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コミケの中心でオタク憎悪を叫んだ馬鹿者――『30年目の「10万人の宮崎勤」』(再)
ここしばらく続けている「オタク論」にまつわる再録です。
「サブカルはクリエイターを持ち上げることによるヒエラルキーの構築に腐心している」。
ここしばらく、そう指摘してきました。一方で、彼らはオタクを「ただの消費者」と位置づけ、見下している。
自分たちこそがまさに「何も生み出せなかった者」であるのに不思議だ、とも度々指摘してきました。
今回はそれらにつながる、六年前に書かれた記事を再録。
もっとも当時のそれからは不要な部分を削ぎ落として、多少の加筆を加えています。
では、そういうことで……。* * *
冬コミでゲットした『30年目の「10万人の宮崎勤」』。
本書はタイトルどおり、三十年前の宮崎事件におけるオタクについての報道を検証した本です。
宮崎事件というのは……詳しくない方は各自お調べください。
『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか』において、宮崎はまるでオタク文化の創始者であるかのように書かれ、海燕師匠が「デタラメだ!」と大袈裟に騒いでおりましたが*、「マスゴミ」がオタクの敵として可視化されることでオタクが団結するきっかけを作った、まあ、ある意味では功労者としての側面はあるなあと、ぼくなんかは思ったりもします。
今回語りたいのもそういう感じのことなのですが、まずは本書についてご説明しましょう。本書のテーマになっているのは、「事件当時、ワイドショーのレポーターがコミケに取材に来て、『ここには十万人の宮崎がいます!!』と絶叫した」という都市伝説の真偽です。そう、この都市伝説はかなり流布して信じられ続けていたモノだが、どうもウソらしい、というのが本書の要旨なのです。
なるほど、もしそうしたことが本当にあったなら、もうビデオも普及していた時期なのだから、絶対に映像が出てくる。ウソだと断言はできないが、まあ、ほぼそう考えて差し支えないのではないか……とぼくも思います。
が、同時に当時のオタクに対する世間の視線は、言ってみればそうした都市伝説が「いかにもありそうなこと」に思えるほどに、非道いモノであったということも事実のわけです。
しかし……ぼくが感じたのは、本書が当時の「オタク内オタク差別」こそが非道かったということの記録に(ちょっとだけ)なり得ているな、というものでした。
ぼくが本書を読んでいて一番興味深かったのは、取材に来た週刊誌の「差別的」なインタビュアーに対し、コミケのサークル関係者が同調し、「オタク」に対して苦々しげな罵倒をする様子でした。「べたっと油っぽい長めの髪に眼鏡をかけていて開襟シャツに肩掛けカバン。すぐに文句をつけ、自分に権利ばかり主張する(原文ママ)。宮崎のクローンみたいな連中ですよ」(サークル関係者)
週刊文春1989年8月31日号「ロリコン5万人 戦慄の実態 あなたの娘は大丈夫か」
(12p)
「ロリコン5万人」というフレーズといい、「もう、この三十年前の文春砲こそが件の都市伝説の出所ってことでいいんじゃないか」と言いたくなる非道い記事ですが、それよりも引っかかるのは著者のdragoner氏が「コミケ参加者による身内批判になる」と言うのみで、まるでこのコメント自体には問題がないかのような断り書きを入れている点です。
当時は「俺だけはこいつらの仲間じゃない」と仲間であるはずの他の連中を、憎悪に狂った目で罵倒することが「オタクしぐさ」でした。それはまるで、デスゲーム漫画で「最初にその場から逃げだそうとして真っ先に殺されるキャラ」の如くに。
しかし、では、こう答えたサークルの彼は真っ先に殺されたのかというと、そうではない。恐らく、今やオタク界の中央でふんぞり返っていることでしょう。
その証拠に、本書には現在コミケスタッフを務めている兼光ダニエル真師匠への取材もあるのですが、彼は当時の作家たちについてエロパロとかやってたんですが、買った人に対して「ハハ! こんなのお前ら好きなんだよな!」と小馬鹿にするような、最後のページをめくるとオッサンの顔が笑ってるとか、そういう非常にロックな作風で、とろろいもと言えば、我々の世代の共通認識として刷り込まれています。
(29p)
などと忘我の表情で追想しているのですから(奇妙な名前ですが、「とろろいも」というのは同人作家のペンネームです)。
この「ロックな」という表現と共に、文中では「パンクな」との形容も飛び出しております。たまらなく恥ずかしいですね。
