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兵頭新児さん のコメント

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兵頭新児
>「前近代」に近代のシステムに替るものが元々存在していた、と言う様な考え方はしない傾向がみられます。

う~ん、どうでしょう。
むしろ「キリスト教は萌えの起源」といった言い方をしていたような。
前回も近いことを言いましたが、むろんそれも「鳥獣戯画は漫画の起源」に近い「ネタ」を戦略的にやったのでは、とは思います。
だから「恋愛はなかった」論も「ネタ」だとは思うのですが、「だからこそ使う時は注意しろよ」というご指摘は正しいと思うのですが。

>彼には多分その発想=カウンターカルチャーを脱却してヲタクがそれなりにメインカルチャーとして責任ある態度を取る、と言う思想を拒否している部分が見える…彼もまた「ピーターパン」だと思うのですね。

これは大変よくわかります。
が、しかしオタク文化がメインカルチャーとなった時、一オタクのぼくは(そして恐らく本田氏も)「そんなものは知るか、真のオタク文化はこれだ」と自分の好むマイナーな作品を隅っこで持ち上げることになると思うのですよ。
ボカロなどを見た時、或いは深夜アニメの編成を見た時、その時はもう来ていると感じます。
その辺については、ぼくは「個人」の問題として幸せになれる人間/なれない人間、勝ち組/負け組というのは半ば先天的に決まっていて、ちょっといかんともしがたい、という感を持っています。
その意味でぼくが左派を難詰するのはものすごく単純に、彼らがアップデートを怠っている点にあるんですけれどもね。
つまり野党は野党で役割はあろうから、ちゃんと隅っこでそうした機能を果たしていればいいのに、と。
また「女尊男卑は人類誕生から続いており、決して覆らない。しかし現状は非道すぎるのでちょっとだけでもマシにしよう」というぼくの「メンズリブ」観も、それに近いように思います。
No.13
134ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 どうも、お久し振りです。  随分と当ブロマガを放置し続けてしまいました。  別に理由はなく、単に仕事が忙しかっただけなのですが。  というわけで今回は『ダンガンロンパ』。  ヒット数を稼ぐため、○○師匠を彷彿とさせる センスのない週刊誌のリード文風タイトル をつけてみましたが、いかがでしょうか?  一応表題を『ダンガンロンパ』としてはいるけれども、要は「萌えキャラ史」を概観し、その最先端に『ダンガンロンパ』の腐川冬子(や『わたモテ』のもこっちなど)を位置づけてみようという試みなので、話題としては前半には出てきません。  以上、お含み置きください。 *     *     *  もはや誰も使わなくなった言葉ですが、一時期よく「戦後強くなったのは女と靴下」なんてことが言われておりました。  何しろ戦前は、強い国が弱い国を武力で制圧して子分にすることが(まあ、一応は)正義とされていたのですから、この時期に男性がどれほどの権力を持っていたか、恐らくぼくたちの想像力を遙かに超えるものだったでしょう。  それが戦後否定され、男性性は価値を失い続けたわけです*1。  もうちょっとスパンを縮めて考えれば、少なくとも日本においては高度経済成長期を終えた頃から、男というものが体面を失ったと言えるでしょうか。アニメや特撮のヒーローも、この時期から多少、屈折した性格を持つようになっていきました。  何よりこの時期から、女性は絶対的な勝者であり、肯定される存在になっていったのです。例えば『ドラえもん』的な子供漫画で、基本女子は優等生に描かれますよね。  それこそヒーローものであれば、恐らく戦前から女性は守られるべき、獲得されるべき価値ある存在として描かれていたと思うのですが、ここで述べているのはそうしたことではありません。日常的な作品で男性と女性とが相対する場合、男性が常に敗者として描かれるようになったのは戦後のことなのではないか、との仮説です(この辺は あくまで想像 ですので、詳しい方がいたらご教示ください)。  そうした「男の敗北」を体現したキャラクターとして、ぼくがイメージするのが、『スヌーピー』のチャーリー・ブラウンと、『じゃりン子チエ』のテツです。