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兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑 ⑧『らんま1/2』――負けヒロインが多すぎる!
はい、今回のテーマは「負けヒロイン」です。
私くらい最先端になりますと、今ヤングの間で大流行のコンテンツ名にも詳しいのですが……すんません、実際の内容は知りません。
本稿で言う「負けヒロイン」とは言うまでもなく「天童あかね」なのですが、それはちょっとおいて、まず「藤江田純子」について語ってみましょう。
え? 聞いたことない?
しょうがないですねえ、最低限の説明をしますと『GOD SAVE THE すげこまくん!』の登場人物です。「すげこま」という問題児が毎回大暴れして、温厚でお人好しな美人教師「松沢まみ子」がそれを収めようとするも結局セクハラに遭ってしまうというギャグ漫画。『がきデカ』のようなものをイメージしてもいいのですが、絵のタッチは垢抜けたもので、セクハラもお色気として売りになっておりました。そして何より主人公のすげこまは肉体的にはひ弱なマッドサイエンティストであり、科学力をもって松沢先生や周囲に迷惑をかけまくるのです。ナーズ的、オタク的なコミュ障性、被害妄想気味の病んだ精神性を持ったキャラとして設定されており、何より松沢が好きだからこそ意地悪をするという、これは一種のラブコメとして描かれていたのです。
藤江田は生真面目クラス委員長で、言うならば「イド」であるすげこまをやっつける事態の回収者であり、「超自我」を司るキャラと言えましたが……同時に負けヒロインでもありました。
劇中では飲んだくれの母親に代わって家計を切り盛りしつつ、進学しようと奨学金を狙う苦労人で、後日談では総理大臣だか大統領だかになったと示唆されるなど作品の中の位置は高いのですが(何しろ当初はすげこまに対抗し得る唯一の存在でした)、読後の印象は薄い。
申し訳ないけどロングの黒髪にきつい表情という美少女キャラとしては地味なビジュアルが、そこまで受けるとは考えづらい。これはまさに天童あかねもそうですね。
さて、長期連載を勝ち取った本作、中盤でてこ入れとして「土屋美奈世」という美少女キャラが登場します。家が大金持ちでやはり超科学を駆使してすげこまに対抗。すげこま同様に病んだオタク気質、電波的性格を有しているものの同時にすげこまを密かに想っている。そのビジュアルも派手な美少女で、当時、放映を開始した『エヴァ』のアスカを、どうにも連想させるキャラとなっていました。
この美奈世、立ち位置としてはシャンプー的で、あくまでぼくの想像ですが地味な藤江田に代わって投入されたキャラと思しい。単行本の美奈世初登場回の前回(連載時、前回だったのかは知りませんが)では藤江田が普通の女子高生のような煌びやかな生活を送れないことを嘆くのですが、その時「普通の女子高生」としてイメージするのが、どういうわけか美奈世そっくりの美少女でした。
これはおそらくですが、藤江田というキャラが今一、支持を得られなかったことに対する作者の無念さがさせた描写かと思われます。いえ、キャラクターデザインがあだち充的に偶然似ただけという可能性も――(以下三百文字検閲)。さて、先に書いたようにこの両者の関係はあかねとシャンプー、そしてしのぶとラムの関係に似ています(藤江田は恋愛相手としては設定されていませんが)。よく知られるように『うる星』ではしのぶがメインヒロインだったのが一度きりのゲストキャラであるラムが予想外の人気を博し、メインヒロインに昇格、当初はそれでもラム、あたる、しのぶの三角関係で話が進んでいたのが、やがてしのぶは「数あるヒロインの中の、目立たない一人」という立ち位置にまで降格させられてしまいました。
ちょっと資料など示せないのですが、「異界から来た美少女」はこの当時より以前は、むしろ「当て馬」、まさに「負けヒロイン」となることが多かったような気がします。『夕鶴』など古典的「異類婚姻譚」も基本、バッドエンドが多かったようです。
そこを、ラム人気を取り入れた辺りに、(そもそも本作が当初はラブコメではなくもっとドライなギャグ漫画が志向されていたと思しいことを含め)高橋留美子の大衆作家としての柔軟さが窺えます。――さて、長くなりましたが『らんま』です。
本作もかなり連載の早い段階で「路線変更」がなされ、「本来のヒロイン」が「負けヒロイン」と化した。
では、その当初予定されていた「路線」とはいかなものだったのだろう……というのが本稿のテーマです。
まずは――世間ではほとんど言われてはいないけれども、既に何度か書いているように、ぼくにとっては自明なことなのですが――本来の本作は、「天童あかねの私小説」として設定されていました。
連載当初にのみ描かれるあかねが男嫌いという設定、これこそが本作の根幹になるはずだったのです。あかねの初恋の相手は、やはり初期で姿を消してしまう東風先生。この優しく男性を感じさせないお兄さんへのほのかな感情と、同世代のがさつな男の子たちへの忌避感に揺れるあかねというのが、初期の構造でした。