近いことは『ニューダンガンロンパV3』の時にも書きました。当時のオタク界は(今でもそうではあるけれども、輪をかけて)「クリエイター様エラい主義」が濃厚で、選ばれたエリートたるクリエイター様が本を買うだけのゴミクズのような消費者に過ぎぬキモオタどもを貶める様が絶対的な正義として、快哉を浴びておりました。そう、上のサークル関係者の言、今なら絶対にネットで炎上してしまう類のものですが、当時は普通だったのです。「俺たちはこいつらの仲間じゃない」とコミケの自分のサークルのエロ本の列並んでいる連中を、憎悪に狂った目で罵倒することは「オタクしぐさ」として正当化されていたのですから。そんなことが、業界の上の連中によって(オタク雑誌にオタクを侮蔑する記事をバンバン載せることによって)主導されていたのですから。
かつてはそんな挙動に出ていた一部の人々は(兼光師匠自身がそうだとは言いませんが)「歴史修正」に邁進し、自分たちこそがオタク界のトップであり、オタクの味方なりと絶叫を続けていますが、その内心は今も変わらぬ、オタクへの憎悪で満ちています。違うのは『嫌オタク流』の作者と違い、オタクを金づるにした、ということだけです。
そして……先に書いたことは、この事件がオタクを団結させるきっかけを作ったことで、「オタク内差別」が終焉したのでは……ということなのです。いえ、実際には「オタク内差別」なんて今でもあるわけですが、「俺だけはオタクじゃない!」と絶叫していた人々が「オタクの味方のフリ」をしている現状は、考えようによっては当時よりも遙かにマシなわけです。
……が。
しかしそれは同時に、もう一つの史観も描き得ます。
それはつまり、「オタク界のトップ」が「マスゴミ」を仮想敵にすることでオタク界を統一した、という考え方です。いえ、本書で頻出するコミケ関係者たちをこそ「オタク界のトップ」であるとするならば、この時期より以前から統一されていたと言えるのですが(ネット以前のコミケやオタク雑誌なんて、ものすごい影響力がありましたしね)、「マスゴミ」を仮想敵にすることでより支配力を高めたのでは……といった史観も成り立ち得ます。
何しろ、上の兼光師匠のインタビューでは、延々延々と宮崎事件と直接関係のない表現規制問題とやらが実に饒舌に語られ、読んでいていささか辟易としました。
更に、また別なスタッフへのインタビューでは「(この当時の表現規制問題は)宮崎事件が火元といえば火元」との答えが返ってきています(39p)。
そりゃあ、「間接的影響があった」とすれば何でも言えてしまえますが、しかしこの時期の規制問題は第一に、まず「メジャーな小学館などの雑誌にわいせつな漫画が」ということが発端であったはずです。
つまり本書は、図らずも「宮崎問題」を「表現規制問題」へとすり替えていこうとする「オタク界のトップの手つき」の記録映像となってしまっているのです。
逆に、彼らの言を見ていて(他の場においても常に)疑問に思うのは、宮崎事件は当時「ホラーオタ、特撮オタ」の犯罪とされた側面が何よりも強かったはずであるにもかかわらず、そこに対する言及がまず、ないことです。事実、当時はこの事件の影響で『仮面ライダー』が打ち切られている(『RX』の後番組が考えられていたのが、頓挫している)のですが、不思議と彼らはこれには触れない。
というのもやはり彼らが「エロ本屋さんの論理」で動いているからです。
もちろん、それは彼らが「エロ本屋さんだから」であり、それはそれで悪いことではないかも知れません。しかし、『仮面ライダー』の打ち切りには一切の興味を持たず、裏腹にろくでなし子が逮捕されるや、ホモの男児へのレイプを擁護した時のフェミニストくらいの勢いで擁護するエロ本屋さんが、果たしてオタクの代表であり味方であるかと言われると、微妙なのではないでしょうか。
ぼくが「オタク界のトップ」の手先を「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」と揶揄すると、「俺はオタクだ」とすごく心外そうな顔をしてきます。それは確かにそうであろうし、大変申し訳ないのですが、しかしそれでも、やはり彼らのトップは、少なくともオタクの誠実な味方ではなかったということが、本件からもわかろうというモノです。
最後に、先のスタッフインタビューに戻りましょう。
インタビューの締めでは今のコミケやオタクの状況について、スタッフ(市川孝一師匠、里見直紀師匠)が語ってくださいます。市川:昔から比べれば、住みやすくなったし、オタクって自分から言いやすくなった。昔は自分からオタクって言うこと自体が難しかったんですけど、今はもうオタクって言いやすいし、親にもコミケット行くって言っても今は普通になっているし、「晴れてきたな」って気がしますね。
(43p)
将来の明るさを暗示するかのような言葉です。市川:中にいる人のほうがイキりすぎなんですよね。外からのほうがだんだん柔らかくなっていますよ。
(43p)
市川:ホントはもうちょっと中にいる人の方がオープンになるべきだと思いますけどね。
(中略)
里見:もう被害者意識はいいんじゃない? って気はしますけどね。
(44p)
……って、全然被害者意識が晴れてないやないかいっ!!
