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冬至さん のコメント

 ジェンダー論争が盛んではない日本において、
なぜかフェミニズムに分類されやすいレズビアンやホモセクシャルの方々からすれば、
ただ男である女であるを基準として語られている女性学や男性学の現状を鑑みて、
その思想を名乗るというこで、自分をフェミニストだと位置づけられません。

 そして、それが論理的てきではないと指摘されたいようですが、
それではまるですべての鴉は黒い、ゆえに黒い鳥のすべてが鴉であると結論づけ
るそれまさにそれではないのでしょうか。ざんねんながら、思想を二極化すること
答えを容易く出しやすい利点とともに、そこにある多様性を見落とされています。
 
 また、私がホモセクシャルをフェミニズムの一部と
捉えていると指摘されますが、ホモセクシャル・レズビアン
の同性愛について語られやすい、性の解放として論議されているコミュニティの
ひとつが、フェミニズムの場であることは知っていますか?
(ただ、そのフェミニズムのだけでなく、アセクシャルという考えは日本で多くの
人が知ることではない現状ですが)
 また、ホモセクシャルをフェミニズムであると断言するようにとれるように
書いたのならばともかくとして、なぜかと疑問詞を前において強調していることが
抜けています。

 「男性の権利は男性の問題~」と書いた覚えもありません。
 「男性の権利もまた皆の問題、ですが、それに対して直接の働きを望むするのなら
ば、その当時者が主体的に動く案件である」ことを指したいのです。
 その論議のいっかんとしてのフェミニズム批判であるといいます、まず向けるべき
矛先が違います。
 何度もホームレスの例をあげて強調されていますが、それを見過ごしている
人々は女性だけではないのです、男性が弱者になったときに救済の機会がないこと
理解をしながらも、声をあげない男性たちの存在を見落とされていませんか。
また、男性が声をあげにくいとされている現実の根底にある、男性は強いから保護
されるべきだという社会の暗黙こそに矛先を向けるべきなのではないのでしょうか。
 第一に声をあげずに救いだけを望むのは無理があります。歴史的に見て、
人権運動のはじまりは社会に対して不当な扱いを受けていると自覚した人々が、
その目的目的に沿って運動をしたからこそ、声を上げてこそ打破される現実に
対し、声をあげずに助けを求める姿勢をとりつづけることこそが、
わがままなのではないのでしょうか。

 また、フェミニズと社会の情勢というものは不分化です。
 否、人が社会的な生き物であるのならば、その社会に起きた歴史的できごとが
あらゆる思想に影響をおよぼさないはずがないのです。
 第一に、米国や英国でのフェミニズムの起こりは、第一次世界大戦において
女性が欠員の補充として社会に駆り出されたことにくわえて、文明の発達があります。
それによって、女性の負担が減ったことで本格的に女性が外の世界へでやすく
なり、その外の世界においても機械化による女性の労働の従事が
しやすい環境がそろっていたことも女性の社会進出に拍車をかけたことは
御存知でしょう。日本においても、高度経済成長期と女性の社会進出は
密接に関わっています。その現状において、かりにフェミニズムとしてでは
なくとも、女性側が社会の構成員として声をあげないと本気でお考えでしょうか。

 武力による闘争は男性社会的なものであるという考え、つまりは既存の
男性社会的考えを肯定することとなる。を文意のままに取り過ぎています。
個人として闘争本能は男性のものであるとするのは自由ですが、これが
フェミニストにとっては「既存の男性社会(肉体的特性を殊に重要しされ、
女性性を否定される)」から「女性としての権利」つまりは「女性が女性
として在る」こと、それを「男並みになることで証明する」では運動の原点
からしてを見直されざるをえないのです。このことについてですが、私は
女性の闘争本能の否定は毛頭するつもりはありませんが、「男並みになる」
ことがけっきょくの帰結となるのか、それとも闘争本能を認めたうえでの
女性の在り方の議論は慎重になされて不思議ではないですよね。
また、この時彼女たちが指す社会とは、彼女たちの運動の起点となった
「男性型社会」ではなく、そのままに「男性社会」なのですから、その事実を
歪める表現はできかねます。また、それが男性にとって有利となるについて
ですが、それを一度認めたことで「けっきょくは男並みになることが
社会の構成員である」ことの証明として、男性に有利になると言いたいのです。
また、このコミュンティで私は性別を明示していないはずなのですが、
なにをもって私を女性と判断したのでしょうか?
 これは話がそれますが、PCの世界において、文脈や一人称・また
プロフィールですら相手を判断するに危ういですよ。