『スヌーピー』はアメリカの漫画ではありますが、恐らくベトナム戦争でミソをつけたアメリカの傷ついた男性性の陰を背負った漫画なんじゃないでしょうか……いや、 これも想像ですが 。  両作とも女性=勝者、男性=敗者という図式で物語が展開し、表向きは男性性を否定しつつ、しかし動物に理想の男性を演じさせるという随分と込み入った構造を持っています。  ことに『チエ』では下層の男同士のダメな結びつきが繰り返し描かれ(そう、「ホモソーシャルな絆」など、実は弱者男性同士だからこそ成立するのだということは、フェミニストが「ホモソーシャル」という概念を捏造する以前に、この漫画が既に喝破していたのです)、また最下層の男であるテツが、最下層故に時折鋭い女性観を口にしたりもします。 *1フェミニズムの隆盛はその裏面であり、これはある種、失われた「男性性」を保存することで女性の被害者としてのアイデンティティを延命させようという、伝統芸能の保存運動であったとも言えます。  さて、ここまでが前世紀までの状況の分析です。  ですが、しかし、驚くべきことにこの数年、そうした作劇上のコンセンサス、言い換えれば「正義と悪の図式」が揺らぎつつある、パラダイムの転換が起きつつある、とぼくは感じるのです。  さて、いささか先走りすぎました。  ここでちょっとだけ簡単にまとめましょう。  70年代に描かれた漫画を見れば女性は概ね、優等生として描かれてきた。  80年代には男性性の失墜はいよいよ明らかになり、例えば『うる星やつら』の面堂終太郎といった、「二枚目ぶっているギャグキャラクター」が描かれ出した。  バブル期、女性の力は更に強くなり、欲望の赴くがままに男性を搾取するピカレスク的女王様的な女性キャラクターが大流行し出した。これはまた、男性性を冷笑するニヒリズムの体現者として、80年代頃から萌芽はあったと言える。  ……とまあ、簡単にまとめればそうなるのではないでしょうか。  しかしゼロ年代には「萌え」が日本を席巻しました。  ここで美少女はイコンとして大いにメディアを賑わせましたが、しかしそこで愛されたのはバブル期的な「男勝り」ヒロインではなく、キャラ的には「動」を引き受けつつも、最終的には「静」であるヤレヤレ系男性主人公に決定権を譲るハルヒ的ヒロイン像でした。  80年代から90年代にかけては、明らかに超越的な美少女にユーザーであるオタク男子が理想の自分を仮託している構図が目立っていました。端的にはビキニ鎧を身にまとい、ライトセーバーを手にした「戦闘美少女」がその代表です*2。  しかし90年代の半ばくらいからゼロ年代にかけて、そうした超越的美少女像というのはむしろ少数派になってしまった。これにはいろんな原因が考えられるでしょうが、一つにはエロゲのシステムがユーザーに対して、美少女と自分自身とを分ける客体化を促したのではないか……といった仮説も、確か以前語ったことがあると思います。  そしてここしばらく、 女性性の「痛さ」にも容赦なくツッコミを入れていく作風 が目立つようになってきた。それは恐らく『絶望先生』辺りに端を発し、ラノベのダメヒロインブーム(よく知らないけどちょっとそういう流れがある気がします)に続き、『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』で頂点に達した。  そういう経緯ではないでしょうか。 「オタク女子」であり、「非モテ」。そうしたあからさまにマイナス属性を持つ女子が、ヒロインになり得る時代がやってきた。これはかなり革新的なことだと思うのです。 *2と同時に、当時のフェミニズムバブル、ヒョーロンカの先生方が異常に女性を持ち上げていたのもまた、当然これのバリアントでした。現在でもツイッター上の「毒舌な妹bot」にその残滓があると言えるのではないでしょうか。  ――というわけで本来であれば、『わたモテ』を採り上げるべきなのですが、本稿ではちょっと、脇に置きます。 『ダンガンロンパ』の腐川冬子をこそ、採り上げてみたいと思うのです。  奇しくもニコ生ではこの二作が続きの時間帯で配信され、コメント欄では腐川がもこっちと呼ばれたりもしていました。  と言ってもこの『ダンガンロンパ』、ジャンルとしてはミステリであり、腐川への言及がそのまま壮大なネタバレになってしまいます。知りたくない方は、以下は読まれませんよう。  さて、説明には結構骨が折れる作品なのですが、ひとまず腐川についてはウィキからコピペっておきましょう。 腐川 冬子(ふかわ とうこ)声 - 沢城みゆき 超高校級の「文学少女」。身長164cm。