この「中/外」という物言いは「コミケ、ないしはオタク界の中/外」という意味で使われているのですが、オタクのコンプレックスが解消されていると言っておきながら、いまだオタクがマスコミを敵視していると苦言を呈するのは、単純に矛盾しています。見ていくと「若い人の方が気にしていない」との指摘もあり、そう考えれば一応の辻褄はあうのですが、それならば「過去に非道い目に遭った世代は簡単に被害者意識を覆すことはできない」のはある意味、当たり前のことでもありますし、そこを「若いヤツは屈託ないんだからお前ら老害も被害者意識なんか持つな」という物言いは、あんまりでしょう。
何よりぼくが気になるのは、このスタッフたちの言葉が「30年前のあの日の、サークル関係者の言」と、「完全に一致」を見ていることです。
「ここには十万人の宮崎がいます!!」と絶叫したワイドショーのレポーターは、恐らくいなかったことでしょう。しかし「マスゴミ」の取材に対し、お追従笑いを浮かべながら「ここには十万人の宮崎(のクローン)がいます!!」と絶叫したオタクはいました。
そしてそのオタクが何者だったのか(今では名を成している漫画家さんなのか、無名でとっくの昔に脱オタしているのか)は、もちろん今となっては確かめようはありません。しかし一つだけ言えるのはそんな彼の同年代が、今や「オタク界のトップ」の座に着いているのだ、ということです。
あれから三十年。オタクは変わりました。
オタクを取り巻く環境も大きく変わりました。
しかし、「自らをオタク界のトップだと思い込んでいる一般リベ」の「オタクに対する態度」だけには、少しも変化がなかったのです。
* もちろん、当該書がデタラメに満ちていることはぼくも指摘したとおりなのですが、呆れたことに師匠、この時点で本を通読していなかったと言います。そうした不誠実な態度で期を見るに敏な振る舞いをする者は、メリットが多くて羨ましゅうございます。 -
(フェミ)女だけの(萌えのない)世界へようこそ
まあ、言うなら萌え要素を全て抜いた萌え四コマですわ。これ。
正直、頭のてっぺんから(……ではないか。後述)尻尾の先まで「何じゃこりゃ」の連続で、非常にレビューしにくいです。
しにくいんだけど、こんなものに三千近くも投じてしまった以上、読んだだけで終わりというのも悔しく、何とか記事のネタにしてみようと奮闘したのが本稿です。
本書、Xでやたらとみんなが騒いでたんですな。
何しろ「女だけの街」というのは日本のフェミニストたちも定期的に持ち出すテーマ。
いえ、海外においては実行したモノの散々な結果に終わったという例がいくつもある……といった歴史的事実も有志によって掘り起こされ、知られるようになっています。
本書のテーマもそれだということはタイトルだけで自明ですが、出版社が太田出版(何と言うんでしょう、『クイックジャパン』とか『絶歌』を出してるところです。いえ、いい本もいっぱい出しているんですが)、解説が瀧波ゆかり師匠とあっては、まあ、ある種、日本のフェミ事情も鑑みての(話題になりそうだとの計算での)出版、ということでしょう。
いや、それはいいんですが……正直、読み通して途方に暮れました。
イントロダクションこそ世界中で女児しか生まれなくなり、男性は緩やかに滅んでいくという状況に加え、天変地異が起こり文明が失われる――といった衝撃的な幕開けなのですが、さて、「だが、女性は死滅していなかった!」という本編開幕以降は……なぁ~~~~~~~んにも起こりません。
先にも書いたように「萌え四コマから萌えを引いた状態」が延々延々続くのです。
男性絶滅以降は1、2pごとに話が次々と変わっていき、要はとりとめなくエピソードが団子のように繋がっているという感じ。想像ですがこれ、一回1、2pで完結している連載漫画をまとめたものじゃないかなあ(あとがきを見るとインスタグラム連載だそうです)。それなら副題をつけるなどして、ちゃんとそれぞれが別な話とわかるようにしろって思いますが。