 最後に、それまで男が戦場で血を流したのは変わらないという
事実を指摘されるならば、戦中銃後でそれを支えていた女性がまるで
安全な中にいたと考えていることになりますね。
 どの時代の戦争史を見たとしても、戦場で血を流したのはたしかに
男性ですが、ひとたび戦火となれば老若男女関係なく命は危険にさらされるものです。
まして第二次世界大戦など、ことに日本では銃後とされていた女性や子供の
多くが空襲や餓えに倒れたことを見過ごされてはいないでしょうか。
 少し話をもどしますと、先に文明の発達と女性の戦場への進出もまた切り離せません。
銃の軽量化や扱いやすや、身体的にかかる負担(長期の行軍を戦車や車で補える
ようになった)が武器の発達によって可能となったからです(くわえて、自衛隊の女性自衛官の前線
配置には女性の身体的の発達もある(高身長化など)のですがね)

 あと、高学歴の女性ほど社会の進出を望んでいないとされますが、
その統計の結果に驚くべきことはありません。最近の話ではないのですよ、
高学歴の女性ほど結婚を望むのは。
 まず第一に、高学歴とされている女性たちの家庭的背景が一般的なそれよりも
       裕福であることが多いこと。
   第二に、それらの女性にとって、身近な女性としての在り方を考える材料となろう
       母親が、働かなくても生活がなりたつ世界で育ったこと。
   第三に、彼女たちは高学歴であるがゆえに、高収入の男性と合う機会であろう男性と
       合うことが多く、その男性も自分の収入でやっていることから、女性が
       家庭に入ることを望みやすいこと。
   男性もしくは女性のなかには、これはズルイという方も居られるでしょうが、
   この場合本人たちの同意の上でなされているのですから、その議論は避けましょう。
   
 また、上流階級で育った女性の周りでは周囲からして社会進出を望まないことが多いのです。
それらの階級の場合では、女性が働かなくても成り立つがゆえに内助の功を期待されやすい状況
であること、反対に中流階級がくずれつつある現代において女性が身の保障をされにくい
現状から・男性が自分の存在の優位性を求めやすいことから、女性の社会進出が
しにくい日本の現状もあるのです。
 ですが、最近は二極化と叫ばれるように高学歴の女性で
も社会に進出したい・ポストを得たいという意志がでつつあること、
それ以外の女性もまた外にでなければ生活がなりたたないという理由から
社会に進出したいという動きがあることをどのようにお考えでしょうか? 
 また、さきに上げられた数字ですが、数字とはその背景を鑑みず数字を追うだけでは
危険なものです。上記したような背景があるのでは、安直に高学歴の女性は社会に
進出したがっていない、と名言できるものではないですよね。
 
 それらの背景にくわえて、世界の各国と比較しても、日本における
女性の社会進出にともない必要となる福祉は昨今指摘されています。
 文明が進んだ社会において、多くの場合は女性が地位の獲得にむかって
外をめざすのに、彼女たちはどうしてそれをしないのか。
それを考察せずして、女性側にだけ責があるとはいえないのでは?