そうして見るとなびきはそのネーミングが現すように、当初はカネではなく、明らかに男好きとして設定されていることがわかります。つまり、あかねのネガという立ち位置が想定されていたわけです。かすみは東風先生に想われているということからもわかるように、明らかにあかねの母親の代わりとして配置されています。言うなら、星一徹だったんですね。
具体的な路線変更としてまず、あかねは髪を切ります。これは突発的なできごとではあったけれども、彼女が姉に対抗し、東風先生の歓心を買うために髪を伸ばしていた(女性的になろうとしていた)ことが語られ、その気持ちを振り切ります。「髪」というのは言うまでもなく女性にとって「情念」そのものを現すものですが、それをばっさり切ることで作中からもあかねの「内面」をカットしてしまった。ここで『らんま』における「あかねの私小説」ルートへのフラグは折られてしまったんですね。
これらはみな、実際に初期話数で描かれていることです。「解釈」はぼく独自のもので作者が語ったりしたことではありませんが、まず、間違いがないのではないかと思います。では、そうした初期路線は何故変わってしまったのでしょう。
それを考える前に、ちょっとこの仮説ついてツッコミを入れるならば、そもそもタイトルが示すように、本作は明らかにらんまをフィーチャーしています。何度か書くようにらんまそのものが、お色気を要求された作者が、「女の裸」を売りにすることに及び腰で、「男の女体」を売りにした――と何かで読んだ気がするのですが――という、かなり屈折した経緯を経て生み出された設定です。
しかしそうなると主人公の乱馬/らんま自身が格闘による活躍はおろか、お色気すらも担当するわけで、そもそも最初っからあかねの役割は低い。
さらに言うなら、ファンには広く知られるように、早乙女乱馬、玄馬父子のオリジナルは、『うる星やつら』の藤波竜之介とその父です。
だから、先に挙げたような「あかねの私小説」という説は一見、不自然に思えるかもしれない。
ただ、これも当初は「女であるらんまには当たりが柔らかいが、男である乱馬には当たりが強いあかね」というのを描き、彼女の男性への距離を少しずつ変えていくというのが、らんま/乱馬の役割だったのでは……と思えます。
Pちゃんがそうであるように、下手すると両者が同一人物であると気づかないスラップスティックが想定されていたのではないか……まあ、これは想像ですが、「女のらんまには当たりが柔らかいのに」といった描写は当初に存在しましたよね。
これは『トリプルファイター』について書いた時にも述べましたが、ドラマの中の「内面描写」は女性が受け持つというのがお約束です。
まず、企画の最初期に竜之介親子をモデルに、早乙女父子が作品の根幹として設定された。乱馬は竜之介と逆に、「完全な男でない」ことに悩む存在。しかし、竜之介のお相手として女装の男性、潮渡渚が現れたように、そのお相手として「女性性に欠けることがコンプレックスであるあかね」が配され、その内面を乱馬パートではコミカルに、あかねパートではやや叙情的に描くことが想定された。そんな想像ができるわけです。しかし――もう一つ、「らんまのヌードによるお色気」について、作者は当初、そこまでの手応えはないと考えていたのではないでしょうか。
以前指摘したように、あたるも面堂も何ら屈託なく竜之介を女性として扱う一方、渚には一切食指を伸ばさない。それは、竜之介のジェンダーがあくまで女だからです。
ここからは高橋のトランスジェンダリズムなど歯牙にもかけない異性愛主義者ぶりが窺えますが、このリクツだと「性自認」が男であるらんまのヌードを、男性はありがたがらない、という考えになるんじゃないでしょうか。――おいおい、何を見ていたんだ、竜之介は性格的にも男そのものだろう。
いえ、ここには「コアジェンダーアイデンティティ」と「ジェンダーロール」の概念を導入し、理解する必要があります。
コアジェンダーアイデンティティとは、(まあ、普通に「ジェンダーアイデンティティ」と称してもいいのですが)、自身が男か女かという認識の問題。「性自認」という言葉と同様です。
竜之介のコアジェンダーアイデンティティは全く迷いなく女であり、彼女は断じてトランスではないのです。
ジェンダーロールは「性役割」と訳されます。乱馬は肉体的に女になってしまったことに悩み、男たりたいと望んでいますが、一方で買い物をする時に平気でぶりっ子してみせます。これは「女性のジェンダーロールを演じている」わけですが、彼がそれに屈託がないのは、「服を羽織っているだけのような、仮初めのもの」と考えているからこそです。
これは、フェミの特徴でもあります。
コアジェンダーアイデンティティとジェンダーロールは別とは言え、密接に関わりあっているものですが、女性はそこを分けて考えたがるのではないか……という感じがします。だってそうすれば、女らしい格好が似合うかどうかと自身の女としての価値は別だと、ひとまず言ってしまえますからね。
アンチフェミに対し、フェミ陣営の人たちは非常にしばしば、「弱者男性であり、男性ジェンダーに欠けるが、自分の男性性をよすがとしており、それ故女性を叩くのだ」と(エビデンスなく)言い募りますが、それはどちらかと言えば女性の特性であると言えそうです。
