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兵頭新児さん のコメント

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兵頭新児
「仲間の犠牲により敵を倒す」戦略ということです。
犠牲になった人たちに責はないように、ぼくもここで「特攻兵器にされている側」に喩えた人たちにも罪はないでしょう。
ぼくがここで馬鹿にしているのはそうした愚かな手段を採っている側(オタク界の上に君臨している左派)です。
No.22
42ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
※この記事は、およそ11分で読めます※  秋葉原の通りに掲示されていたアダルトゲームの広告が問題となり、取り外されるという事件がありました。詳しくは各自調べていただきたいのですが、例えば弁護士ドットコムなどでも報じられる、それなりの話題となっているようです *1 。  例によって、ネット上での喧々諤々が起きましたが、どうにも今までとは旗色が違うご様子。  ここしばらく、ツイッター上で「表現の自由と世間様との折りあい」みたいなテーマが語られているのが目立ってきている気がします。これは宇崎ちゃん問題の時点でも散見されたのですが、この看板の問題でそれが顕在化してきたように、ぼくには思われます。ついつい調子に乗って、ツイッターでは 或いはこの看板こそが、「表現の自由クラスタ」の墓標になる、のだろうか。  などといった憎まれ口を叩いてしまいましたが、もうちょっと穏当に表現するならば、「表現の自由クラスタ」が今まで何とか見まい見まいとしてきた論点へと、「一般的なオタク」の目が注がれたこと、それにより表現の自由クラスタと一般的なオタクとの間に乖離が生じつつあることが、本件の本質であると、ぼくは考えます。 *1 秋葉原にアダルトゲームの巨大広告 東京都が現地調査、千代田区は指導へ  本件と、今までの碧志摩メグなどを筆頭とする数々の案件との差異を、ちょっと思いつくままに挙げてみましょう。  1.まず何より一目瞭然「性的」であること  2.クレームがどうも、フェミニスト発ではないらしいこと  3.オタクのかなり一定の層が、撤去をよしとしていること  などでしょうか。  そう、今までの案件と本件とは、全くの別です。  まず、最初に抑えておくべきポイントは1.でしょう。  記事を漁ると、 広告は「おっぱいハーレム」や「孕ませ」などの言葉とともに、肌を大きく露出させた女性キャラが10人描かれていた。  などとあり、上にある「おっぱい」や「孕ませ」とのワードが象徴するように、広告の絵自体が一目瞭然、性的なもの。今までは基本、肌の露出も少ないもの、性的な要素がどこにあるかわからないものが大多数でした。フェミの言い分は、それに対して碧志摩メグの時の「乳袋がある」、駅乃みちかの時の 「尿意を堪えているように見える」から性的である 、といったもので、まあ、前者はともかく後者は明らかに言いがかりのレベルでインネンをつけていたのだから、本件とは事情が異なります。  もっとも、いわゆる「萌え絵」はあまりにも女性を性的に描く技術を突出して進化させすぎているとは、言える。「乳袋」もそうだし、「尿意を堪えている」というのは論外としても、この駅乃みちかは「赤面している表情」で描かれており、それがある種の性的なものを連想させなくもなかったわけで、そこ一つとっても、いかに技術が超進化を遂げているかがわかる。ぼくはこれは基本、(それこそ『ジャンプ』における透かしによる乳首描写同様)規制が生んだ規制逃れという素晴らしい文化である(アーティストの知恵の見せどころである)と思うものの、さすがに突出しすぎ、という感じがしないではありません。  さらに本件に立ち返ると、 性的だ性的だと言っておきながら何ですが 、実は本件のポスターも下着(だか水着だか)で胸が隠されており、乳首は出ていないのですな。  ただ、そういった(乳首のあるなしといった、杓子定規な)基準を置いて、ごく一般的な感覚として、当該ポスターはちょっと性的に過ぎるということは一応、言えましょう。  例えば記事にもあるように、広告には「孕ませ」という言葉があり、そこが注目されていました。つまりこの広告に対する忌避感の何割かは、このワードに依っていると言ってもいいのです。で、普通に考えてこの「孕ませ」という言葉が何故忌避感を催させるかとなると「生々しい」からでしょう。「えっちなのはよくない」からなのです。  だからこそ、2.にあるように、おそらく本件はフェミニスト発のものではなかった。  あくまでぼくの観測範囲内ですが、本件におけるフェミはどうにも寡黙です。  もちろん、本件に一番最初に声を上げたものが誰かは、わかりません。