 またクロワッサン論争についてですが、
これはまず筆者殿が女性の晩婚の被害者である、その元凶は
フェミニストだと指摘したことについてです。
 当時のバブル前後の社会進出した女性の立場をまず考えてください、
『クロワッサン』の理念は、なにがしかの形で誰かに隷属する立場にいたく
ないとした女性が新たな生きかたとして、隷属におわる結婚の制度
へのアンチテーゼです。この雑誌を買う女性の多くは、その理念に魅かれる
ものがあったからこそ手にしたとするならば、やはりその当時女性が
どのような立場であったのかを考えてはいかがでしょうか。
また、『クロワッサン』が方針を転換した原因は、
バブルとい社会的な余裕のなさに起きた現実です。
 再度書きますが社会に余裕がなくなったときに、まっさきに切られやすい
立場であったの女性でした。
なぜ多くが女性であったのか、なぜ女性が責を追う立場を与えられなかった
のかその事実を、簡単に男も女も同じで個々の積だとするには無理があります。
 現代の状況をみて、このことを女性だけの問題にできる現実でしょうか?

 最後に、皆はクローン人間にならない限り、お互いの違いについて争い続ける~
状況を〝恐怖〟としていますが、クローン人間にでもならない限り差異はありつづける
というのに、それを無視してまわる社会、その矛盾としてどちらか片方がもう片方を
虐げる立場になるか、軋轢を無視し歯車をまわさせ決定的な破滅に向かうのでは。
これを極論だととるのならば、論争自体を「いがみあい」と表現しその結果
「恐怖」が訪れるもまた極論となりませんか。再度書きますが、論争自体が
起きない社会や共同体というもの自体が、社会としての在り方として
健全とはほど遠い姿ではないのでしょうか。
  
 私個人が考えていることは、現状においてそれを一番に主張している
女性として、女性の在り方の再考としてフェミニズムは見直される
事がらではないのでしょうか。彼女たちの主張するすべてを飲み込め、
ではなく(よくフェミニストの定義として女性優勢論者であると
考えるかたが根強いようですが、フェミニストにも派党があります。
ここ最近のフェミニズムは主論は男女が歩み寄って生きていく、
それを可能にするために必要とされる女性の視線についての見直しが
主眼に置かれています)