「ジェンダーロール」は着脱可能な仮初めのものである。
そうした情念があるのとは裏腹に、「コアジェンダーアイデンティティ」は神秘のベールで覆っておきたいと思っている節がある。
高橋はもちろん、フェミではあり(得)ませんが、「生まれついての女であること」こそが絶対であると考えている。
それが竜之介と渚の扱いの差として現れているし、らんまを男と知る良牙は、らんまの変装しての色仕掛けには度々瞞されても、正体に気づくや彼を女とは見なくなるわけです。以上の「高橋がらんまのヌードに重きを置いていなかった」説は完全に想像です。しかしあかねを中心にした作劇、という初期の構想(これは間違っているとは思えません)を前提した時、そうかなと思えてくるのです。
高橋は「生まれながらの女であること」、言うなら「女性性」「女性の魂」みたいなものの絶対性をどこかで信じていて、「いかに身体が女だからといって、読者がそうそうらんまの裸をありがたりはしまい」との計算があった。
ところが、その読みは驚くほどに外れた。
らんまという名のラムちゃんが、本作に登場してしまった。
それが「路線変更」の一番大きな理由であった。しかしこれはこれはまた、あかねのみならずしのぶや藤江田が「負けヒロイン」であることとも、事情が似ているのです。
先に「異類婚姻譚」はバッドエンドが多いと述べました。
この「異類」、つまりラムやシャンプーなどは言うなら「男の浮気相手」でした。若い男が異界からやってきた髪の色が黒くない美少女と恋愛する、しかし最終的には糟糠の妻的、髪の色が黒く、空も飛ばない、猫にも変身しない、いわゆる「普通の女の子」、つまり地上的な女の子と結ばれることで現実へと着地する。
それが通例であった。
これってある意味、男の子の「通過儀礼」なんですよね。可愛くておっぱいが大きく、積極的に迫ってくるラムちゃんやシャンプーでなく、意外にドライだったり素直になれない性格であるしのぶやあかねという欠点の多い、等身大の女を愛せと。
ところが、男の子たちは予想外に電撃を放ったり、男よりも強かったりする女の子が好きであった。
さらに言うならば、先の『すげこまくん』の美奈世はマッドサイエンティストであるすげこまに対抗しうるキャラで、むしろ「男の子と同じ地平で、男の子同様メカを使い同格に戦う」という要するに男の子と同質性を持つキャラでした。
あかねも強いハズなのに、シャンプーには全然適わず、シャンプーはらんまと比肩しうるほど強い。
何よりらんま自身が「男の子そのままの精神性を持った女の子」であり、時々言われるように、ある意味では男の理想そのままです。ファンアートでよく、らんまと良牙が絡んだり、クラスの男子にセクハラを受けるのがあり、これは男性読者の本音そのもの(らんまが側にいたら、エロいことするのになあ)ですが、おそらくそうした精神性は、高橋にとって予想外どころか、想像の埒外であった。
「異類と別れ、地上の女の子と結婚すること」、「男の子が“男の子と違う女の子”という存在と出会い、受け容れること」こそが本来の恋愛であったのが、男の子が異界(自分の理想とする自分自身の観念世界。つまり、ラムちゃんのいる宇宙)に惹かれ始めたのが『うる星』路線変更の本質だったと考えると、どうでしょうか。
それと同様、「精神的には自分と同質性を保ったまま、エロい肉体を持ってくれた、理想の恋人」として登場してくれたのがらんまでした。先に、藤江田が新ヒロインである美奈世登場回の前回、嘆く描写があると書きました。
それと対応するかのように、シャンプー登場回の前回はあかねを狙う色男との対決回です。ここで乱馬はいささかあっさり「あかねは俺の許嫁だ!」と宣言し、ある意味、既成事実を作ってしまう。そしてそのエピソードが終わるや、随分と忙しなく、何の伏線もなくいきなりシャンプーが登場します。
テコ入れキャラの投入を編集者から急かされていた……といった裏事情を想像させなくもないですが、だからこそ乱馬はその前に、大慌てであかねとのフラグを立てたわけです。
これは「あかねがショートカットになる」のに継ぐ、路線変更第二弾で、ここで乱馬とあかねが少しずつ距離を縮めていく恋愛ドラマは断念され(いえ、実際には二人がここでカップルになったとは言い難いので、そうでもないのですが)、ある種のコミカルな格闘こそが、本作の目玉となった。
言うならシャンプーという、「成功するに決まっている萌えキャラ」を投入せねばならないので、あかねは大慌てで乱馬と結納を上げ、「負けヒロイン」になることを回避したのです。事実、高橋自身がシャンプーの人気が出すぎないよう、クラスメートにすることは避けた旨を語っています。
ラム、シャンプー、そして美奈世とらんま。
男の理想そのままに官能的な肉体性を持ち、積極的に迫ってきてくれて、空を飛んだり猫に変身したりメカを操ったりと男の子の観念世界に遊び、そして男の子と同質性を持つヒロインたち。言うならば彼女らこそがまさに、「萌えキャラ」であり、(ここで言う)負けヒロインとは、「萌えキャラ」になれなかった存在、つまり「現実の女性(に近い存在)」であった。