飛ぶ鳥を落とす勢いの若手女流作家で、自身の書いた恋愛小説が社会的大ヒットとなり、高校生ながら数々の文学賞を受賞し、ベストセラーを連発している。おさげ髪に眼鏡が特徴。服装は標準の長さのスカートの学生服を着ている(他の超高校級のメンバーの制服とは異なる)。 血が苦手で血を見ると気絶してしまう。純文学しか認めず、漫画やライトノベルなどは「読む価値なんてない」「不潔な使い捨て文化」として嫌っており、また自分がそうした性癖を持つと見られるのを嫌がる。そのため、山田とは極めて仲が悪い。 父親が一人で母親が二人という複雑な家庭環境に育ち、なおかつ過去の学生生活において悲惨な体験を重ねていることもあり、性格は不安定で悲観的な思考をしており、精神構造にとある深刻な問題を抱えている。発言は神経質で被害妄想が激しい。また被虐嗜好の傾向もあり、惚れ込んでいる十神白夜の命令ならば客観的に無茶なことでも実行しようとする。  ――以上です(後、以下ではセリフなどを引用しますが、基本、記憶に頼っているので正確さには欠けることをご了承ください)。 「腐川冬子」で検索していただければわかりますが、お下げに眼鏡の地味な文系少女というそのルックスは、オタク文化では見慣れたものです。こうした「地味少女萌え」というのもまた、ゼロ年代頃から普遍的なものにはなっていたでしょう(元祖は唐沢なをき辺り?)。  が、腐川はコミュ障でちょっと話しかけられただけで大袈裟に悲鳴を上げ、また被害妄想が激しく、何かと言えば「私がブスだからね」と勘繰り、優しくされれば「からかってるのね」と難癖をつける。ゲームにはギャルゲー的パートもあるのですが、そこでは親密度が増せばますほど、「 私はあなたを許さないから ……こんなに優しくするなんて、 絶対に許さない! 」などとこっちを詰ってきます。怒りの形相でこちらに指を突きつけてくるので好感度を下げてしまったのかとビビっていると、主人公が「よかった、喜んでくれたみたいだ」などと言っているのでようやっと好感度を上げたとわかる、という仕組みです。   ――おいおい兵頭よ、知らないのか。それ、「ツンデレ」や!  はいはい。  何しろ実際、ゲーム中でも彼女のリアクションを評して主人公が「ツンデレな腐川さん」と言ったりもしています。  ですが、ちょっと考えてください。 「ツンデレ」という時、一般的には「高飛車な美少女が素直になれず」といったものがイメージされるように思います。事実、この言葉が流行りだした時点では、確かにそれが一般的だったでしょう。例えば、ハルヒ的な生意気な少女が最終的にはヤレヤレ君に主導権を渡すという図式が、その典型例でした。  この辺、上に例に挙げた80年代の面堂終太郎が「70年代的二枚目の裏読みキャラ」だったことを思わせます。「バブル期的強気少女の裏読みキャラ」として、まずツンデレは出てきました。  が、昨今、ツンデレキャラは変容し、言わば腐川のようなバリアントが生まれてきたわけです。  端的に表現すれば、高坂桐乃から黒猫への変貌。  換言すれば、ツンデレからクーデレ、ヤンデレへの移行。  分析すれば、「強気少女の、幼児的万能観故のツンデレ」から「ネガティブ喪女の、低い自己評価故のツンデレ」への転換です。  この両者が絶対的に違うことは、キャラのヴィジュアルをイメージすれば一目瞭然ではないでしょうか。  例えばハルヒが(チビのクセに)ふんぞり返って上から目線でものを言うキャラだとすれば、腐川は恨めしげにこっちを見上げてくるキャラです。  上に挙げた「優しくしてくるなんて許せない」的逆ギレ発言なども含め、何だか『絶望先生』に出てきた「敗者の上から目線」という言葉を連想させるキャラです。つまり彼女はモテないからこそ男子に対して卑屈である一方で、場面によっては高圧的にもなってしまう、そうした難儀さを抱えたキャラのわけです。  これはもこっちがリア充に対して上から目線の怨嗟の念を吐くのと同じであり、オタクの世間やアニメ作品に対する屈折した対応に似ているとも言える。考えてみれば、フェミニストの言動もまさにこれです。更に言えば『かってに改蔵』の名取羽美がいざとなると妙に気弱になることも、ちょっと連想してしまいます( ←伏線 )。  それでは、一体全体、よりにもよって、何故そんな難儀なキャラが流行りつつあるのか。  それは言うまでもなく、「現実をフィードバックしたから」です。  繰り返しますが、ハルヒ的なツンデレキャラは、バブル期に流行った高飛車女に対する「裏読み」キャラです。  