No.80
129ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
■おことわり■  どうも、普段は常連さん相手に細々とやっているブログなのですが、ニコ動で採り上げられ、来場者が増えております。  嬉しいことですが、初見さんにはいささかわかりにくい面もあるので、『部長、その恋愛はセクハラです!』に興味を覚えてご来場くださった方は「 ――さて、長い長い前振りが終わりました。 」以降から読んでくださった方がいいかも知れません。  では、そういうことで。      *     *     *  ドクター差別(愛称:ドクさべ)も、すっかり当ブログの人気キャラになった感がありますね。「男性差別」の専門家を自称し、「女性専用車両」に乗り込むという反対運動を行っている困った方です。とは言え、実のところぼくとしては彼については語り尽くした、「 もういいや 」という気持ちでおりました。  しかし、ここで思わぬ伏兵が登場してきたのです。  当ブログでは初登場になる、その名は白井潤アニキ。  ドクさべ同様のいわゆる「ダンセーサベツクラスタ」であり、ドクさべの信奉者。そのためぼくのことをフェミニスト呼ばわりするなど、ずっとこちらを敵視なさっていました。  が、しばらく前、アニキはガッツある行動を起こしたのです。  ごくかいつまんでまとめると、 「とある女性に自分に気があるかな? と思い声をかけたらふられた、許せぬ」 →「これはダンセーサベツだ」 →「ついては萌え絵が表紙に描かれた雑誌を持ち歩くというデモをしてやろう」  え? 意味がわからない?  いや、ぼくだってわかりません、本当にそう言ってたんですって!  何しろ経緯を、ご自身がtogetterにまとめていらっしゃったのです。  そのまとめ自体、既に消されており、ぼくも一度ざっと見ただけでなのであまり詳しいことは言えないのですが……*1。  ともあれ、アニキの先の行動の本質は、   ――俺は女が好きだ、でも女は俺に振り向いてくれない、俺は女が憎い!  というものであり、それは期せずしてフェミニストたちの切望する「ミソジニスト像」を演じ、彼女らの渇きを癒す結果となってしまっています。フェミニストの言う「ミソジニスト」というのは実のところ、彼女らの被愛妄想を前提にした「ワタシのことが好きな、しかしワタシの望むやり方でワタシを愛してくれない男」という概念に他なりませんから。彼の出現を、フェミニストは 秋葉テロ事件が起きた時の反オタク派くらい 喜ぶべきでしょう。 *1ここではギャグっぽく書いていますが、相手の女性の名前を明記してしまったりちょっと冗談で済まないものだったため、削除されてしまったのです。現状でアニキの言動を確認できるのは「 ツイッターの統失男がヤバ過ぎるwwwwwwwwwwwww 」辺りでしょうか。興味のある方は各自探してみてください。  が、アニキの言動を見ていてドクさべについて、ちょっと思い当たったことがあったのです。  ドクさべについて、ぼくは今まで何とはなしに「女に興味がないのかな」という印象を持っておりました。彼の女性専用車両乗り込み行為に、ぼくはあんまり性的な匂いを感じない。いや、ひょっとするとぼく自身もかつて「あいつ、女性専用車両に乗り込むことで興奮してるんだろm9(^Д^)」などと書いたことがあったかも知れませんが、正直あんまりそうした印象は持っていなかったのです。  ぼくが彼を見て連想するのは『モテモテ王国』の大王です。彼の中にあるのは小学生の男の子が「女ってスカートめくると泣くからおもしれーぜ」とスカートめくりはするものの、別にパンツは見ていないというような、ある種の「邪気のなさ」のように感じていたのです。  しかしこれは単純に彼の組織のホモソーシャル()な結束が、彼らをそう見せていただけのハナシかも知れません。  ぼくのうpした「 ドクター差別と詰られし者たち 」では、ドクさべの演説がご覧になれます。ここ(5:30辺り)で彼は「自分が女性専用車両に乗ると、女性たちにキモチワルイと言われた、恐ろしい話だ!」と( 通行人に )訴えて( 無視されて )いるのです。いや、それは言われたくてやってることやろ、と思うのですが……。  しかし白井アニキの行動を見ていて、ぼくはドクさべの言動もこれに近しいよな、と感じたのです*2。  