『うる星』は萌えの元祖と言われたりすることがあります。
が、「異界から、ぼくたちのことをわかってくれる(わかってくれるから、ラムちゃんは空を飛ぶのです)女の子がやってきて、地上的女を駆逐する」という同作は、やはり「萌え作品」の第一号だったのかも知れません。
『らんま』はそこを元の「恋愛もの」の復興を目的として立ち上げられたのですが、しかし結果としてやはり、「萌え」作品となってしまった。
ぼくたちは高橋の代表作二作である種、「女性の敗北」であり、「萌え誕生」の瞬間」に立ち会ったのではないでしょうか。 -
フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか(再)(その2)
続きです。
未読の方は、前回記事をまず読んでからこちらをお読みいただくことを、強く推奨します。読み返すと本稿、「表現の自由クラスタ」批判に寄りすぎ、とも感じたのですが、それは香山リカ師匠自身が「元祖・自称オタク」とでも称するべき存在であり、実は香山師匠と表現の自由クラスタは同じような存在だ……といったことを指摘したかったからです。
では、そういうことで……。* * *
さて、またちょっと、「表現の自由クラスタ」たちの物言いに立ち返ってみましょう。本書について、ツイッターなどでちらちら見た意見には、「お前(北原師匠)こそバイブ屋のくせに」「若い頃はさばけていたと思っていたが、このセックスヘイターぶりはどうだ、老いたせいか」といった評も散見されました。
これは前回書いたぼくの指摘と大意を同じくしているかのようですが……実はそうではなく、的外れなものなのです。
上にもあるように、また当ブログの愛読者の方は周知のことでしょうが、北原師匠の本業はバイブ屋でいらっしゃいます。が、彼女の目的は最初から「女にとっての快」であり、バイブもまた「男不要の快楽」として称揚されているわけです。彼女はセックスが大好きだが、しかし世に溢れている性的な価値観は全否定しているだけなのです。ジェンダーフリーなどを顧みるまでもなく、これが師匠のみならずフェミニズムそのものの基本姿勢であることは、今更指摘するまでもありません。
フェミニストたちに、ぼくたちは非常に往々にして「萌え文化には女性のファンも大勢いて……」などと語りかけますが、そんなことに何ら意味はないのです。レディースコミックなども専ら女性のニーズに沿って作られたメディアですが、そこに描かれるセクシュアリティは男性向けのポルノとさして変わりがない(レイプ描写に溢れているなど)。つまり、フェミニストが「男性に都合のいい」と形容する性文化は実のところ男女共にとって快い、両性が共犯関係によって作り上げてきたモノであったわけです。彼女らが「男の欲望」と強弁し続けているのは、それこそ女子大生とのAKB談義でも明らかなように、女性の欲望でもありました。だから、師匠らは「人類の欲望」を根源否定しているだけなのです。
フェミニズムは全人類へのヘイトそのものだったのです。
事実、本書でも男のセックスに対しさんざん罵った後には、「何で日本はこんなセックスレスなんだ、気持ちのいいセックスがしたいのに」と言い出す節が入ります。自分たちの好まぬ性表現はダメ、一方セックスから撤退するのもダメというのだから、男女逆にして言えばクラスの隅っこでおとなしく『おそ松さん』に萌えているブスに襲いかかって「お前がブスに生まれついたのが全部悪い!」とボコってるようなものなのですが。
「表現の自由クラスタ」は往々にして、彼女らを「セックスヘイターだからけしからぬ」と批判しますが、それは間違っていました。上を見てもわかるように、フェミニストはセックスヘイターではないのですから。そしてまた、「一般人」は多かれ少なかれ「セックスヘイター」なのですから。更にまた、「ロリコンであること自体は何ら罪ではない」という彼らの大・大・大・大・大好きなレトリックを援用するのであれば、「お前はセックスヘイターだからけしからぬ」という物言いは一切、意味を持たないはず(こんなことにすら思い至れないことが、彼らの問題なのですが……)。
繰り返しますが、彼ら彼女らは互いに自分の好みを押しつけあっている、似たもの同士です。そこを理解できず、お互いに背を背けあいながら全く同じゴールへの道を併走しているのです。……ちょっと、「表現の自由クラスタ」の悪口を書きすぎだとお思いかも知れませんが、もうちょっとだけ続きます。
彼らは専らネット上に立ち現れる存在であり、その実態を、ぼくは知りません。何とはなしに若い連中である気がしているのですが、それは彼らの主張の生硬さが原因でもありますし、「オタク差別」を危惧する物言いの屈託なさ*3が理由でもあります(これはフェミニストにただ「ミサンドリー」という言葉をぶつければ勝てると思っている人に対しても感じることです)。
が、彼らが実のところ、かなりの高齢者と考えるとどうでしょう?――おい兵頭、そんなことはどうでもいいだろう。仮に若くてもSEALD'Sよろしく上の世代の影響を受けていようし。
それはそうなのですが、仮に「オタクの代表者」をもって任じている彼らの「イデオロギー」ではなく「カルチャー」の部分が、もし高齢者のそれであったら?