逆に今までの事例でも、フェミニスト以外の人が声を上げた事例もあったことでしょう(そういえば ピルの者は碧志摩メグについて、武田邦彦氏が言い出しっぺだとデマを流しておりました なあ *2 )。  しかしネットを見る限り(上の記事などを見ても、クレームを入れた主体などが窺い知れず、ネットの状況から想像するしかないのですが)3.にあるように、撤去を妥当と判断した層がオタクの間にも一定層おり、それが今回のような世論へとつながっていったわけです。  即ち、要するに、「オタクの一定層」、恐らくマジョリティは恐らく一般的な人々のマジョリティ同様、本件を妥当と判断した。  そしてそれは、「セックスは基本、秘めごとである(=えっちなのはいけないと思います)」という世間一般のコンセンサスを、オタクもまた共有していた、ということなのです。  或いはまた、仮に妥当とは思わないまでも、「弱い立場なんだから、世間様に対してはへらへらやっとけ」という世間知で、まずは世間様に同意した者もいたことでしょう。  お断りしておきますが、フェミは「えっちなのはいけない」などと、 ゴマ粒ほども思っていません 。あくまで、「自分にとって不快な表現」をこそ「女性の主体が描かれていない」などと称して、排除しようとしているだけなのです。それは、いわゆる腐フェミがBLを大袈裟に称揚することからも、明らかでしょう。  表現の自由クラスタは責任逃れのために詭弁を弄して、ここをミスリードし、「あの偽フェミニストたちは実は保守派なのだ」などと称し、自分たちの仲間の罪を保守派への擦りつける傾向があります。  また一方、フェミニストの中でも単に「自分にとって快のあるポルノだけは認める」と言っているだけの者を大仰に持ち上げ、そうしたフェミこそを「真のフェミ」と称揚することでフェミニズムを延命しようともします *3 。  しかし本件を見れば見るほど、「フェミのロジックによる規制には立ち向かう必要があるが、一般的な大衆感覚による規制には、理がないとは言えない、しかしながら表現の自由クラスタはそうした立場を決して取りはしない」ということが明らかになるのではないでしょうか。 *2「 東大の受験責任者から直接訊いた」…何故、日本のフェミニストはデマを流すのか *3 典型は白饅頭、青眼鏡など。「 実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがラディカルフェミニストとお友だちだった件 」及びそれに続く二つの記事をご覧ください。  もっとも、この看板自体、法的どうなのかというのはグレーゾーンと言っていいようです。上のニュースでは 千代田区でも、区条例に抵触する可能性があるとして、関係部署で連携し、今後は広告を掲示した店舗の会社に指導していくという。広告は11月8日までには取り外されている。  とあり、要は「可能性」という段階での「自主規制」だったわけです。  しかし、とはいえ、何しろ、表現の自由クラスタは「自主規制」もまかりならんというのが信念のようで、本件に対して怒りを燃やしておいででしたが、そこがまた、一般的なオタクとの価値観の乖離を生んでいるようでした。  そもそも自主規制がダメとなると、もう、この地上から「自由」というものを一切廃し、全てを「表現の自由クラスタ」様のご意向のままにする以外、許していただく術はありませんが、まあ、 それこそが彼らの真意なのでしょう 。  ……いえ、とまで言っておいてなんですが、確かにことが「フェミのクレームの末の自主規制」の場合はぼくだって「簡単に折れるなよ」「フェミのクレームけしからん」と感じます。もちろん、その場合、ノイジーマイノリティへの過剰反応だといった形での批判は考え得るでしょうが、いずれにせよ「自主規制は規制への道だからけしからぬ」といった批判は、あまりしても仕方がないわけです。  ぼくは本件を見ていて、幼女物のイメージDVDを想起しました。実は一時期、コミケカタログにも広告が載っていたことがあるのですが(不評だったからか、すぐになくなった時は胸を撫で下ろしました)小学生、下手すっと三歳時とかがマイクロ水着姿でまあ、何かいろんなことをするという内容です。これを見たら、恐らく世間の多くの人は、「法律で取り締まれ!!」と言いたい衝動に駆られましょう。が、「ではこれから子供の水着姿自体が、映画やネット動画などにおいても一律NGとすべきなのか」となると、恐らく多くの人がそれは過剰だと感じるはず。  これは、結局、法律で対処するような問題ではないし、恐らくアメリカとかだと宗教が、そして一昔前の日本では世間という概念がストッパーになっていたはずです。  本件の「自主規制」も、それと同じです。ぼくはこの看板を「グレー」であると書きました。「区条例に抵触する可能性がある」という「可能性」の時点で看板が引っ込められたわけで、抵触していたかどうかは現時点では不明です(絵に描かれたキャラが「性的ではあるが、乳首は出ていない」ということもまた、本件の「グレーゾーン性」を象徴しています)。  