それはつまり、「性犯罪冤罪を批判しようとして、何故性犯罪すれすれのことを?」という。  むろん、彼らの行動はあまりにも奇矯です。  が、その心情は何となくわかるのです。  精神分析の世界では「反復強迫」という概念があります。  フロイト先生が考えた言葉で、彼は例えば「他人との人間関係がいつも同じようなパターンで失敗する人」など、「苦痛な体験を、無意味に何度も繰り返す人」っているよな、という発見をしたのです。  フロイト先生はこれを「人間には死の欲動があり云々」と分析しました。  むろん、そんなムツカシイことを言わなくとも単に「同じやり方しか知らず、つい同じ失敗を繰り返してしまう」のだと考えた方が、話はわかりやすい。  が、やはりぼくは(フロイト先生の考えの是非はともかく)もう少しこうした傾向に、何か深い意味づけをしてしまいたい衝動に駆られる。  例えばドクさべの、白井アニキの心情を察するとして、以下のようなストーリーはいかがでしょうか。  ドクさべも、白井アニキも、かつて女に非道い目に遭った。  いえ、彼らのそうした体験を殊更に特権化する意図はありません。  この世に、「かつて女に非道い目に遭った」経験のない男など、 ただの一人もいない のだから。  それは、端から見れば他愛のないことだが、二人にとっては痛恨の極みの体験だったに違いありません。   ――俺は女にこんなにも貶められた、性犯罪者のように扱われた、許せぬ!!  彼らの中にはそうした怨嗟の念が渦巻いています。  何故断言できるかと言えば、そうした経験のない男など、 ただの一人もいない からです。  そしてだからこそ彼らは「いじめられた自分を助けて欲しくて」、「わざわざもう一度いじめっ子の輪の中に飛び込んでいっている」。今、「いじめ」と表現しましたが、女子が男子をいじめる時の手法となると、広い意味での「性犯罪冤罪」、つまり「エロい男子扱い」すること以外には、考えられません。  ドクさべも白井アニキも、「女子にいじめられたボクを助けてくれる王子さま」を待っているのです。  つまり、二人は  ――王子さま見て! 女どもはボクにこんなにも非道いことをしたんだよ!!  と訴えようとして、おかしなことになってしまっているのです。  そう考えると、二人の行動、許されるものではないとは言え、何だか哀しいものに見えてくるのではないでしょうか。  あ、ゴメン、俺は王子さまになってあげられないので 誰か何とかしてあげて 。 *2むろん、「笑えない度」では白井アニキの方が遙かに上です。ドクさべはブログか何かで「彼の行動は支持できない」と表明すべきではないでしょうか(もし既にしてたらゴメン)。  そして。  すんません、実はここからようやっと本題です。  フェミニズムの本質も、彼らと同様なものです。  ぼくは今まで、ずっとドクさべのような「ダンセーサベツクラスタ」の振る舞いを「フェミニズムのパロディだ」と指摘してきました。それは逆に言えば、ドクさべたちの振る舞いからフェミニストたちの心理をも推し量れる、ということです。  フェミニストたちの珍奇な行動の動機は、彼ら同様「報われなかった自分を、王子さまに救済して欲しい」というもの。事実、「何度もわざと一人で人気のない道を歩いて、何度も性被害に遭ってしまう女性」というのはいるそうです(これもまた「反復強迫」の一種であることはもう、おわかりでしょう)。  彼女らもドクさべ、アニキ同様、  ――王子さま見て! 男どもはワタシにこんなにも非道いことをしたのよ!!  と訴えようとして、おかしなことになってしまっているのです。  これはまあ、「フェミはブスのひがみ」という俗論といっしょですが、いずれにせよそう考えると許容はできないまでも哀れにはなって来ます。  しかし、結局はフェミニズムも「ダンセーサベツクラスタ」も自身の怨念を「一番まずい落としどころ」へとまっしぐらに落とし込もうとしており、だから「ダメだ」という評価にしかなり得ないわけですね。  ぼくは度々、「今の社会は男が女をレイプし放題の無法地帯を逆転させたものだ」と言ってきました。しかし男女のセクシュアリティの非対称性()のため、これはいささかわかりにくいリクツであったかと思います。  ですがドクさべやアニキとフェミニストたちを対応させてみれば、それがおわかりになるのではないでしょうか。 