ともあれ描かれるのはとりとめのない日常のシーンの連続。例えばですが『サザエさん』とかを単行本で読んでると(いや、読んでる人も少なそうですが)当たり外れがあるじゃないですか。「あぁ、この日はネタが思いつかなかったんだな」と思わせる、捨て回。
本書はそう、フェミ版『サザエさん』であり、『サザエさん』であれば捨て回が1:19くらいの割合で存在するところが、19:1くらいの割合で存在している、という。
あ、誤解しないでくださいよ、二十本のうち一本は面白い、と言っているわけではありません。「一本くらいは何とか意味のわかるものがある」ということです。
例えば以下のような具合。文明崩壊以前(まだ男性がいる時代)を知る老婆が幼女に「男たちが魔女狩りで不当に女を弾圧した」という歴史を教える。それを聞いて幼女が言います。
「でも魔法が使えたなんて格好がいいわね」
「いや、とんでもない。殺された女たちは魔女などではなかった。冤罪だったのだ」
「でも、男たちが絶滅したのは魔女の呪いなんじゃないの」
「ぎゃふん」どうすか。
いえ、どうすかと振られた方もお困りでしょうが。
魔女って言っても男もいたし、この史実をどこまで男女の対立の問題として理解していいのかは疑問ですが、「男性が絶滅した」がフィクションである以上、ここに風刺性はないし、立ち現れているのはフェミの男性憎悪だけでしょう。
でもこれは一応、話の流れがわかる、二十分のうちの一本なのです。
もう一本見てみましょう。ある女性が寝そべっている女性に髪を切ってくれと頼む。頼まれた女性は「なぜ切る必要がある? 従来、長い髪は豊饒と安産の証として女性らしさを表していたのに」。
ところが頼んだ方は「起き上がりたくないだけでしょ」と反論。頼まれた方はそれに頷き「えぇ、起き上がらなくて済むなら何だって言うわよ」。何だこりゃ。
働きたくないが故に詭弁を弄しているという流れがわかるので、一応漫画としては何とか成立しているのですが、フェミ漫画としてはどうでしょう。女性性にまつわるテーマだけど、要するに何が言いたいかわからない。長髪を肯定しているとも、それを否定するフェミ的なドグマに従順とも思えない。「何だこりゃ」以外に感想がない。この本はこういうのがやたら多いんですね。
そもそも主役格といっていいガイア市長、全裸で変人扱いを受けていますが、何故全裸なのかがわからない(本人は風が気持ちいいからなどと言っているのですが)。
一番奇妙なのはごく当たり前のごとくキャラクターが全員レズビアンであることで、しかしそれは普通のこととして詳述されない。作者にしてみれば「男という悪者がいなくなれば女たちは理の必然としてみなレズになる」というのが「常識」なのかなあ。
要するに創価学会の機関誌に連載されている漫画の主人公が創価学会の信者であり、創価の教義を実践していることが説明不要であるように、ヒッピー的価値観、ヌーディスト的価値観、レズビアン的価値観がこの作品においては説明不要なのでしょうな。髪の件にせよ、「ロングヘアなど言語道断」が本作の根底を貫く価値観なので(いえ、登場人物にロングもいるのですが)、フェミである登場人物が非フェミ的なことを言うのが笑いどころなのでしょう、きっと。
他にも女医は乳房を切り取り、平板な胸に傷痕があるのですが、それについては全く説明されない(やっぱり女から男になったトランスだけど、それも「女」としてカウントされるというリクツなのかなあ?)。
それに実のところ、上に書いた老婆もトランス(男から女になったと思われる)と思しいんですが、それは本人がちらりともらすばかりでそれが話に絡んでくるでも、バックボーンが語られるでもない。
敢えて言えば「キャラクターたちが何だかんだ言いつつ受容しあっている」みたいなのを描きたいんでしょうが、ドヤ顔で表現されるほどのことでもないよなあとしか。しかし「何じゃこりゃ」な読後感の後、役者である山本みき師匠のあとがき、瀧波ゆかり師匠の解説を読むと、やはり「信者」には本作がちゃんと刺さっていることがわかります。