この自主規制に対して表現の自由クラスタは激おこでしたが、この「自主規制」こそが上に書いた「世間知」が形となって表れたものであり、まあ、そこは納得せざるを得ないわけです。  逆にいえば、そうした「世間知」による「遊び」の部分を許さず、全てを明文化する超法治社会とでも称するべきものが、表現の自由クラスタのお好みなのでしょう。いえ、本音を言えば何でもかんでも自由のアナーキズムこそが彼らの理想であることは容易に想像ができ、その前段階として、法の「遊び」の部分を突っつく、というのが彼らの方法論なのでしょう。  そもそもこうした場合、「表現の自由クラスタ」は「何を性的に感じるかは人それぞれ」といった空論をもてあそび、「一般的な感覚によるジャッジ」を嫌う傾向にありますが、それ自体が自主規制を含めたあらゆる規制を無化してしまいたい、との情念に支えられており、それを演繹すると彼らのお友だちである「ラディカルフェミニスト」たちの唱える「ジェンダーフリー」、即ち 全人類のセクシュアリティの完全なリセット をすべき、との結論にしか到達しえないのです。  さて、こうなると「表現の自由クラスタ」が「フェミ」と全くの同族であることが明らかになるのではないでしょうか。  表現の自由クラスタは自主規制をも許さず、ゾーニングをも許さず、とにもかくにも平板で想像困難な「自由」を目標としており、そこに広告主の主体的判断が入り込む余地はない。  フェミニズムもまた、あらゆるジェンダーを否定し、平板で想像困難な「ジェンダーフリー」を目標としており、そこに一般的な男女の主体的判断が入り込む余地はない。  双方とも、「人類を自分の思うがままに支配すること」を目的とした、 異界からの侵略者でありました 。  一番わかりやすいのが以前にもご紹介した昼間たかし師匠の主張 *4 で、師匠はオタクが自分たちの思うがままに政治運動に参加しないことに焦れ、 本当に面白いマンガでも文章でもつくろうとしたら、市民社会には背を向けなければならないわけですよ。獲得するものは世界であって、平穏な趣味生活ではありません。 (https://twitter.com/quadrumviro/status/997042631312982017)  などとオタクに檄を飛ばし、一方で  せっかくなので記しておくが、「オタクはパブリックエネミー(公共の敵)」といわれて、怒っているほうがオカシイ。最先端の文化が、世間一般から恐れられないということは、まずあり得ない。もしも「ボクたちオタクですけど、一般市民と同じですよ~」というのならば、もう文化としては衰退期に入っているということだ。 (https://otapol.com/2018/05/post-12531.html)  などと、自分たちの政治運動の駒にならないオタクへの憎悪を露わにしています。 *4 左翼の異常な粘着 または私は如何にしてオルグするのを止めてオタクを憎むようになったか  しかし本件で看板の撤去をよしとしない者たちに対し、「オタクが嫌われるのも仕方ない」「オタクもフェミも同レベル」といった声がかなり多く聞かれました。  言うまでもなく、これはぼくのように「一般的なオタク」と「オタクを自称する左派」とは異なり、また、後者はノイジーマイノリティであるとの前提を導入していないが故のことです。  ぼくが今まで「表現の自由クラスタ」だの、「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」だのといった造語を濫用してきたのは、こうした事態を恐れてのことでした。  左派寄りのオタクも多かろうし、またそもそもぼくが「オタク界のトップ」と呼ぶような、文化人面をしている連中は例外なく左派ですが、しかしネットで目立つ、そうした偏向した意見を振りかざす者たちがマジョリティだとは考えにくい。彼らは、一般的なオタクとはまた、区別して考えるべきである、それは丁度、「女性一般」と「フェミニスト」とを混同して語るべきではないのと、全く同じに、というのがぼくの考えです。  昼間師匠を見ればわかるように、彼らの目的は第一には、フェミを延命させること、第二にはオタクコンテンツを殲滅すること、そして第三は、 オタクの体内に爆弾を埋め込み、自民党、及び民家への特攻兵器とすること です。  彼らは機会があれば、「体制側からの宣戦布告があったぞ」とぼくたちに赤旗、もとい赤紙を送りつけてくることでしょうが、ぼくたちはそれを拒否しなければならない。  そのことははっきりと、認識しておきましょう。
兵頭新児の女災対策的随想
「女災」とは「女性災害」の略。

男性と女性のジェンダーバイアスを原因とする、男性が女性から被る諸々の被害をこう表現します。



このブログでは女性災害に対する防災対策的論評を行っていきたいと思います。