「女たちの性犯罪冤罪を訴え出ようとして、性犯罪すれすれの挙動に出てしまった」のがドクさべとアニキだとするならば、「男たちの性犯罪を訴え出ようとして、性犯罪冤罪すれすれの挙動に出てしまった」のがフェミニストです。   ――さて、長い長い前振りが終わりました。  以上のことを、今回、そして次回の二回に渡って牟田和恵師匠の著作、『部長、その恋愛はセクハラです!』を分析することで、再確認することにしましょう。  まず、まえがきから、牟田師匠はこんなことをおっしゃいます。 それに、(引用者註・恋愛というものは)当事者の男女にとっても、どう感じていたか、どう受け止めたかは、タイミングや時期によっても変わるのです。(p15)  いや、一般論として言っていることはわかりますが、「その時は合意だったのが、後からやっぱりイヤだったのだ」と後づけされては敵いません。その辺り、果たして師匠はどう思っていらっしゃるのか……ビクビクオドオドしながら、ページをめくりましょう。  師匠は厚労省の「 心理的負荷による精神障害の認定基準について 」という通達の中の「セクシュアルハラスメント事案の留意事項」という項を引用します。 ①セクシュアルハラスメントを受けた者(以下「被害者」という。)は、勤務を継続したいとか、セクシュアルハラスメントを行った者(以下「行為者」という。)からのセクシュアルハラスメントの被害をできるだけ軽くしたいとの心理などから、やむを得ず行為者に迎合するようなメール等を送ることや、行為者の誘いを受け入れることがあるが、これらの事実がセクシュアルハラスメントを受けたことを単純に否定する理由にはならないこと。  これを師匠は、以下のように噛み砕きます。  これをわかりやすく言い換えれば、 女性が喜んでいるように見えてもセクハラ であり得る、 困っているように見えなくとも実はセクハラ でショックを受けている場合もある、ということ。(p31)  言いたいことは、わかります。  いじめられている側がいじめている側に迎合すると言うことは、大いにあり得ます。例えば、殴られたくなくていじめられている側が「お金をあげるから許して」と言うなど。  しかしここで問題となるのは「職場での恋愛関係」です。  いじめの場合、「暴行」も「恐喝」も立派な犯罪ですが、「思う仕事や役職が与えられない」ことも、「性交渉が行われる」こともそれ自体はそれだけでは不当と言えないはずです。  そこへ持ってきて、見ていて眩暈がするのは、師匠の想定するケースが専ら「課長と女の部下が普通にベッドイン、後で女がセクハラだと訴えた事例」みたいな、つまり女性の被害者性が疑わしいケースばかりであることです。  そんな場合でも男性の方がエラいから女性は逆らえない、仕事上断りにくいがため、 女性が喜んでいるように見えてもセクハラ なのだ、というのが師匠の考えなのですが、そこには「女が後づけや虚偽の訴えをする」可能性に対する想像が、完全に欠落しています。  上のような事例も当然、考えられはするものの、逆に女性が積極的に自分の身体を武器にすることもあり得、それは「マクラ営業」など軽んじられる行為です。フェミニズムとは行為のそうした両義性を、完全にスルーした上でようやっと成立する、危うげな楼閣なのです。  節タイトルを見ただけでも、 「見かけは喜んでいるように見せかける(p96)」 「しみついたサービス精神――女にノーはない(p108)」 「女性はイヤでもにっこりするもの。(p125)」  と我が目を疑うものが目白押し。師匠はみんな大好きキャサリン・マッキノンを引用し、女性は相手への気配りを求められる、相手に逆らわないのが習い性になっている、だから「イエス」に見えてもそれは本当ではないのだと繰り返します。随分と古い、女性に対しての偏見に満ちた差別的意見だと思います。  お互い合意だった……、向こうから近付いてきた……、向こうだって楽しんでいた……。「事実は違うんだ」と、男性は反論しますが、 相手の女性が語る過去の事実は男性の記憶とは大きく違います。 (中略) どんな判断が下されるかはもちろんケースの事情によりますが、男性の側の主張が一〇〇パーセント通ることは難しく、男性にとっては納得できない、不本意な結論となることも大いにあります。(p67。強調原文ママ) 「 voluntary(自発的)であってもunwelcome(望まない)ならセクハラ 」と題された項ではOLが上司に嫌々ながらつきあい、公園でキスをした場合、  もしそのとき、公園を通りかかって二人を見かけた「目撃者」がいたとしても「モメている様子はありませんでしたよ、ラブラブなカップルだと思いました」と証言することでしょう。