ハーレムもの」の特殊性にある、みたいなことは今までも語ってきたかと思います。従来の作品では、例えば正義の男性「マリオ」と悪の男性「クッパ」が「ピーチ姫」の争奪戦を繰り広げるように、南ちゃんと達也君と和也君の三角関係のように、ポパイとオリーブとブルートの三角関係のように、「一人の女性を二人、ないし複数の男性が取りあう」のが物語の基本でした。それが殊更女性向けでなくとも、広く一般向けの作品全体のお約束だったのです。  ハーレムものはそこを、「たった一人の男性を、複数の女性が取りあう」という構造へと、ある種のパラダイムシフトを起こしました。岡田斗司夫氏が「萌え」の本質を「男女平等」と喝破したのもそれです。  ところがある種、『クロスアンジュ』は古典的ピーチ姫的物語に戻ってしまいました。  それとも、そこまで男性向け特化ではない作品だったのか……。  で、ふと気づいたのですが、近年のアニメだと思うから理解ができないのであって、要はこれ、80年代OVAだと思えばすとんと胸に落ちるのです。 「出る美少女キャラみんなレズ」と思えてしまう女性のベタベタした(いや……本作はギスギスの方が強く、ちょっと違和感ではありましたが)描写と共に、おいおいと苦笑したくなる過度なエロ。  そして、何よりも、「美少女キャラによる、男性原理へのカウンター」。  敵キャラであるエンブリヲ、何か世界征服のビジョンみたいなこと(詳しいことは忘れましたが、「この世を統治するためには愚民たちを絶対的な権力で導かねば」みたいなことを 言っていた気がします )を語りつつ、最終的には「俺が本当に欲しかったのはアンジュ、お前だ」的なことを言い出します。まさに『逆シャア』(1988)の如く、「何か三人称的、男性原理的、大局的なことを言ってたけど、ホンネは一人称的、女性原理的、個人的な女への執着で動いてたぞ、コイツ」オチというのはこの頃、本当に多かったのです。  いや、その割にハーレム作ってたやんけとは言いたくなりますが、まあ、ちょっと気持ちもわかる感じがして、「あぁ、最終的に視聴者の同情を引くような描写があって死ぬのか」と予想していました。それこそ『北斗の拳』(1983)のシンとか、「恋愛無罪」とは言わないまでも敵キャラが「愛」故に共感される展開もまた、この頃から出て来たモノであるように思います。  が、その予想は外れました。  アンジュが、徹底的にエンブリヲを否定して終わるのです。  この時の、何というか「大義」っぽいことを語る男性キャラを「髪型がキモい」的な感覚的なことで否定する辺り、本当に80年代的です。 ■07:30~辺りからです  80年代のアニメというのは本当、「正義」という「男性原理」を徹底的に破壊し続けていました。その意味で上に挙げた『ダンガイオー』なども、正直ドラマ性は希薄で、あんまり感心しません(『イクサー1』(アニメ版・1985)は好きなんですけどね……)。  ロボットものではありませんが、『うる星やつら』(1978)にはクラマ姫というキャラがいます。天狗一族の姫として、「目覚めのキスをした男と契らなければならない」という掟に縛られ、不本意ながら諸星あたるを婿にしようとします。ところが中盤で一族の掟のルーツを調べてみると、代々、盲目的に先代の言いつけを遵守してきたが、実はその実態は、初代長老の世にも下らない思い出話(嫁とのファーストキスの記念とか、そんなの)が根拠であったと知ってブチ切れ、掟を無効化してしまいます。  まあ、クラマ自身はキャラとしてはあまり成功したとは言い難いのですが、ここには『うる星』全体を貫く「男性原理の否定」というテーマが如実に現れていますし、またそれは本作のみならず、いえ、オタク界のみならず、社会全体に濃厚に立ちこめていたムードでもありました。女性が男性を一喝してその価値観を否定、みたいな話がこの頃、本当に多かったのです。  こうした「既存の価値感を、別枠の価値で否定する」というのがフェミニズムの方法論であり、そのためリベラル君たちは腐女子を兵器利用しようしたのでは……といったことは、前回に指摘した通りです。 