「古株のオタク」というのはもう、ほぼ「サブカル」というのと同義です。
今までぼくは「サブカル」にさんざんっぱら毒を吐いてきました。一つには単純に彼らがぼくたちにケンカを売ってくるからであり、もう一つは彼らが古色蒼然たる左派的価値観を深く内面化しているからですが、更にもう一つには、彼らの文化が極めてDQN的だからです。暴力的な表現で何かを破壊することに意義があるとの素朴な信仰が、彼らの本質です。
つまり先の仮定がもし正しいとすれば、彼らはオタクではないし、そもそも「オタク的心性」が丸きりわかっていない。となると、彼らが本書に対して物申すことは(いえ、そもそも彼らがオタクの代表者であると自称し続けることは)オタクにとって、大変にマイナスになると考えざるを得ないのです。
今までもぼくはオタクを「草食系男子」に近しいモノとして語ってきました。皮膚感覚で感じることでもあるし、レイプの認知件数が年を追う毎に激減していることなどを考えてもこれはまず、間違いがない。
何よりもオタク文化は基本、草食的なものです。「美少女コミック」自体がそうで、ある種、少女漫画に影響を受けた内省的な作風は、KEYの「泣きゲー」に象徴される美少女ゲームへとつながっていきました。もちろん、陰惨なレイプ物、猟奇的表現などもまた、一方では存在はしていましたが、しかし「萌え」という言葉がオタク文化を席巻したことを考えれば(過激で暴力的なエロを「萌え」とは言わないでしょう)何がオタク文化の本質かは自明です。
そう、本書に対する批評には、「オタクと言う名の草食系男子を、あなたたちはどうしてそこまで気に入らないのか」という視点がどうしても入らざるを得ないわけです。
引用した箇所で充分おわかりいただけるかと思いますが、本書では旧態依然とした「女を搾取するモンスター」としての男性像が透徹されています。もちろん「草食系男子」などといったナウい単語はご存じでないのであろう、一言も出てきません。
確かにオタク文化は「幼女」を性の対象にする側面があり、ぼくはここを全面的に問題ナシと考えているわけではありません。しかしこれは、「オタクの草食男子性」と表裏一体なものです。それはフェミニスト様のお言いつけ通りに「男性性を降りた」男たちが、フェミニズムに物申すようになったことと実は全く、同じ構造を持っています。
しかし左派の、悪いけど古くさい言説の力で、そこをちゃんと語ることができるかとなると、それは怪しいと言わざるを得ない。*3 今までの「オタク論」は過去のものと化す? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!(https://note.com/hyodoshinji/n/na9fe65fb8097)
ツイッターでの、左派とおぼしい方の意見には「北原は非道いが、香山はそこまででもないよ」といったものもありました。もっとも、上の引用を見ているととてもそうとは思えませんが、全体的には北原師匠の方が過激ではあります。確かに、北原師匠は過激なフェミニスト、一方、香山師匠はそれほどフェミニスト色はない。北原師匠自身がまえがきで「香山さんがオタクを、私がフェミを代表する、というわけじゃない。(8p)」と書いていますが、これは逆説的表現で、「敢えて言えばそうだ」と言っているのです。同時に続けて香山師匠を「「オタク」文化の言論人」と評してもいますし、あとがきでは香山師匠が
おそらくゲーム、漫画、プロレスなどのサブカルにどっぷりつかっていた私は、人間をあえて「オタク」と「非オタク」に分けると明らかに前者なのだと思う。
(245p)とも言っています。「お引き取りください」と懇願したいところですが。
しかし上に「サブカル」という言葉が使われていることにこそ、ことの本質が現れているように、ぼくには思われます。
そう、先の「香山はマシ」論者の気持ちは、本書を通読すると一応、理解ができるのです。要するにそうした論者は香山師匠同様、サブカルだと言うことです、事実、香山師匠、会田誠にはかなり好意的なのですから。香山 社会全体が受け入れているというより、あくまで制度としてのアートの中で、と考えてはダメですか? 会田さんは安倍政権を批判しているといわれる作品もありましたが、デモではなくてアートとしてのレジスタンスということではないのでしょうか。
(108p)
香山 ある種の権力、制度、倫理への挑戦のシンボルではないですか。
(108p)会田というのは萌え絵をパクったような絵*4で「女の子をジューサーにかけたり」といった胸糞表現をしている御仁ですが、彼女はそれを上のように称揚しているのです。ならば草食的なオタク表現などもっと許されるべきだろと思うのですが、何故かそうではないのは、既に引用した箇所でおわかりの通り。即ち、香山師匠は反社会的で残酷であればあるほど、それは望ましいとのサブカル≒左派的価値観の持ち主なのです。
サブカル≒左派的価値観がオタクの敵であると共に、大衆の支持も得られないモノであると、はっきりと示された瞬間です。
事実、あっさり北原師匠に「オルグ」される箇所もあります。北原 (前略)昭和時代にエロをカウンターカルチャーとして抵抗してきた延長で、今のAV文化を捉えるには無理がありすぎる。表現の自由というのは民主主義で揉んでいくものだと思うんですが、揉む力さえなくなっていると思います。
香山 表現の自由って言いながら、結局は市場主義的に売れる物が優先されているだけなんですよね。萌えキャラを商売にする人は「自由を守れ!」と思いながらやっているわけではなく、「これやっといたほうが売れるから」くらいの安易なものなんです。