しかし、そうこうするうちにも現実の女性たちは見る間にパワーを失っていきました。  そうなってはもはや、そうしたキャラにはリアリティを持たせられなくなってきてしまう(事実、本作に出てくるセレスも高飛車キャラではあるのですが、いささか浮世離れしたアンリアルなキャラとして描かれました)。  ある種、今の世の中で一番リアリティがあると言えるのが腐川であり、もこっちといったような喪女キャラである……。  え?  はい?  すみません、もうちょっと大きなお声で……あぁ、はいはい。  気になっていた方もいらっしゃるかと思います。  彼女は「腐川」という名前のクセに、何でオタク文化を嫌っているのだ、と。  もこっちはオタク女子なのに、腐川はオタク女子ではないのか、と。  はいはい。  ここでいよいよ大きなネタバレです。  今まで説明してきた卑屈で抑圧的な喪女キャラ、腐川冬子。  彼女は作中で驚くべき正体を現します。  以下、pixiv大百科から一部、コピペることでご説明しましょう。 ジェノサイダー翔とは、スパイク・チュンソフトのゲーム『ダンガンロンパ』に登場するキャラクター。 主人公の苗木たちが学園に入学する前から世間を騒がしている連続殺人鬼。 被害者は主に10~20代の男性で共通しており、凶器の鋏で相手を滅多刺しにした上で磔にし、現場に被害者の血で「チミドロフィーバー」の血文字を残すなど、猟奇的な殺人方法を用いる。 ジェノサイダー翔の正体は、超高校級の文学少女・腐川冬子のもう一人の人格。 つまり、腐川冬子は二重人格なのである。 肩書きは超高校級の殺人鬼。 自作の鋏(マイ・ハサミ)を常備しており、殺人の際はこの鋏を使って犯行を行う。 普段の彼女からは想像できない不敵な笑みと異様なほど長い舌が特徴。  普段の根暗でネガティブな彼女とは対照的に、色んな意味で感情豊かでかなりハっちゃけた性格をしている。趣味嗜好も真逆で、純文学しか認めない腐川に対しジェノサイダー翔は自らを貴腐人と称するほどの腐女子で、発言もかなりギリギリなエログロ要素が含まれた台詞が多い。そのため両者共にお互いを毛嫌いしている。ただし、十神白夜に対して好意を抱いていることは共通している。 ちなみに、両者の人格は「知識は共有していても記憶は共有していない」らしい。  ――何と言うんでしょうか、『ダンガンロンパ』の作品イメージを知らない方は、いきなりのぶっとんだ設定に、驚かれたのではないでしょうか。  ぼくもアニメ版を見ていて驚きました。  が、その驚きは設定の奇矯さに対してというよりは、ジェノサイダー翔の人格が発露することで、腐川のキャラクターが完成したように見えることに対して、そのキャラクターの完成度に対して、であったのです*3。 「どこがリアリティがあるのだ、メチャクチャ浮世離れしたキャラじゃないか」と思われた方もいるでしょうが、それはそうではない。この浮世離れした設定を導入することで、腐川のリアリティは完成しているのです。  ジェノサイダー翔のはっちゃけたキャラは、腐川が普段、抑圧している部分が表出されたものです。  だからこそ彼女は自身を「貴腐人まっしぐらの腐女子」と称するのです。  彼女と同じオタクキャラ、山田君も萌えアニメにハマっていながら、「いや、ぼくはこれを萌えアニメとして見ているわけではない、その優れた作品性をこそ評価しており云々」と言い訳するシーンが登場します。オタクにありがちなポーズなのですが、当然、山田と仲良くなると、彼が件の萌えアニメの薄い本を作っているという事実が明らかになっていきます。 「腐川冬子とジェノサイダー翔」はその「オタクのポーズと、そのポーズの下の本音」を更に戯画化して描いたキャラでした。    考えれば「超高校級の殺人鬼」という設定、「ジェノサイダー翔」「チミドロフィーバー」なんてネーミングセンスが厨二そのものです。恐らく彼女と黒猫は、趣味があうのではないでしょうか。  実のところ、ジェノサイダー翔が作中で殺人を犯すシーンは、存在しません。  それはむろん、直接にそれを描写してしまうとさすがに感情移入しにくいからでしょうし(コロシアイこそがテーマの作品とは言え、他のキャラたちが殺人を犯すのは基本的にやむにやまれぬ事情があってのことでした)、そもそも他のキャラたちもスイマーという設定でありながら水泳のシーンがないとか、同人作家という設定でありながら同人誌が出て来ないとかそんなのばっかりでしたし、それは作品の性質上、そうした描写がしにくかっただけのことかも知れません。  