まず山本師匠。
この世界の女たちは化粧をせず(これは山本師匠の想像で、そう明言されているわけではないのですが)、簡素な服装でのびのび。「旧時代の遺跡」として登場するポスターなどの女はケバケバしい化粧。つまり男たちの仕組んだルッキズムからの解放というわけです。まあ、正直そうした描写はあると言えばあるのですが、ぼくはあまり気にせず読み進めてしまっておりました。ぼくの読みが浅い、との批評もできますが、これ自体が「女が気にしてるようなことを、男は別に気にも留めない」ことの証拠と言えるのではないでしょうか。よくありますよね、女が髪切ったのに男が気づかないみたいなの。
またトランスの老婆が孫に「女とは何か」と問われ「何かによって女と決まるわけではない」と諭すシーンが挙げられ、山本師匠はそれがトランスの口から語られることに意味がある、女は多様だとのメッセージだと評します。
いえ、じゃあそもそも「男が絶滅した」という設定はどうなっちゃうんでしょうか。「絶滅しなかった者が女」という明確な定義づけが、本作ではなされているんですが、それは。
例えばですが、「基本、XY遺伝子の持ち主は生まれなくなった。が、どういうわけか例外的に生まれてくるXY遺伝子の持ち主はジェンダーが女性であった」などすればそれなりに作者の意図も反映されてるなと思えますが、別にそういう描写はありません。
「女は多様だ」と抜かしながら男のことは極めて安直に決めつけるフェミの矛盾がここにも露呈しているわけです。
にもかかわらず山本師匠は本作は男を敵視しているわけではない、本作は人間賛歌だとおおせです。まるで包丁で五百回滅多突きにしておいて「殺意はなかった」と言う容疑者みたいですなあ。次、瀧波師匠の解説についても述べましょう。
本書の中でもここが一番騒がれた箇所なので、部分的にでも読んだ方が多いでしょうし、ぼくの感想も被ってしまうのですが、まずタイトルが「横槍の尽きない旧世界より、愛をこめて」と題されているのが大笑い。
ここで師匠は「女だけの街」論議において男たちが決まって「女だけで力仕事ができるのか、インフラを保てるのか」と横槍を入れてくることに文句をつけます。明言されてはいませんが、そこには「『俺たちを捨てないでくれ』との、男たちからの求愛」との被愛妄想も含意されているのでしょう。
もう一つ、一番騒がれた箇所にもツッコミを入れておきましょう。だったらなんだというのだろう。女だけで暮らしてみたら非効率で、経済が破綻して、一代で滅びる。それでけっこう。なぜならそこに住みたい女性たちは、経済よりも子孫繁栄よりも何よりも、男性たちから加害をされずに生きていきたい、その一点を強く求めているからだ。
まあ、いい気なモンだ、といった評がなされたと思いますし、ぼくもそれに賛成です。
師匠自身「女だけの世界」を「村にあるのは緩やかな自治とささやかな医療」があるだけと評していますし、そんな中で素っ裸の市長は正気と思えませんし、そんなヤツを市長に選んでいる連中も正気とは思えませんが、「死んでもいいから男に加害されたくない」のでしょうか。
本当に死ぬ覚悟ができているならそれはそれで一貫していますが、そうなんでしょうか。
何だか近年、フェミがセクハラのゴールポストをどんどんどんどんずらしていったおかげで女性にAEDを使うことがためらわれ、重度障害者になってしまった女性について騒がれましたが、それに対してもやむを得ない犠牲だというのなら、一貫してはいるのですが。
そもそも男の側は彼女ら、つまりフェミに対しては「横槍」と言うよりはむしろ「お願いだから一刻も早く女だけの世界へと旅立ってくれ」と言っているように、ぼくには思われるのですが。
あ、でも幼女は連れて行かないようにね。彼女らは一代だけで終わってもいい、最後に残る若い世代がどんなに苦しんでも、自分たちの死後のことだからどうでもいい、と考えているようですし。幼女タンは男の加害のない中、食うものもなく苦しみ抜いて死ぬと思いますけど、よかったですね!