(90-91p)売れた「オタク文化」への憎悪でいっぱいですね。商売で儲けようとするのが悪いと言われても困りますし、ましてや日陰者だったオタク的表現がここまで社会に広がるまでにはどれだけのエネルギーが費やされたか、考えるだけでも気が遠くなるのですが、香山師匠はそんなことは、絶対に認められないご様子です。
以前ご紹介した『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』*5には「なぜサブカルは自分はオタクだと言いたがるのか」という節タイトルがありました(もっとも、その節にも本全体にも、この疑問に応えている箇所はありませんが)。これは至言であり、サブカル君はオタク文化を深く憎んでいるにもかかわらず、世間に対してはオタクを自称したがる。彼らは後輩の名前だけで食っている売れない先輩ですから。香山師匠が本書でとっている態度もまた、同じでしょう。
師匠の中にあるのは、サブカル君たちのオタクに対する憎悪と同じものではないかと想像できます。一つには滅び行く存在の、商業的成功を得たオタクへのはらわたの煮えくりかえるような嫉妬の感情でしょうが、もう一つはオタクが「カウンターカルチャー」としての自分たちの文化の特質、要は左派的価値観を継承しなかった点にあります。
だからこそ、香山師匠はオタクという場から出て行ってくれたし、萌えにも否定的になった。これはちょうど、一時期古株のフェミニストであるピルとのつきあい方公式師匠が「オタク界はリベラル女子のためのサークルですよ」と騙され、召喚されていた状況と、完全に線対称です。*4「『朝日新聞』3月1日朝刊「アートか「児童ポルノ」か挑発的な美術展」」(https://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar139581)。ここにも引用しましたが田亀源五郎先生の、「オタク文化をつまみ食いしやがって」との感想に、ぼくも賛成です。
*5『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』(https://note.com/hyodoshinji/n/n49ecad0f934f?magazine_key=mc65feced0010)まとめましょう。
先に書いたように本書はサブカルである香山師匠とフェミニストである北原師匠の対話という体裁を取っており、その内容はフェミニストがオタクをオルグしようとする過程そのものである、とまとめることができます。
それと同様に「表現の自由クラスタ」とピル師匠の振る舞いはリベラルがフェミニストをオルグする過程そのものである、とまとめることができます。
いずれも、オタク男女も一般的な男女も放り出されたまま、密室で「何か、変わった人たち」による談合が進んでいるという点については変わりません。
彼ら彼女らはどこまでも線対称の、しかし相似形な存在であったのです。
彼ら彼女らは共に、「人間の性意識を改造することで地球侵略を企む、悪い宇宙人」でした。ただ、たまたま出身星が違ったがため、その改造プランのベクトルが異なり、利害が一致せず、地球を舞台にバトルを繰り広げているだけなのです。地球人におびただしい被害を出しつつ、互いに「ヤツこそ侵略宇宙人、我こそは地球を守りに来たウルトラ一族なり!」と主張を続け、おずおずと「よそでやってください」と懇願する地球人たちに対してだけは口を揃え、「このネトウヨ星人め!!」と絶叫を続けながら。
最後に、ぼくが本書で一番笑ったところを紹介しましょう。北原 今、ネットで怒る女性たちの勢いが希望です。だって、やっぱりエロ漬けされてオナネタを必死で手放さない男たちを「せんずり村の住人」と名付けたりとか、楽しい。
(91-92p)北原師匠が楽しそうで、何よりです。
もちろん本書、「まなざし村」と言った言葉も全く、出てきません。
危機感は一切、ないのでしょう。 -
フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか(再)(その1)
再録です。
前回の田中東子師匠の時に言及した書ですが、記事の初出は2017年11月23日。もう七年前です。本そのものが出た直後の記事なので、本の出版も大体この頃。少々、わかりにくい箇所は加筆を加えておりますので、初出とは異なる点があることをご了承ください。では、そういうことで。
* * *
本書は北原みのり、香山リカ両師匠の対談本。その時点で読まずともお察しではあるのですが、それにしても本書の出版はぼくの目にはそれなりの衝撃をもって映りました。というのも、この「フェミニストvsオタク」という対立構造はネット社会では周知のものでも、リアル社会で言及されるようなことではありませんでしたから。
だから一応はオタク側の批判に対してフェミニストがいかなる反論を試みているかについて、多少の期待を持って本書を開いたのですが……残念ですが、その期待は叶えられることはありませんでした。
読んでいくとオタクについての話題はほとんどナシ。
全体の一割もないでしょう。5%あったかなあ……という程度です。
その他は旧態依然としたアラフィフフェミニストの十年一日のごときだらだらしゃべり。こうしたモノでも本になり、懐が潤うのですから、本当にフェミニスト様は特権階級であらせられますなあ!