しかし、ここで「ジェノサイダー翔」を、「 腐川の妄想上の自分 」と考えると、非常にしっくり来るのです。つまり、腐川がノートに描いた「こうありたい自分設定」であると。 「萌える男子を殺す」というのはむろん、「男に求愛しまくることの象徴的表現」であり、それは腐女子が「好きな男子を紙の上で陵辱する」のと変わりありません。 彼女はゲラゲラ笑いながら(ことに主人公などの扱いやすい男性に対してはなれなれしく)下ネタを連発してくるのですが、これなど単なる「本性を現してセクハラしまくっている酔っ払いオヤジ」です。大体において「男勝りのきっぷのいい女」という自己イメージを持っている女性というのは、実際のところは品のないオヤジを更に品なくしたような存在ですが(学問上の地位を盾に男子学生をいじめるフェミニスト学者、 ギョーカイの地位を盾に貧乏ライターをいじめるフェミニスト作家 などを見ていると、それがわかるのではないでしょうか)要するにジェノサイダーはそれを「萌え化」したキャラであると言えるのです。  そして――いきなりで恐縮ですが、こうした「女性の正体、本音を暴くこと」こそが萌えの、ツンデレの本質なのです。  ぼくは 著作 において、「ツンデレ」を凋落したバブル女の強がりを、オタクが愛を持って「美化」した姿だと表現しました。そしてまた、強がる女性の弱い「本音」をスカートめくりよろしく晒してしまったものであるとも。ツンがスカートでデレがパンツです。  一方、スカートを履きながら、パンツを見られまいとすること(イケメンにだけ見せようとすること)こそが女性性の本質であることは、言うまでもありません。BLは「性的に欲望される私」を受けである男子に代行させることで、自身の身を安全圏に置く、言わば自分のパンツを受けの美少年に履かせるという、女性性の難儀さの表れでした*4。 「 男子のスカートめくりと女子のめくられまいとする丁々発止 」を紙の上で行っているのが萌えであり、BLなのです。  腐川さんというキャラは、「喪女が必死に隠しているパンツを盗み出して晒し者にした萌えオタどもの憎むべき犯行」という側面がある一方で、しかし、「そのオタはパンツにホンキで萌えてもいた」という両価性のあるキャラでした*5。  お断りしておきますが、ぼくは「腐川さんはリアルに考えればブスな腐女子だが、そこを萌えキャラっぽく可愛く描いたのだ」などとつまらぬことを言っているわけではありません。  難儀な女の「内面」を鋭くえぐり出し、その内面にまで萌えるというアクロバティックなことを実現してしまったのが、この腐川さんなのだ、と言っているのです。  だからもしですが、この先日本が貧しくなり、女性が今にも増して不幸になったとすれば、それを全て男性のせいにする更なる支離滅裂なレトリック、超フェミニズムみたいなものが出てくることもあり得ましょう。  その時、恐らくぼくたちは更に頭をひねってそうした女性たちを「萌え」化させていることでしょうが……しかしそろそろ手打ちにした方が、という気もするのです。  オタクは、女の子の美化に努めてきた、一種の美化委員的です。  そのオタクたちさえも、とうとうこんな形でしか、今の女性たちを描き出すことができなくなってしまいました。  この辺りが潮時では……という気も、やはりしてしまうのです。 *3その驚きは当ブロマガの『 夏休み千田有紀祭り(第二幕:ゲンロンデンパ さよなら絶望学問) 』、『 夏休み千田有紀祭り(第三幕:スーパーゲンロンデンパ2 希望の学説と絶望の方向性) 』に如実に表れています。何しろ最初の作品を書いた時、ぼくは腐川さんの多重人格設定を知らずに「フェミ嫌いの腐女子」としたのですから。後半ではジェノサイダー翔に準えて「実はフェミニスト」としたのですが、悪くない翻案になっていると思います。 *4と、同時にフェミニズムもまた、「男女関係におけるネガティビティの全てが男のせいである」との強弁を弄することでブスがいい女になろうとする窮余の策、出来のよくないツンデレであることは、もはや詳述するまでもないでしょう。 *5本ゲームでは親しくなれば腐川さんのパンツをゲットできるのですが、そのパンツは「普段は不潔にしている腐川さんだが、たまたま洗い立てなので清潔であった」という実に難儀な説明が加えられています。
兵頭新児の女災対策的随想
「女災」とは「女性災害」の略。

男性と女性のジェンダーバイアスを原因とする、男性が女性から被る諸々の被害をこう表現します。



このブログでは女性災害に対する防災対策的論評を行っていきたいと思います。