また、そこまで言いながら以下のように言っているのもいい気なものとしか。新世界の女たちは、旧世界の女性の受難を知らない。生理痛に苦しむイナをケアしながら、ララは言う。「きっと旧世界でも、生理痛の女は丁重に扱われてたんだろうな」。
正常な人間なら、ぽかんと口を開けて「はい、丁重に扱われてましたよ」と頷くばかりでしょうが、ここまで来ればおわかりでしょう、「旧世界では生理痛になった女は死刑だった」というのが瀧波師匠の信念なのです。
何しろ「ささやかな医療」しかない村より非道いとなると、それくらいだったことはもう、疑うまでもありません。
要するに全てのフェミと市河大賀のポスト同様、本作は100%妄想の産物なのです。しかしまー、何と言いますか、何より「やっちゃった」のは「レズが普通」描写ではないかなー、と。
考えてもみてください。アンチフェミによる「男だけの世界へようこそ」が描かれ、それが男がみなホモという話だったら、誰もついていかないでしょう。
女性一般のレズに対する抵抗感は男性一般のホモに対するそれに比べ、遙かに小さいと言えますが、それでもこれを読んで、「女だけの世界に棲みたい!」と思う日本人女性は圧倒的少数でしょう。
ゲイの評論家伏見憲明氏は『プライベート・ゲイ・ライフ』において「レズを自称するヤツってほとんどフェミで、政治的動機でそう自称しているだけに見える(大意)」と述べましたが、上野千鶴子師匠の結婚を見てもわかるように、このレズ文化、日本のフェミにはほとんど根づいていないように思われます。
本書において、ぼくがいつも指摘するような「男は要らないと殊更主張することにより負の性欲を満足させる」といったムードはあまり感じませんでした。おそらく実際にはそうした動機があると思うのですが、少なくとも本書には「ほら、ここにそれが隠れているぞ」と指摘するようなシーンはありません。
何しろ、男性が絶滅した以上、そうした描写を入れるわけにもいきませんし(いや、第二巻では「生き残っていた男たちを虐殺する」なんてシーンが入るのかもしれませんが)。
しかし、それこそが、つまり今のフェミブームを形作っている「男への欲情」に寄り添っていない点こそが、本書の敗因ではないかと。
いえ、万一売れたらこちらの予想の外れ、ということになりますが、こりゃ売れんだろうなあとしか。 -
盗作はロボット軍団への反逆である
どうも、盗作家・兵頭新児です。
そしてまたある時は、悪のロボット軍団と戦う正義のヒーローです。
ネット界が悪のロボット軍団に支配されていることはみなさんご存じでしょうから、それは措くとして、ここはまず盗作についてお話ししましょう。
それはまだ、兵頭が高校生だった頃。クラスでその当時最新の戦隊のEDテーマを口ずさんでおりました。――テイクオフテイクオフ♪
そこに、音楽好きのSが現れ、言ってきました。
――いい歌だな。詩を書いてくれないか。
いや何で急に「詩を書いてくれ」となったのか、記憶も定かでないのですが、ぼくの歌に感心して作詞を依頼されたという経緯は間違いなく、今から思うとつながりが不明ですが、歌の詩に感銘を受けたんじゃないですかね。
さて、まあ、しかしせっかくの頼みなので詩を書いてみました。
Sにもなかなか評価され、感謝されました。いや、そいつも作曲をやっていたといった話は聞かず、結局その詩はどうなったのかわからないのですが。
が、ちょっとしてそのSが「お前盗作すんなよ」とこちらを詰ってきたのです。
その隣ではまた別なクラスメートのGがこちらをバカにしたような目で見下ろしながら、「テイクオフテイクオフ♪」とドヤ顔で戦隊EDを口ずさんでおりました。
おいおいおいおいおい!
どうもそのGが「兵頭は盗作家だ」と吹き込んだらしく、その根拠は「兵頭の詩にテイクオフというワードが使われていたから」ということらしいのです!!