何にせよタイトル詐欺の批判は免れませんし、「どう形にすんだ、これ!?」な素材を敏腕編集者がキャッチーなタイトルでまとめた、みたいな舞台裏を想像したくもなります。
まあ、そんなこんなで、ネガティブな意味での期待をも外してくれた本書、お二人の思想的スタンスを考えれば容易に想像のつくとおりヘイトスピーチがどう、C.R.A.C.がこうと言った話題も盛んに登場します(言うまでもなく野間さん全肯定です)。下手をすると「オタク」より「ネトウヨ」というワードの方が頻出しているかも知れません。ただし、その両者を接続する言説は、残念なことにどこにもない。二人がその両者について、心の底から何の関係もないと考えているのならともかく、そうでないなら(そうでないとする証拠もないのですが)極めて不誠実というか、片手落ちです。「オタクvsフェミ」という問題にがっぷり四つに組む覚悟があるなら、ここ(「ネトウヨ≒オタク論」とでも称するべき左派の中の通説)は大変に重要なはずだからです。さて、そんなわけで正直、本書についてはどうアプローチするか迷っているのですが、ここは一応、表題になっている「オタクvsフェミ」をメインに、紹介していくことにしましょう。
本書では北原師匠によるまえがきから宮崎事件について語られ、オタクについての話題の半分くらいはこの事件についてに費やされております。
既に海燕師匠の指摘があちこちに流布されており*1、ご存知の方も多いことでしょうが、ここで北原香山両師匠は「宮崎勤はオタク文化を誕生させたカルチャースター」とでも言うべき捉え方をしており、その無茶苦茶さが批判されたのです。
が、敢えて師匠らの立場に立って言うならば、彼女らの言は「幼女を性的対象として消費する文化が大手を振ってまかり通るようになるなんておかしい!」ということに尽きます。「宮崎がそうした文化を産んだわけではないけれども、この時に、文化人が「表現の自由」を錦の御旗に論陣を張った。それがオタク文化の隆盛に一役買った。ある意味、宮崎は間接的功労者とでもいうべき人物だ」。師匠らの言いたいことをなるべく彼女らの親身になって翻訳するならば、まあ、こんなところになるのではないでしょうか。
もちろん、それがどこまで正しいかは疑問です。別にこの時に表現全体が大幅にフリーダムになったわけではないでしょう。「今までは考えもしなかった表現が、この時期に出て来た」だけのことです。いや、美少女コミックの黎明期は80年代ですが、広がって行ったのが90年代という見方は、それほど外していないはず。そう考えると、これは構造としてはむしろブルセラに近い。まさか女子高生が自主的にそんなことをするとは、という。ご存じない方もいるかも知れませんが、この当時、女子高生が使用済みのブルマーやセーラー服、下着を売ると言うことが流行ったのです。ヘアヌードや援助交際(つまり、今で言うパパ活ですね)もこの頃に出て来た「まさか」でしたが、ブルセラがそれら以上にトリッキーなのは、使用済み下着というエロのカテゴリに入れにくい、今まで思ってもみなかったようなものが商品化されたという意外性です。エロ漫画にしたって、まさかアダルトビデオなどが普及してそれほどタイムラグもないというのに、二次元の美少女の方がリアルよりいいと言われるとは、予想外だったはずでしょうから(そしてまた、ロリコン的表現それ自体が今までは知られておらず、これまた意外だったはずです)。
これらはつまり宗教的縛りもない日本において、村社会的共同体意識が解体されて、リベラルな考え方のみが専ら正義とされ、道徳心がストッパーにならず云々……みたいなことこそが原因であり、上の諸現象はその結果として立ち現れたと見るべきなんですね。
そして、そうしたストッパーの解除を積極的に行ってきたのは専ら左派です。若い方にはご存じない方もいらっしゃるかも知れませんが宮台真司師匠は90年代、上のブルセラなどを語り、それを肯定(と断言するのも乱暴ですが、ここでは細かいことは措きます)することで世に出た人物でした。
端的に言えば、これら現象とフェミとのバトルは、左派、言ってみれば個人のエゴをスタート地点とする思想の、自己主張同士のバッティングというどこにでもある、敢えて言えば「ただのケンカ」でしかありません。要するに、彼女らの敵は宮台真司なのです。実際、本書では宮台師匠についても否定的に言及されています。
いずれにせよ、両師匠の発言は事実を踏まえているとは言い難いのですが、当時は美少女コミックが成年マークもつけずに売られておりましたし、現代でも『To LOVEる』とかはまあ、子供が読めるのはどうかなあ……と思います。その意味で、言い分には5%くらいは賛成できるわけです。コンビニの成人雑誌も「子供に見せるべきではない」という主張はわかるので(本書もその旨が書かれています)、ゾーニングせよというのであれば、大いに賛成できます。