『フルメタル・パニック』は時代的にはもう少し後なのでしょうが、ハリセンで主人公をしばくヒロイン、美少女艦長、また有能な姉御肌のマオといった女性崇拝的なキャラ造形は非常に80年代的でした。合い言葉が、「アイ・アイ・マム」なのも『クロスアンジュ』の「イエス・マム」と共通ですね。  そもそもそれを言えば、アイドル美少女の歌で戦いの終わる『マクロス』(1982)こそがこの代表とも言えますよね。考えると『アンジュ』も歌が重要なモチーフになっていた模様ですが、ゲームでは歌が流れないので よくわかりませんでした 。  ちなみに『スパロボV』の全体を通してのラスボスは、何か「文明をリセット、再生するためのプログラム」みたいな、女性型のロボット。キャラクターたちの「愛」を理解できず、当初は機械的な声で「愛トハ何カ。理解不能」みたいなことを言っていたのが、いきなりヒステリックに切れ出す、というキャラ。正直、『ヤマト』(参戦したのはリメイク版だが、最初のアニメは1974年)がフィーチャーされているせいか本作の、殊に最終回は「愛」の大安売りで今一感心しませんが、このラスボスは声を演じているのが鶴ひろみで、『GS美神』(1992)の美神さんにしか聞こえません。彼女こそまさにバブル的な女性の時代のもう一端の共同幻想である、エゴの趣くままに行動する「ヒールとしての女性」像でした。  それをもうちょっとギャグ寄りにした、「エゴ全開の女の小悪党」となると、これは90年代に多かったイメージで、この頃には女性性もやや相対化されつつあったと言えます。本作では『マイトガイン』(1993)に出て来た女賊、カトリーヌ・ビトンがそれでした。  そう、あらゆる意味で『V』はスーパー80年代大戦であったのです。  いつも言うことですが、80年代末から90年代初頭のバブル期に、フェミニズムバブルもありました。均等法の影響で女性の社会進出が進み、CMなども「OLが中年男の上司を圧倒」的なのが多かったように思います。  上の一連の流れは、そうした大きな流れの渦中にあったものと言えますし、また、この時期「ライトセーバーを手に、ビキニ鎧で戦う戦闘美少女」が量産されたように、オタクの中の「草食系男子」的な性質が、美少女キャラへと自己投影させたという点もありましょう。いずれにせよ、男性のロールモデルが社会になくなりつつあった時期、オタク界はそれをかなりディフォルメした形で表現していたわけです。 「男性原理に一喝する美少女」も、実のところオタクたちは美少女の方にこそ自己を投影しており、例えばですがそうすることでクラスのジャイアン的なヤツであるとか、気に入らない連中に意趣返しをするといった意図も、どこかにあったことでしょう。  そうした「美少女との同一化」を経て、90年代のギャルゲーで「モニタを見る自らの主観」というワンクッションを与えられたぼくたちは美少女と距離を置いた、個と個の関係性という概念を得た。ゼロ年代に至るや(現実の女性に勢いがなくなってきたことも影響し)「残念女子」みたいな概念に萌えることも始めた……とまあ、「萌え史」の概観として、以上のようなことは今までよく言ってきたと思います。  しかし……この「幻想の女性との同一化」から、オタクではなく、「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」こそが、いまだ抜け出せていらっしゃらない気がします。   前回 の北田師匠の、腐女子へのストーキングはまさにそうでしょう(いえ、師匠がオタクだという自意識を持っているのかどうかは知りませんが)。彼ら彼女らが女性を、或いは女性性を「男性破壊兵器」として運用し続けていることはみなさん、おわかりかと思います。あまりにも平常運転で普段なら気にも留めないのですが、件の書はオタク男子ばかりかオタク女子までをも不幸に巻き込む、「仮面ライダーを倒すため平然と 戦闘員をも巻き込んで無差別爆撃を行う 」行為 * と言え、さすがにぼくの筆致も厳しめになってしまいました。 * 後で読み返して、こういうテーマの時であるにもかかわらず「味方を巻き添えにしつつMAP兵器で敵を倒す」といった形容を思いつかない辺り、ダメだと感じました。  ぼくは『クロスアンジュ』という作品そのものについて、殊更に賞揚しようとも誹謗しようとも思いません。しかし、あのラストの罵倒はちょっと、いただけない。  いただけなさが、ぼくに80年代を想起させてしまった。  そう、女性原理による男性原理の否定みたいなことを、「しかし、ドヤ顔でやっているのが男の作り手」という、倒錯したというか、気持ち悪いというか、そんな感覚。  しかし……「女性にモテないので仕方なく紙に美少女を描いて、その紙の上の美少女に何か、自分の思うところを言わせていた」という80年代のオタクの罪のなさに比べて、現代のリベラル君たちのやっていることはどうでしょうか。 「女性に寄り添っている」つもりでの、実は ネカマ同士のレズプレイ 状態。 「我こそは女性の味方なり」と絶叫しつつ、やっていることは男性の中の弱者を虐めることでしかない、 トランプ戦の時の町山智浩師匠 状態。  そう、彼らリベラル君は「オタクに乗り遅れ、二、三十年前の世界に取り残された人」であったのです。  ぼくは 少し前の記事 で、「腐女子どもの、男性原理を茶化すようなパロディ気質はムカつくが、とは言え、彼女らも悪気ではないのだ」と語りました。気難しいお父さんがお風呂に入っている時だけ無防備になるので、胸に飛び込んで行っているようなものだと。と同時に、つまり彼女らの「アニパロ」は「愛」であり、リベラル君たちの切望していたような「反体制」ではないのだとも仄めかしました。  そう、アンジュちゃんを見ていると思うのです。  エンブリヲはどう見ても、北田師匠にしか見えない。つまり、あの罵倒シーンはリベラル君たちが自分たちの気に入らない連中をやっつけるために持ち上げていた女の子たちが、ブーメランとしてリベラル君たちの下へと帰って行った場面なのだなあ、と。 「終わりだよ、北田暁大!」 「腐女子! この私が選んでやったというのに!」 『スパロボ』は言うまでもなくあらゆるロボットアニメの主人公たちが一堂に会し、戦うクロスオーバーゲームですが、そうした共演のため、本作では「次元震」により様々なパラレルワールドに亀裂が生じ、異なる作品世界のキャラクターたちが出会ってしまうことになります。  翻って『クロスアンジュ』は「敢えて80年代世界にタイムスリップすることで、80年代からやってきた悪者をやっつける」物語であったのです。 「今ならわかる。何故腐女子が生まれたのか。オタクはリベラルなんかに操作されないという遺伝子の意志! 何故腐女子が女だけだったのか。女性ジェンダーを守り、フェミニズムの世界を否定するため!!」  アンジュの罵詈雑言は80年代的ですが、それはあの80年代からやってきた悪逆非道の人類の敵を倒すための、やむを得ない措置でした。彼女は80年代をもって80年代を制したのです。 「私のガクモンを理解できぬ女など……! もはや不要!」 「何がガクモンよ! キモいグラフでミスリードしてて、文章のセンスもなくていつも斜に構えてる恥知らずのナルシスト!」  アンジュちゃんはエンブリヲを罵倒しながら、実のところこう言っていたのでした。 「確かに私は、アンタたちみたいな草食系男子のアニマ(心の中の女性性)から生まれた。私の口から出る言葉は、女の声に見せかけた、アンタたち草食系男子の心の声だ。でも、その声がアンタみたいな、自分よりも弱い者を殺すことを目的として発せられるのだとしたら、私はアンタに与さない」と――。
兵頭新児の女災対策的随想
「女災」とは「女性災害」の略。

男性と女性のジェンダーバイアスを原因とする、男性が女性から被る諸々の被害をこう表現します。



このブログでは女性災害に対する防災対策的論評を行っていきたいと思います。