(p39)  しかし、それでもセクハラ足り得るのだ、との自説が繰り広げられます。  第三者の客観的視点でセクハラに見えなくても、それはセクハラだ、というわけです。  いえ、まだまだこれは序の口です。  牟田師匠は「 いったいセクハラなのか違うのか、女性自身がよくわからない、ということでもあります。(p59) 」と言い、『朝日新聞』での上野千鶴子師匠の人生相談の例を引き、  この相談に上野さんは、それはセクハラだときっぱりと答えてくれています。この女性は「頼れる上司を失う怖れ」があるために、イヤなことをイヤだと感じないよう感覚を遮断している、そこに問題の深い根がある、と。(p60) 女性の気持ちとしては、本当に「 セクハラかどうかわからない 」のです。(p60)  ……って本人もわからないんじゃあダメじゃん!!  いや、むろん「わからない」ならばひとまず訴えられる可能性は低い、とは思われます。が、この文章の要諦はそこにはなく、「その時は『わからない』だったとしても、後からセクハラだと考え直し、訴えられる」可能性を示唆するところにあるのです。  つまりそれは「後からセクハラだと思ったらセクハラ」という無茶ぶりの正当化であり、それでは「女が合意かどうかは知ったことか、お前が悪い」と言っているも同然でしょう。  師匠はまた、セクハラの現場で男は男の、女は女の肩を持ちがちだと言います。「女は女の痛みがよくわかるからだ」と。ここはまあそうだろうとは思います。しかし多くの場合ハラッサー(本書では「加害者」を「ハラッサー」と呼んでいます。間抜けな響きですが、本稿も一応、それに倣います)は地位があるので、男は処世術としてそれに逆らわない、だが女はそれをしない、何故なら、 もともとほとんどの女性は組織の中で出世することなど想定外ですから、上司に取り入る意味もないからでしょう。(p168)  というのはいくら何でも無茶でしょう。  フェミニズムのイデオロギーを無理に盛りすぎです。    そもそも、そこまで女性社員が会社社会で仲間外れの存在であるならば、「昇進などをエサにセクハラ」という師匠の妄想の根拠が完全に崩れ去ってしまうことになるのですが。    また、男と女がもめていれば、多くの場合、男性は女性に味方するのではないでしょうか。  以下、論法は「男たちはハラッサーを正当化しようとしてストーリーを捏造しがちだ」などと続きます。そういうことも大いに起こり得るとは思うのですが、では女たちが被害者を正当化しようとしてストーリーの捏造をすることはないのでしょうか。本書は徹底して、女性側は常に無辜の被害者、との大前提に貫かれています。  上の記述がある七章は「 周囲の方々、担当者へ 」と題されているのですが、その内容はあれをしろこれをしろ、事態の監督不行届でハラッサーの上司までが処分されることもあるぞ、女性から相談を受けたら真摯に対応して欲しい、だからといってちょっとした相談に過剰に反応してことを荒立てるのも困ると、正直、読んでいるだけでウンザリしてきます。  ぼくは「フェミニズムとはポルノである」と言い続けてきました。  言い換えるのならば、フェミニズムとは「自分のどんなワガママでも叶えてくれる王子さまがいつか現れる」という妄夢をテーマとした、「乙女ゲー」だったのです。  何だか もこっちが乙女ゲーをプレイしながら、画面のイケメンにぶつくさ文句を言っている光景 をつい、想像してしまいます。  先に書いた「今の社会は男が女をレイプし放題の無法地帯を逆転させたものだ」という言葉の意味、わかってきたのではないでしょうか。  師匠の主張は「通りすがりの女にいきなり襲いかかり、レイプした男が『女が俺を誘惑したのだ!』と言っている」状況をそのまま逆転させた図、に他ならないのです。  白井アニキの振る舞いは確かに愚かであり、悪質です。  しかしフェミニストたちは、それに対して笑ったり、憤ったりする資格があるのでしょうか……?
兵頭新児の女災対策的随想
「女災」とは「女性災害」の略。

男性と女性のジェンダーバイアスを原因とする、男性が女性から被る諸々の被害をこう表現します。



このブログでは女性災害に対する防災対策的論評を行っていきたいと思います。