そもそも作詞を引き受けた経緯もうろ覚えですが、Sがぼくの歌う「テイクオフ」という歌詞を聴いていたのは間違いなく、或いはその歌の詩をアレンジしろと頼まれたような気もします。
いずれにせよぼくの書いた詩、さすがに残ってはいないものの、その「テイクオフ」以外にことさら似た箇所はなかったはずです。
そこを「テイクオフだから盗作だ」と言われても。
世の中の歌に「テイクオフ」という詩が出てくるものは無数にあると思うのですが、実はそれらは全て、戦隊の盗作だったんですね。
いやねー、でも世間ってそんなですよ。
島本和彦氏はラジオ番組をやっていたのですが、代表作の『吠えろペン』のタイトルを『太陽にほえろ』からいただいた、と言ったところアシスタントの女性に「盗作だ盗作だ」と言われ、顔を顰めていたことがありました。
ましてや高校生なんて世界が狭いですから、「テイクオフ」という言い回しがありふれたものと理解できず、自分の少ない知識が全てで、「あ、戦隊の歌詞だ! だから盗作だ」と短絡しちゃったのでしょう。――さて、ここまでくどくどと述べてきましたが、本稿はアレです、唐沢俊一論の続きです。
唐沢俊一論――評論家に戮された人たちというのは、唐沢俊一氏を潰したのは「悪のロボット軍団」であったという事実が判明したからなのです。
ちょっとここで、星新一のエッセイに書かれていた話を持ち出しましょう。
おそらく五〇年ほど前(1970年代)のことなのですが、コンピュータが歌を作ったと騒がれたことがありました。もっともこれは他愛ない、音楽のデータを膨大に入力されたコンピュータがそこからランダムにサンプリングした、そういったことであったと思います。そして近年のAIについて、ぼくは全く知識を持たないのですが、それもこれの高度になったものと考えていいのではないでしょうか。
ともあれそのコンピュータ作曲の歌を当時の人気歌手、坂本九が歌い、「盗作の歌のようだ」との感想をもらした、とエッセイにはあります。
星新一はそれに続け、「人間の場合は仮に似ても偶然の一致など、一概に言えないが、これは人間不在であり、明確な盗作だ」としていました。
そう、人間の場合「偶然似てしまう」ということがあるわけです。――いや待て兵頭。唐沢の場合は明らかな盗作ではないのか。偶然似たとは言えまい。
そりゃわかってます。
ご存じない方は前回記事をご覧いただくか、調べていただきたいのですが、唐沢氏の場合は「とある作品のプロット紹介を、ブログ記事から無断で引用した」ことが問題であり、これは「偶然似た」とは考えにくい。
しかし同時に、前回にも述べたようにそもそもプロットの要約なのだから、「クリエイティビティというものの盗用」であったとは言いにくいのです。
同様に、「偶然似てしまった」場合は「前例があることを知らず、同じ道を辿った」わけだから当人は同様のクリエイティビティを発揮したのだと言うしかなく、やはり「クリエイティビティというものの盗用」とは言いにくいわけです。――なるほど、そうなると共通点があることは認めるが、それで唐沢を正当化するのは無理筋じゃないか。
いやだから、ぼくは前回から、「唐沢氏は悪くない」などと一言も言ってませんって。
ぼくが言っているのは「唐沢氏を叩いた者は悪い」です。
何となれば、彼らは「悪のロボット軍団」の手先なのですから。
そうそう、以前にも書いたことですが、やはり星新一のエッセイでは再三繰り返し、海外の学者の言葉が引用されています。
「機械がいかに人間に近づこうが、それは脅威ではない。人間が機械に近づくことこそが脅威だ」。
ぼくはこれをオタク文化が一時期の勢いを完全に失い、前例に似たものを作るばかりのソシャゲやYouTube動画、SEO様のお告げ通りに記事を書くネットライターなどへの「予言」として紹介しました。『ハンチョウ』対『野原ひろし』空中大激突
ぼくはそれらを「オタクの敵」認定すると共に、いつも腐す左派とはまた一線を画した存在(少なくとも直接の関係はない)ともしていましたが、「左派的な価値観で自由を縛ろうとするグローバル資本主義」をロボット軍団の黒幕とでもするならば、やはり似たもの同士、両者は「同じ黒幕に差し向けられた悪のロボット」であるとは表現し得る。
そして、冒頭に挙げたぼくの高校生の時のクラスメートGの例、これはまさしく「自ら機械に近づこうとしている人間」、言い換えれば「ロボット軍団の軍門に降った人間」の姿ではないでしょうか。
だってこの人はぼくの詩の「クリエイティビティ」というモノを(それがさほどあったか否かは措くとして)認めることができず、共通のキーワードを見た瞬間、それを盗作と認識してしまったのですから。