しかしもちろん、フェミニストは「それだけでは足りぬ、ポルノは根絶せよ」と主張する。そしてまた表現の自由クラスタも「ゾーニングはまかりならぬ、子供からエロ本を奪うな」と主張する。両者はぼくの目から見れば、「何か、ワンイシューな正義の御旗を振りかざす似たもの同士」に見えてしまうんですね。本書はオタク文化を客寄せに掲げているが、本丸は別のところにあると表現すべき内容でしたが、それを言えば「彼ら」のやっていることもまた……。*1「北原みのり『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか』の論があまりに酷い【歴史修正主義】(11/20追加)」(https://togetter.com/li/1805833)
さて、宮崎事件(という、今時フェミニストと表現の自由クラスタと大塚英志以外には誰も興味関心を持っている者がいなさそうなトピック)以外で、本書で語られるオタク関連の話題となると、やはり碧志摩メグになるでしょうか。
ただ、トピックが変わっただけで、言っていることは別段変わりません。
逆に言えば、その変わらなさが彼女らのダメさを示してもいるのですが。香山 たとえばアメコミではグラマラスな格好良い女が出てくる一方で、日本のアニメは幼女が活躍するものばかり。欧米では年を取った女性もオシャレで派手な服も着るし、男性もパートナーとして女性を大事にしている。それに比べて日本は若い女ばかり追い求める。
(112p)本書では「萌え美少女」が終止「幼女」と表現されます。果たして何歳までを「幼女」と呼ぶのか、別に定義などは存在しないでしょうが、碧志摩メグは「幼女」ではないでしょう。上の言葉も碧志摩メグ自身を「幼女」と明言しているわけではありませんが(そうした箇所はなかったかとは思いますが)、文脈としては碧志摩メグ(や、会田誠やAKB)の話題に続いて出てきた箇所です。これ以降も話題はおニャン子クラブへとつながり、「セーラー服に興味を持つこと」が断罪されています。
ご存知の通り、碧志摩メグについてはその胸の表現こそが云々されました。本書でも、両師匠がそこをこそ問題にしているのです。北原 こういう萌えキャラって、骨格よりもむしろスカートのシワや乳房の膨らみを表現する影で体を表現している。どれだけエロティックな皺や影を描けるかが肝なんでしょうね。
香山 この、ヒモをほどくような手がツヤ感ですね。
(104p)「胸もない幼女を好むとは異常だ」ではなく、「少女の胸が強調されている絵を好むとはけしからぬ」との言い分です。つまり、「幼い子供を性の対象にするとは許せぬ」という主張はタテマエで、彼女らが本当に憎悪しているのは「ごく一般的な男性の好み」という他はない。
もちろん、「ごく一般的な男性の好み」を全否定することがフェミニストの使命であることは、当ブログの読者のみなさんには周知のことだと思うのですが、こうなると師匠らはそのためにオタクをダシにした」と言われても仕方がないわけです。香山 私、碧志摩メグもうな子*2も、大学の授業で触れたんです。女子学生でも、うな子のほうは「こんなのよくある、なんでダメなんですか」という感じで、メグのほうは「かわいい。私も好き」と言うんです。「あなたが男性の欲望の対象になったらどう思いますか」と聞くと、「私はこんなことしない」と。同じ女だからどうにかしなきゃっていう発想もあまりないんです。
(120p)いやはや、女子が碧志摩メグを見て「かわいい」と思うことはまかりならん。むしろ見た瞬間、「同じ女だからどうにかしなきゃ」と思わねばならないそうです(どうにかって何をどうするんだ?)。
香山 (前略)「でも彼女たちは男の人の欲望の対象なんじゃないの?」と言うと、「そんな言い方しなくても良いと思います!」とか言って。
北原 こっちの見方が汚いと思われるんですよね。
香山 そうなんです。それで、「可愛いし服も参考になるし」なんて言っている。
北原 AKBがエロに見えないのも、この行政の萌えキャラがエロに見えないのも、どれだけ日常が悲惨でエロが溢れているかという証拠だと思うんですよね。
(123-124p)師匠らはペドファイルに怒っているわけでは全くなく、オタクを叩きやすいから叩いているわけでも全くなく、男性全体の性欲を根源否定しているだけでした(ただし、ぼくもよく知らんのですがAKBって結構露骨にパンチラしてるそうで、そういうのはちょっとどうなのかなあ……という気はします)。
もう一つ、敢えて論点を提示するのであれば、彼女らのオタクへの憎悪は「クールジャパン」的な認められ方にあるように思えます。碧志摩メグが騒がれたのもやはり、お役所の公認キャラであったことが大きい。こうした国家権力へのツンデレ的愛情もまた、フェミニストと「彼ら」との共通点と言えそうです。*2 鹿児島県志布志市のPR動画で、スクール水着の少女をうなぎに見立てたとして炎上。てっきりうなぎのPR動画と思っていたら「ふるさと納税」のものだという。
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文章量が多いことに、自分で読み返して呆れました。
ということで、続きは明日か日曜に――。
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