何かからパクっただけのYouTube動画、SEOで検索されているキーワードを抜き出し、それらをウィキの記述から切り貼りしただけの、「意味」というものを一切持たないネット記事。
これらは悪の軍団の「人間ロボット化作戦」の一環です。
いえ、もちろん、Gを見てもわかるように、普通の人々の認識はその程度のものであり、クリエイティビティを認め、楽しむだけのリテラシーは最初から、持っていなかったという辺りが、結論なのでしょうが。ちょっとここで疑問に思った方がいるかも知れません。Gはぼくの作を盗作だと言い立て貶したが、翻ってネット民はクリエイティビティのない動画をおとなしく受け容れているではないかと。
そう思った方は非常に鋭い。
確かにそれはその通りです。
しかし先にも述べたように、両者とも「クリエイティビティ」というものに価値を置いていないという意味で同じ、ということに気づいて欲しいのです。
唐沢氏のやったことは明確に盗作で悪いことであった。
が、彼を潰そうと大騒ぎした連中に、クリエイティビティを云々するだけの知恵はなかった。先の記事で言及した作家さんにおいても、それはそうでした。いえ、作家なのだからそうした批評眼がゼロであるはずはないのですが、唐沢憎しの感情に取り憑かれ、まともな判断力を喪失していた。
それは、非常におぞましいことなのではないでしょうか。
彼らは夥しいYouTube動画がある種の「盗作」によって成り立っていることを知っている。
しかし彼らの中でそれに声を上げた者は、おそらく一人もいない。
だって「盗作」とは「敵」に投げつけ、そいつを潰すための「攻撃呪文」でしかなく、クリエイティビティという尊いものの簒奪などでは全く、ないのだから。ここでみなさん、「女災」について思い至っていただきたいと思います。
今年に入って松本人志氏、ジャンポケの斉藤氏と極めておかしなことになっていることは、ご承知かと思います。
女災のおぞましさは「被害者だと最初から決まっている方の性」の鶴の一声で全てが決まってしまうこと、逆に言うならば女性の合意があったか否かという極めて曖昧で立証の困難なことを根拠として成立していることです。
盗作問題もやはり、同じ構造が見て取れるのです。
星新一が重要だと指摘した、人間のクリエイティビティというものは極めて曖昧で立証困難なものなのだから。話題としてはちょっとずれますが、そもそもがオタク文化というのはパロディから始まったものでした。
例えば、美少女コミック誌(という名の、商業同人誌)においてはクオリティの低いものが多かった、ということは先の記事でも述べましたが、そこでは時々あからさまなパクリがあったものです。
パクリとパロディの境目もまた曖昧ですが、数ページに渡り構図からセリフまで同じ、それを違うキャラにやらせているだけ、なんてのもあったのです。
しかしそれを言うなら庵野もそうですよね。
『ナディア』を観れば『ヤマト』だ『サイボーグ009』だ『ノストラダムスの大予言』だ『日本沈没』だと「引用」に継ぐ「引用」です。
そこで何故庵野が許されているかとなるとやはり作品全体を見渡せば、そこにクリエイティビティがあるからとしか、言いようがありません。
ぼくはここで唐沢氏について、書籍全体にはクリエイティビティがあるから許せと言っているわけではありません(クリエイティビティは大いにあると思いますが、引用は引用と名言することは、書籍においては当たり前のルールですから)。
ぼくがしているのは所詮クリエイティビティのあるなしを云々する見識のない輩が盗作だ盗作だと騒いで作家を潰すことができるのであれば、それは女災と変わらない、政治的な敵をいついかなる場合でも好き勝手に潰せるキャンセルカルチャーに他ならない、という指摘なのです。
ある時期のオタク左派は、明らかにそうした「圧力団体」として機能していました。
いつも言う「ガンダム事変」、「薔薇族事変」はそうした圧力団体によるフェミ擁護でした。
しかし、幸いにして表現の自由クラスタという名の圧力団体も、既に力を失ってい(るようにぼくには見え)ます。
ちょっと前、「男性差別」という言葉の危うさについて述べました。
それは端的に言うなら「悪」の使っている武器を「自らも持とう」とすることへの危惧でありました。
それと同様に、敵対的な陣営相手に互いに「盗作だ盗作だ」と攻撃し、相手を潰すという泥仕合がこれから盛んになる、と言う未来図も描き得ますが、好ましいことではありません。
ぼくたちは「キャンセル抑止力」で互いに睨みを利かせあう未来より、「悪」の持つ武器を破壊することで自由を取り戻す未来をこそ、目指すべきではないでしょうか。
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